8章(10)
そこは五階だった。
本社ビルの最上階で、社長室と応接間、会議室、それに経営戦略局のオフィスがある。いま僕の立つ位置から、自分の机が見えている。
最初の違和感は臭いだった。
まるで、空気中に薬品がばら撒かれているようだ。
三年半、まったく違う環境にいたせいだろう。機械や衣服の化学繊維や芳香剤が発する香りを、体が不自然なものだと判断している。
一歩、聖具室の外に出た。
振り返ると、石造りの小部屋が消えて、
現実に頭がついていかない。
何をするんだっけ。
――月島さんの社員証を渡す。
誰に?
――晴川に。
やってはいけないことは?
――寄り道。
自問自答しながら、オフィスの出入り口で立ち尽くしていた。
「あれ、課長? 局長と打ち合わせに行ったんじゃ……?」
部下の林が僕に気づき、
早い段階で命を落とさなかったら、中世イタリアでも活躍したに違いない。
「どしたんすか、髪型とか服とか――えっ、つーか、なんか急にマッチョになってません? 課長ですよね?」
ちょっとしたパニック状態だ。
僕が逆の立場だったら、同じ反応をしただろう。
「長くなるから、今度話すよ」
「あー、なんかヤバそっすね……」
林はまだ動揺していたが、かかってきた電話の対応で会話が途切れた。
ゆっくりしている時間はない。
ここでするべきことは――
自分の机のサイドチェストから、魔法瓶と封筒を取る。
鞄を探り、財布から千円を抜き取って席を離れた。
廊下に出たところで、社長室の方から歩いてきた虎丸さんとすれ違った。
ぞろぞろと部下を引き連れている。村越の姿もある。
激しい動悸に襲われた。
体感では、つい十五分前まで命のやりとりをしていた相手だ。
虎丸さんが振り向きざま、怒鳴った。
「茶山、おい、くっせえなおまえ! 野良犬か! 風呂入ってんのか」
そう言われるのも当然だ。中世イタリアでは服を洗う洗剤などなかったし、風呂は数日に一度。そのうえ、激しい戦闘で汗をかき、血を浴びてきたばかりだった。
「……すみません!」
肩越しに謝り、早足で次の目的地に向かった。
晴川は、寄り道をせず自分に直行しろと言った。
それに従うつもりはない。
階段を使って一階下に降りる。
管理局のオフィスに、弓鳴がいた。
やけに化粧が濃いと感じたのは、さんざんすっぴんの顔を見ていたからだろう。
PC画面を睨み、キーボードを叩いている。
とても不機嫌そうだ。
彼女は三年半を一緒に過ごした弓鳴真記ではない。
それでも――
生きている。
ただその事実だけで、涙がこぼれそうになった。
その他にも、局長の席に朽木さんが、経理の部署に杉田由香が、広告宣伝部に田島日南子がいる。そういえば彼女は、教皇軍との最後の戦いで亡くなったのだった。
「茶山くん。どうした?」
朽木さんが僕に気づいて声を掛けてきた。
口調に警戒心が
経営戦略局の人間は、けっして愉快な用事ではやってこない。
「弓鳴……さんに、少し用事が」
そう言うと、弓鳴が顔を上げて僕を見た。
その目に、鮮やかな敵意が
僕は弓鳴に近づくと、小声で言った。
「おまえだけだ」
「……っ、それ! なんで知ってるんですか!」
弓鳴が目を丸くして、椅子から立ち上がった。
「そっか……茶山さん……、そう、だったんですね」
何か誤解が生じている気がする。
「その話は、また今度」
「ぜひ」
明るくうなずいた弓鳴の顔が、見る間に曇っていく。
いま弓鳴は森口の死を僕のせいだと思い込み、『腐れ七三』と呼んで憎んでいるはずだ。
趣味の話で瞬間的にテンションが上がったものの、すぐに冷静さが戻って、
「じゃあ、また――」
「あ、茶山さん!」
去りかけた僕を、弓鳴が呼び止めた。
机の引き出しを開け、そこから取り出したものを僕に差し出す。
プラスチックの蓋がついた小瓶だった。
「ちょっとした問題が発生しているというか……、臭いです。試供品でもらった香水、使ってください。つけすぎなければ、そんなに甘ったるくならないやつなんで」
真面目な顔で言う。
思わず笑ってしまいそうになった。
無礼と親切の共存。
これぞ弓鳴真記だ。
「ありがとう」
僕は小瓶を受け取り、オフィスを出た。
なにいまの? 経戦の茶山課長だよね? 雰囲気違くない? なんで弓鳴ちゃん?
