第3話 濃霧

 「ベキャベリさん」


「ベイクと呼べ」


「ベイクさん」


「なんだ」ベイクは乾物屋で珍しい干し肉を夢中に眺めている。店舗は狭いが、所狭しと商品が並んでいたり吊るされている。鶏、豚、牛、鹿、兎、猪、鳩。干した蛇や鼠、蜥蜴、蛙なんかも陳列されていた。味に疑問が残る野生動物の方がやけに高い。


 「あの妖精石を知ってるんですか?」


「ああ。昔呪いをかけられてから城の図書館に篭った事があって、そこでそれについての本を読んだ事があるんだ。いくつかの本に登場して、不思議な石だと紹介されていた。硬くて高熱に溶ける、硬い石だと」


「なるほど。刀剣に使えそうな材質を調べているとおっしゃってましたもんね」


「ああ。城を出てからもずっと漠然とは探していた。もう諦めかけていたんだが。それはそうと、お前も行くのか?」


「え?」


「俺が調査して、帰ってから事業としてお前が乗り出しても良いんだぞ?」


ヘカーテはしばらく考えた。「足手まといになりそうですか?」


次はベイクが考え込んだ。


目の前で友人を死なせてしまった事がベイクの脳裏を過ぎる。


 「足手まといになんかならん。剣は少しは上達したのか?」


「さっぱりですね」ヘカーテはごまかすように歯に噛んだ。


 あれを。払拭したい。でないと誰かといられなくなる。


 「条件がある」ベイクは言った。「しっかり武装して挑んで欲しい」


「...。分かりました」


 2人は保存食を買い込んだ後、武道具屋に向かった。


 2人は馬に荷物を引かせるかどうかを話し合ったが、結局自分達で背負って持って行く事にした。越えなければならない山は、さほど高くはなかったのだが、道なき道を進まねばならないらしい。


 2人は街の外れ、農村に近い、静かな空いた

旅籠に宿を取った。パーナットには行商人がたくさん集まるので、こういった素泊まりの出来る旅籠が数多くあり、値段やサービスも幅広い。彼らが泊まったのは古くて安い旅籠だ。


 その日の夜、2人の昔話に花が咲いた。こうして改めて昔の話をするのは初めてで、ベイクも王宮にいた頃はこんな話が出来なかった。生死をかけた仕事であったし、責任もあったため、ずっとそれどころではなかった。

 ヘカーテも、これほどリラックスしているベキャベリ将軍を見るのは新鮮で、まるで全く別人にさえ感じられた。2人は葡萄酒を飲み、昼間買ったパンや干し肉をテーブルに広げて酔い潰れるまで飲み明かした。



 翌朝、出発前に仲介人に一声かけると、彼は事務所から出て来て見送りをしてくれた。


 「良い知らせをお待ちしておりますよ。ご無事で。無理なさらずに」


「ありがとうございます。何か見つかれば必ずご報告させて戴きます」ヘカーテと彼には既に信頼関係が出来ているらしく、深々と挨拶をして去った。


 「先ずは山を登って越えないとな」ベイクは歩きながら、バックパックの重さを確かめていた。


 「この鎖帷子というのは重いですね」ヘカーテは、革の防具の下に着込んだ鎖帷子に戸惑っていた。王宮にいた頃は、あれほどほつれを直したり、繋げたりして修理してきたのに、自分が着るのはそれが初めてだった。


 「ヘッドギアもしとけよ」


「は、はい」かなり暑い日ではあった。

 

 港町、工業地帯、商業区、農村地帯と見事なコントラストが見れるパーナットは、海を離れるごとに喧騒が消え、のどかな風景が広がる。荷物を背に2人は歩き、やがては広大な麦畑の真ん中を歩き、完全に街から出るまで1時間はかかった。それから山にたどり着くまで2時間。山のたもと付近で昼食をとるにはちょうど良い時間だった。


 風景はずっと草原で、周囲も余り森林がない。


 たどり着いた山も、緑はまばらで、岩肌が見える所もあり、急な斜面ではないが、登って行くのに疲れそうな山だった。


 2人は山のたもとで少し休憩した後、登山を始めた。木陰は涼しかったが、日が当たる場所は暑く、それが登るたびに増していく。特に鎖帷子を着込んだヘカーテには耐えきれないくらいだった。


 やがて日が陰り、山から見渡すと、パーナットから覗く水平線にお日様が沈み始め、巨大な港町を黄色く染める。夕方になる頃には山頂近くまでたどり着いて、もうじき山の向こう側まで見えそうだった。


