8章(8)
僕は、月島さんの社員証が何でできているのか知らない。
一般社員が使っているものと同じなら、プラスチック製だ。
この社員証の隠された機能を考えれば、未来の超硬素材という可能性もあるが、そうだとしても、銃床で力いっぱい叩けば無傷では済まないのではないか。
弓鳴が手にした銃を持ち上げ――
ふっと微笑した。
「そんな怖い顔しないでください。壊しませんから」
銃を壁に立てかけ、手から放す。
全身から力が抜けた。
その場に座り込み、天井を仰ぐ。
走った距離は短いのに、全身に汗をかいていた。
「……こんなドッキリ、笑えないぞ」
怒りよりも社員証が無事だった
弓鳴がうつむいて言った。
「壊そうと思ったんです。本気で。でも……できませんでした」
迷っている間に、僕が到着したというわけか。
最近、弓鳴の様子がおかしいと気づいていたのに。
「前に、サン・ドメニカで、働くことが苦痛だったって話をしてくれたね。あのとき君はかなり飲んでいたから、何も覚えてないかもしれないけど」
「……本当に酔っていたら、あんな話できません」
「とにかく……、君は、明らかにいまの仕事の方が向いてる。戦争に勝てたのは君のお蔭だ。みんなそう思ってるよ。やりがいもあるかもしれない。でも、戦争はやっぱり怖いよ。ずっと続けていたら、君が壊れる」
弓鳴は、力なく首を横に振った。
「二十一世紀にいたときから、もう壊れてました。……特に、森口くんが死んじゃったあとは、いつ消えてもいいやって。……でも」
弓鳴は小さく息をついた。
そこに、深い疲労が混じっていた。
「私が死んだら、ジジイの世話をする人がいなくなるんです。毎朝、ジジイの顔を見に行って、おはようって言いながら、私――死んでないかなって、心のどこかで期待してました。最低だけど……、私もすぐに行くから寂しくないよ、くらいに思ってて。……ほんと、普通じゃなかった」
毎朝、弓鳴はどんな顔を祖父に見せていたのだろう。
祖父は、世話をする孫にどんな感情を抱いていたのだろう。
まったく想像がつかない。
「あんな生活に戻りたくない。戦争の方が、ずっとましです。それに二十一世紀に戻ったら……、全部忘れちゃうじゃないですか。茶山さんのこと、せっかく好きになったのに、『腐れ七三』に戻っちゃうじゃないですか」
「茶坊主よりひどいあだ名があったんだ?」
弓鳴を気の毒に思う気持ちが、少し薄れた。
僕は社員証を拾って立ち上がった。
見る限り、何の傷もない。
「よく踏み
「だって……」
弓鳴が声を詰まらせた。
頬に大きな涙がこぼれる。
「二十一世紀に戻ることが、みんなでしてきた仕事だから。茶山さん、遊馬、匠司、ハレちゃん、他のみんな――ずっとそれを目指してやってきたんだから。そう思ったら、壊せなかった……です」
思わず、という風に笑う。
「おかしくないですか。仕事があんなに嫌いだったのに。会社の形にこだわる茶山さんのこと、さんざんバカにしてたのに。最後の最後に、仕事をちゃんと終わらせたいって思うなんて……私……一応、会社員だったんですね」
ぽろぽろ泣く弓鳴を正視できなかった。
それでも、僕は――
「ごめん。元の時代に戻る。誰が何と言おうと、やり遂げる」
弓鳴は小さくうなずいて、手で頬の涙を拭った。
「分かってます――大丈夫です。壊せなかったときに、覚悟しました。八つ当たりで、ちょっと茶山さんを困らせたかっただけですから」
「……おれは、元の時代に戻ったら、会社を変えたい」
「でも、その決意も、サラーッと消えてしまうんでしょ?」
「記憶を残せたら、どうかな?」
弓鳴が大きな目をしばたかせた。
「……できるんですか?」
「成功するか分からないし、危険がある。だから詳細は言わないけど……記憶が残せれば、元の時代に戻ったとき、何か変えられるよ。おれも君も」
きっと、社員の誰もが思っている。
楽しいことばかりではなかった。
でも、この三年半をなかったことにはしたくない。
弓鳴が鼻をすすりながら、うなずいた。
「そうなったら嬉しいですけど……、あんまり、期待しないでおきます」
「――じゃあ、解散。あんまり時間はないけど、少しでも休まないと」
弓鳴に社員証を見せた。
タイム・ホールが開くまで、あと五時間半だ。
「……あの、茶山さん」
弓鳴が僕に一歩近づいた。
思い詰めた顔をしている。
僕は本能的に危機を感じた。
「……はい?」
「私のこと、どう思ってます……?」
「君は優秀な部下で――」
「好きか嫌いかで言うと」
「その二択で言えば、そりゃあ好きだけど、好きというのは繊細な言葉で、いろんなニュアンスがあるから――」
「女性として、奥さんと比べて」
背中に冷や汗が流れた。
光速の寄せ。
ものすごいスピードで詰められていく恐怖を感じる。
「いや、その……、比べても、嫌いではない……と思うけど」
「嫌いではない?」
「魅力を感じる」
弓鳴はパッと顔を明るくさせた。