管理局員たちのざわめきが聞こえてきた。
今度は屋上に移動した。
大量に並べられたエアコンの室外機を縫って進み、開けたスペースに出る。
渋谷駅前のビル群が青空を塞いでいる。
壮観だ。
この街の空も、フィレンツェと同じように狭い。
僕は室外機の台の端に座り、魔法瓶のコーヒーを飲んだ。
苦い。
ずっと夢見ていた味だ。
ようやく達成感と安堵がこみあげてきて、全身が震えた。
感傷に浸るのは早い、と慌てて気を引き締め直す。
ひとつ、ずっと疑問に思っていたことがある。
そのことを携帯のメモに書き残し、何度も振り返ってきた。
異変が起きた初日。本社ビルが川に水没し、社長と再会したとき、僕はこんな風に怒鳴られた。
『月島たちは死んだ。おまえが死んだら経営戦略局は全滅だぞ』
月島さんは地下の電気室で死んだ。
その後すぐに地震があり、僕と弓鳴がエレベーターの秘密の機能を起動させた。
ビルごと中世イタリアに飛んだのは、そのタイミングのはずだ。
ビルはアルノ川に落ち、低層階は瞬く間に浸水しただろう。
その状況で、地下の電気室に移動し、月島さんの遺体を確認したのは誰だ?
それができる人がいただろうか?
ただでさえ、普段は一般社員が立ち入ることのない場所だ。
パニックになった状況で逃げ込む社員がいるとは思えない。
ここから先は、僕の推測でしかない。
あのとき、月島さんは、二人いた。
一人目は、経営戦略局の社員たちと朝礼に出ていた。そこでタイムトラベルに巻き込まれ、僕を除いた部下たちと一緒に溺れ死んだ。
社長はそれを目撃した。
だから、『月島たちは死んだ』という表現をしたのだ。
では、二人目は――僕と弓鳴が最期を看取った月島さんは何者なのか。
この疑問は、次の仮説と繋がる。
晴川の言う『未来のお役所』は、同時代に同じ人間が二人いることを認めない。つまり、時間旅行者を物理的に排除しているのではないか。
社員証を渡したあと、眠れば意識と体が煙のように消えてなくなる、なんてことが本当にあり得るだろうか。僕たちは中世イタリアに飛んで、生身のまま三年半も生きていたというのに。
晴川はこの時代の現地職員として時間旅行者を監視し、ときに処理を行っている。そう考えると、二人目の月島さんが殺された理由も納得がいく。彼は未来からきていた。目的が何であれ、存在自体が罪だった。
そもそも、晴川の遺言はどこか奇妙だ。
寄り道をするな。
直前で裏切り行為をしたのに、僕たちが素直にその忠告を聞くはずがない。
しかも、伝言役の弓鳴によれば、それを何度も繰り返していたという。
不自然だ。
これは晴川からのメッセージではないか。
殺されたくなければ、自分のところには来るな。
本当はそう言いたかったが、彼女の立ち場ではそれを口に出来なかった。
だから、伝え方に仕掛けを忍ばせた。
この後、僕はどうすべきか。
できることは限られている。
僕がこのまま月島さんの社員証を持っていても意味がない。
歴史は上書きされず、明日には同じ悲劇が繰り返されるだろう。
おそらくタイムマシーンが使われたこと自体、既に感知されているはずだ。
月島さんか晴川のどちらかが、僕を探し始める。
その二人なら、晴川を選ぶ。
僕は根っこの部分で彼女のことを信用している。
ただ、いまから会う晴川は、三年半を一緒に過ごした相手ではない。
だから、先に保険を打っておく。
この録音を終えたあと、晴川に社員証を渡す前に郵便局に行き、携帯を自宅に郵送する。人間が物質として移動できているのだから、携帯が自動的に消滅するようなことはないだろう。
膨大な記録――
これさえあれば、三年半の間に起こったことを、自分に伝えられるはずだ。
最後に、これを聴いている僕へ。
この三年半、いろんなことがあった――本当にいろんなことが。
中世イタリアでの生活は苦難の連続だった。
でも、何とか生き延びて、再び二十一世紀に戻ってきた。
僕は、仕事をやり遂げた。
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