第36話 夫婦

 太后は巨大な鋭い歯でハザンを噛みつこうとする。


 ハザンは壁際に走る。それを太后が捕らえようと爪を立てた前足で壁ごと叩きつけた。


 ハザンがいた場所が次々とひびを立てて割れ、最後の一撃は窓を突き破った。


 その間を見計らって、走りながらハザンは鉄杭を放つ。2発は外れたが、1発は太后の顔に刺さったみたいだった。太后は小さく呻きを上げた。


 ベイクは後ろに回り、剣で蛇の尻尾を斬りつける。案外2本の尾はあっさり切り落とせた。


 それを見計らい、カーは胴体に近づき、斧槍を振り上げた。その瞬間、太后の体が一瞬瞬き、カーの周囲の空気に火の手が上がる。ベイクは急いで走り寄り、カーに飛びついて押し倒した。


 倒れ込んだベイクの背後に炎が上がる。そして消えた。


 太后は窓から前足を引っこ抜き、反撃しようと体を反転した。


 こちらを向きそうなのでヘカーテとルーザは壁際づたいに移動した。


 しかし太后の反転は予想以上に早く、太后の左前足はすでにハザンを捕らえようとしていた。すんでで横に飛び避けはしたが、ハザンの服が、太后の爪に引っかかり、そのまま壁に叩きつけられた。


 ハザンは頭を打ち、少し意識が遠のいた。なおも壁に前足で服を吊られた形で押さえつけられていた。


 太后はもう1本の前足でハザンを仕留めようと振り上げた。そこにベイクが現れ、剣を振りかざした。


 その瞬間、爆裂音が轟き、ベイクは目の前が真っ白になった。次には後頭部に衝撃を感じ、床の上で自分が吹き飛ばされたのに気づいた。


 「ベイク」ルーザが叫んだ。ベイクは太后が放った爆発で、ルーザ達の足元まで飛ばされたのだ。ルーザはすぐにベイクに治癒をし始めた。軽く皮膚は焼けていたがひどくはない。ただ目と耳をやられていた。


 太后は残る右手をハザンに突き立てようと思ったが、横から放たれた斬撃を爪で受け止めなければならなかった。


 「くそったれ」カーは力一杯振り下ろそうとするが、ハザンを左足で吊し上げたままの太后に敵わない。しかし太后も右足で、カーの斧を必死で受け止めていた。2人ともが負けじと力を入れて震えていた。


 カーの足元でまた小さな爆裂が起こる。カーは右足に痛みを感じて、体勢を崩したカーに、ハザンを振り外した太后が力一杯正拳を放つ。カーは何とか腕を上げて防いだが、ものすごい力で、衝撃で後ろに突き飛ばされた。


 ハザンは身が自由になり、短い剣を腰から抜き、太后の背中に斬りつけた。しかし、硬い毛のせいであまり深い傷にはならない。振り向いた太后は口を開け、中から勢いよく氷の塊を吐いた。それは拳大の硬い氷で、ハザンの脇腹に当たり、肋骨辺りから骨が折れる音がした。


 脇を押さえて膝をつくハザンを太后は見下ろし、とどめを刺そうと身を起こす。前足を両方振り上げた、その瞬間。


 太后は息苦しさを覚え、喉を押さえて身悶えた。あまりの苦痛に体を退け反らせ、ハザンの前から、また絨毯の方へと転がる。


 「ルーザ」ベイクが身を起こして見ると、ルーザが手をかざして太后に窒息させる術をかけていた。


 「今よ」ルーザが叫ぶ。


 ベイクは目をこすって立ち上がり、走って身悶える太后に向かって行った。剣を振り上げて、胴体に斬撃を浴びせようとした。


 刃が当たるかという瞬間。太后の体がばちばちと痙攣し始め、辺りの空気が爆裂した。


 ベイクはまた吹き飛ばされた。背中を石の床で擦り剥く。ハザンは脇腹を抑えて立ち上がっていた。カーは出血する足を、手で押さえて太后を見た。


 「そんな」ルーザは愕然としていた。


 太后は息を荒げて、絨毯に寝そべり、息を整えていた。窒息しそうになった体に、必死で酸素を取り込んでいたのだ。


 「術が効かないなんて」


「そんな」太后は苦しそうに言った。「そんな遊びみたいな術は私には効かない」


再びベイクが立ち上がり、剣を振りかざして走る。すると素早く黒い獣は4本足で立ち上がり、跳躍した。黒い巨体はとても高く飛び上がり、吹き抜けの天井まで届きそうだった。