「じゃあ、問題ないですね」
「何が?」
「市庁舎の宴会場を出るとき、茶山さん言ってたじゃないですか。最後に何もなしは寂しいって。だから、その……頑張っても記憶がなくなっちゃうかもしれないんだし、いま多少の
「なんの話?」
「端的に言うと――」
「言わなくていい! 杉田――杉田の話をしよう」
弓鳴が顔を曇らせた。
「……杉田って、管理局の杉田先輩ですか?」
「そう、その杉田。朽木さんがちゃんと幸せにしていれば、杉田が後追いするようなことはなかったと思う。朽木さんは順番を間違えたんだよ」
最後に話をしたとき、杉田はやり直しを望んでいた。
僕には、そもそも関係を持ったことを後悔しているように見えた。
「順番……」
「君のことが大事だ。だから、いまは何もしないし、二十一世紀に帰って一緒にいたくなったときは、ちゃんと順番を守る」
「えっ……肉体関係を持つ前に離婚するってことですか?」
「もう少し何かで包んで言ってもらっていい?」
「どうせ、全部忘れるかもしれないのに……それでも?」
「それでも」
弓鳴は呆れ顔で、息を吐きだすようにして笑った。
「……そうですね。社律とか、肩書とか……いちいち面倒くさい人でしたね」
「ということで、今日は解散。少し寝ないと」
「でも、私も手ぶらでは帰れないので」
「なにその押しこみ強盗みたいな発想」
「イタリア人の挨拶みたいに、その……、頬にちゅっとするくらいなら、出張中先の土地の習慣に従ったってことで、セーフじゃないですかね?」
顔を真っ赤にして力説している。
「セーフ……なのか……?」
「だって、み――みんなしてるじゃないですか、毎日、朝も夜も、街のあちこちで」
「わ、分かったよ……」
僕たちはぎこちなく抱き合って、イタリア風の挨拶をした。
おやすみなさい、と言って逃げるように弓鳴が去っていく。
腕に彼女の輪郭が、頬に生々しく柔らかい感触が残っていた。
目が冴えて、全然、眠れなかった。
× × × ×
朝五時半。
タイム・ホールが開くまで、あと三十分。
僕は社畜工房の中庭でまだ起きていた社員と別れの挨拶をし、弓鳴と晴川を連れて、サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会へと向かった。
何となく、弓鳴と顔を合わせづらい。
会話も途切れ途切れになった。
晴川が、歩きながらボソッと言った。
「こんなこと言うのアレやけど――二人、できてんの?」
「違う!」
「挨拶しかしてないから!」
二人で同時にそれを否定した。
晴川が声を上げて笑った。
「絶対なんかあったやん。……まあ、これ以上きかんとこ、ちょっとムズがゆくなるしな」
教会までは、徒歩で七、八分だ。
三人とも、この時代に来た日と同じ服を着ている。
道端でたむろしている市民が、弓鳴に気づいて声を掛けてきた。
弓鳴が軽く手を上げてそれに応える。
街にはまだ、宴の余韻が漂っていた。
聖堂は開いていた。
人影はなく、静けさに満ちている。
僕たちは礼拝堂を突っ切って、正面左手の聖具室を目指した。
自分たちの足音が、広い天井の空間に残響している。
ステンドグラスを通った朝日が、鮮やかな色の塊を床にこぼしていた。
初めてここを訪れたとき、サヴォナローラの演説を聞きに市民がひしめきあっていたことを思い出した。ずいぶん昔のことのように感じる。
「さて……いよいよだね」
頭の中で段どりを確認する。
僕の持つ社員証で、二十一世紀に飛ぶ。
そこで、月島さんではなく晴川に社員証を渡す。
晴川が晴川に渡すのはおかしいから、僕がするのが適任だろう。
「――お二人さん、ごめんな」
最初、何が起こっているのか分からなかった。
晴川の手に、黒い拳銃が握られている。
予備。
「そういう――ことか、晴川……!」
「仕事って嫌やなァ、茶山さん! 恨まんといてや。二十一世紀には、ウチだけが戻らせてもらいます」
もう一丁の銃のことは、まったく想定になかった。
ただ、晴川が何か秘密を持っていることは感じていた。
だから、弓鳴に社員証を壊されたくなかったのだ。
気の毒に、弓鳴はこれまでに見たことがないほど
「ハレちゃん、ごめん、分かんない。どういうこと……?」
「真記ちゃん、許してな。悪いようにはせーへんから。むしろ、二人と一緒に戻ると、いろいろアカンことがあるんよ。ウチを信じて」
そのとき、何か物音がした。
金属が擦れ合うような――
晴川の大きな腹に、剣先が突き抜ける。
晴川がそれを、信じられないという顔で見下ろす。
「社員同士で争うのはいかんなァ、茶山。社律違反だろうが」
柱の影から出てきたのは――
「虎丸さん……!」
修道院から追放された虎丸さん、村越、それに――
牢の中にいるはずの、天道社長だった。
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