 2人は今日中に山を登りきれると思っていなかったので、嬉しくてペースが速まる。


 日が沈んだ頃、山頂にたどり着いた。恐らく1番高く周りを見渡せる場所に登り着いた時、2人は向こう側の光景を見て黙り込んでしまった。


 「何にも見えませんね。そんなにまだ真っ暗じゃないのに」


「この向こう側にも山があるみたいだな」ベイクが言った。


「そうです。山の合間に川が流れているようですね」


「なるほど。渓谷なんだな」


「なぜ下が見えないのでしょうか」


「霧だ。谷底からずっと深い霧がかかっているな」


霧の深い斜面はもう山の裏側すぐから始まっていて、降りるのを躊躇してしまうほど危険な視界だった。ここから自分達が歩く足元が見えないくらいに。まるで我々を歓迎していないかのような濃霧。前人未到なのはこのせいなのだろうか。


 2人は山頂の木のたもとで一晩明かす事にした。



 翌朝、早くからベイクはヘカーテと縄で体を結え付け合い、2メートルくらいしか離れられないようにした。腰ほどかがめば地面が見えるが、立ったままだと地面が見えない。非常にゆっくり降りるしかなかった。


 辺りは静まりかえり、霧が音も遮断してしまっているようだった。湿気が冷んやりしていて妙に鼻や口に心地よい。山頂は朝日が照っていたが霧の中は薄暗く、まるで狭い密室にいる錯覚に陥りそうになった。ヘカーテはこんな経験がなく、怖くて仕方なかった。


 「大丈夫か」


「はい」


2人は一定の時間が経過するとお互いに声を掛け合う。


 降り始めて1時間が経った。ヘカーテは霧で鎖帷子が冷えて、身体がかじかんできた。降ることに段々寒くなっていく。

 奇妙にも、歩いていて木も灌木もなかった。雑草さえ生えておらず、枯れ草と砂を踏んでいる感覚しかない。


 2時間が過ぎた。2人にはもっと多くの時間に感じられた。どこかから2人を見ている者がいたなら、まるで暗闇を進んでいるように見えていただろう。目の焦点や瞳孔がおかしくなりそうなのを、自分の手を見て確認する。


 3時間下り、そして4時間が経過した。さすがにベイクも、回り道をしてしまっていて、真っ直ぐ降りられていないのではないかと感じ始めた。いつまで降りても一向に霧が収まらない。日の光も遮断されて、今が昼なのか夕方なのか分からなかった。でもまだ日没ではないはず。


 2人はしゃがんで休憩した。各々が水筒を取り出し水を飲む。


 「どうしたものでしょうか」ヘカーテはすっかり弱気になっていた。


「これは霧が深すぎる。もしかしたら術によるものかもしれんな」


 「術!誰かが外部からの侵入者を退けているんですか?」


「今まで破られた事がないとすると、どうやったって、この霧を退ける事は出来んだろうな。自然現象を増長させる類の術は、破るのが厄介だ」


「まさか、このままずっと降り続けないといけないとか?」ヘカーテはさらに弱気になる。


 「あり得るな。力尽きるか、意識を失うまで下らされるかも」


 ベイクは立ち上がり、おもむろに仁王立ちになった。そして体をリラックスさせて、精神を集中させた。


 水面が収まるのを待つように、自我を消し去り、全ての五感を消し去る。これは彼が体得している、超自然的な術に対抗するための人間の原始的な英知、術破り(スペル・ブレイク)を行う過程と真逆の作業だ。彼は普通の人間には出来ない2つの能力を持つ。


 彼は神聖術を執り行った。体に神の御力を宿し、悪しき者に聖なる祝福を授ける。身体が白い光で輝き、増していき、彼を視点に放射状に発散していく。


 ヘカーテは目が眩みそうになり、腕で目を覆った。ベイクが何をし始めたか、まともに見られなかった。眩し過ぎて目が潰れる思いがした。


 光の風が静かな山に飛び散っていく。


 静寂。霧は晴れない。


 「悪しき力ではないのか」ベイクはよろけながら呟く。


 「将軍の神聖術でも...」ヘカーテはうつむいてしまった。


 その時、 緩やかに、空中に筋が走った。均一な霧にムラが出来た。霧に空気が混じり始め、霧の形が見え始めた。

 霧が割れる。2人を避けるように視界が開き、地面が導く。


 出来上がった地面と空気の道を2人は導かれるままに下る。途中、どこからあらわれたのか豆粒ほどの光が先導し始め、まるで生き物のように2人をガイドしだした。


 「蛍か?」


「蛍みたいだが、違うようだ」


 光は2つ、3つと増え、10を数えるほどになり、遂には霧の中に消えた。その霧の中へ、追いかけてベイクとヘカーテは飛び込む。


 2人は気づくと、無数の光が瞬く、薄暗い谷底に到着していた。


 

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