 太后は下を向き、その大きな口を開け放って炎を吐いた。


 巨大な炎が頭上一面を覆った。熱風が5人を押し潰し、焼き尽くさんと落下してきた。


 「ああ」頭上一杯に広がる火炎を見てヘカーテは死を覚悟した。一面の火の天井。熱さと眩しさでまともに目が開けられない。


 ハザンはルーザを探した。死ぬなら彼女と死にたい、そう思った。しかし目に飛び込んできたのはカーだった。彼は上を見上げずどこかを見つめていた。


 その視線の先にはルーザがいた。立ち上がり、手を胸の前で組んで何かを祈っている。いや、口が動いていて、何かを詠唱しているみたいだ。


 次の瞬間、迫りくる炎が止まった。部屋のある高さに迫ると消失し始めたのだ。途中で炎が何かに飲み込まれ始めて、下まで到達できずになくなっていく。


 ルーザがよろけて倒れ込む。残ったわずかな炎が降り注ぐ。ハザンはその残り火を防がんとルーザに走り寄り、押し倒し、上に被さった。


 辺りの床は部分的に焼けてはいたが、ヘカーテもベイクもカーも無事なようだった。


 ハザンが抱き起こして見ると、ルーザの額には汗が流れ、息が切れていた。苦しそうだったが無言でこちらに笑いかけて来た。


 「おのれ、真空波を」声は横から聞こえた。太后はすでに地上に帰って来ていた。


 「あんな巨大な真空を作り出すとは」太后はハザンとルーザに歩み寄る。「まずはその女を殺す」


 カーは血塗れの足を引きずり立ち上がった。ベイクはすでに走り出していた。歩み寄る太后を睨めつけながら、ハザンはルーザを抱きしめていた。


 しかし、そこに1番にたどり着いていたのはヘカーテで、彼は武器も持たずにルーザ達と太后の間に立ちはだかった。


 「ヘカーテ、どけ」もうすぐベイクはたどり着きそうだった。「そこをどけ」


ヘカーテは迫りくる太后が恐怖で仕方なかった。しかし太后の前からどかなかった。顔も背中も、脇も汗でびっしょりで、足が震えているのではないかと思った。


 殺されて時間を稼ごうと思った。



 歩いて来る太后の体が一瞬止まった。いや、立ち止まる。足元に突如として、白銀のランスが突き刺さったからだ。


 ヘカーテは何が現れたか分からず、その床に刺さったランスを見つめていた。見るとベイクもカーも、同じところを見つめている。目を追うと、2階部分の窓から、ゆっくりと壁を歩いてやって来る白銀の騎士がいた。まるで重力が真横に働いているように、壁を歩いて降りて来る騎士。真っ白に照り輝く甲冑を、自身が乗る馬にも着せている。


 「あれは...」太后が言った。


 「あの騎士は...」ハザンが呟く。


 「みんな待たせてある。エライザ。いざゆかん」白銀の騎士は静かに言った。


「その甲冑は。貴様誰だ。なぜ我が夫の甲冑を」


「自分のものだからさ」ベイクが言った。


 「迷惑をかけたな。理由があるのだ」騎士は床に降りて、ベイクの方へ話しかけた。


 「なんとなくわかるよ」ベイクが言った。


 「私は魂となりて、ずっと我が妻と愚息達を止めて、葬ってくれる者を探していた」


「うそだ。うそをつくな」太后が喚いた。


 「私1人の力ではどうする事も出来なかった。それほどエライザの法力は巨大化していた。私の魂が妻に捕らえられれば、もはや悪事を伝える者はいなくなってしまう。私を取り返した事で、彼らが愚行を辞めようが続けようがな」


 カーは、その美しい甲冑に見惚れていた。ハザンはヘカーテの手を引いて、ルーザと共に自分の傍に手繰り寄せていた。


 白銀の騎士は兜を脱いだ。そして長い髪を首を振って整えた。


 ベイクは今まで見た事もないほどの美男子だと思った。彼は若く、青年だった。


 妙な音がして、ベイクが太后を見ると、黒い口から泡を吹き、白目を剥いて涙を流していた。どうやら、発狂したようだ。


 太后は凄い勢いで走り寄ってくる。全てをかなぐり捨てて、飛びつこうと無防備で襲いかかってくる。


 ベイクが若かりしギルガンを見ると、彼は険しい顔をして頷いた。


 ベイクは白銀の剣を握りしめ、走って来る太后の首を切り落とした。



 5人はその場に尻餅をついて黙っていた。疲労のせいもあるが、気持ちの整理をする時間が必要だった。


 ギルガンは立ちすくんでずっと太后の死体を見つめていた。


 「剣を返すよ」ベイクがギルガンに話しかける。しかしギルガンは無言で、手だけをこちらへ向けて、白銀の剣を受け取った。



 ベイクはそこにおれず、宮殿の外を覗きに行く。すると目の前に、狐が5匹立っていた。


 「済みましたか」狐が言った。


 「来たか」ベイクが言った。「やはり世界は繋がっていたか」


「左様でございました。船着場に我らの船がお迎えに」


 「初めての造船にしては見事なお手前だ。ここまでたどり着くとは」


「ベイク様の地図が正確でしたので。丸太を繋げただけの物ではございますが」


 「おーい」ベイクが振り返った。「迎えが...」


 振り返ると、4人はこちらを見上げたが、すでにギルガンと太后の遺体はなかった。

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