8章(7)
夢を見ていた。
沼に横たわる、
敵と味方。老人と若者。男性と女性。
みんな等しく死んでいる。
遠くから歓声が聞こえた。
勝った、勝った、勝った――
フィレンツェ市民が叫んでいる。
あたりに漂う強い火薬の臭いに、急に吐き気を感じた。
そうだ、これは夢ではない。
昨日の記憶だ。
「茶山さん!」
弓鳴が怒り顔で僕を見下ろしている。
僕はテーブルで頬杖をついて寝ていた。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
「飲みすぎです。二日酔いとか勘弁してくださいね。あと数時間なのに」
教皇軍との戦いのあと、時間は飛ぶように過ぎていった。
その日の午後は、負傷者の救助と死者の埋葬に費やした。
市民軍の死者は、約二千人。
参加した十人のうち、四人が亡くなったことになる。
傭兵部隊も人員の三割が失われていた。
一方、教皇軍は六千人弱、つまり参加した兵の約半数が死亡したらしい。
市民軍には休息が与えられた。
社畜工房に戻って点呼をすると、戦いに参加した六十二人のうち、二十四人が帰っていなかった。
大丈夫だ、もう少しで歴史を上書きするから――
僕は死者にそう誓うと、ベッドに倒れ込み、夢も見ずに朝まで寝た。
今日、四月三十日は、朝から十人委員会に出席し、戦後処理を見届けた。
マキャベリは、休むことなく精力的に働いていた。
フランスとの停戦交渉。
教皇軍の敗残兵の追跡。
不確定な要素が多いが、ひとまず脅威は去ったとみて良さそうだ。
夕方から、市庁舎で戦勝祝いの宴会が開かれた。酒や食べ物が運び込まれた広間に政治家や有力市民が
僕は特別委員として市庁舎での宴会に出席した。
何人かと雑談をしたあとは、手持ち
弓鳴が参加者から代わる代わる質問攻めにあい、死んだ目で答えているのを遠くから眺め、そして――記憶が飛んでいる。
「いま、何時かな……?」
「だいたい二十二時くらいじゃないですか」
タイム・ホールが開くのは、翌日の朝六時のはずだ。
いまが二十二時だとすると、あと八時間か。
社員証を見れば確実だ。
取り出そうとして、いつも首からぶら下げているものがないことに気づいた。
「……社員証が消えた」
「ちょっ……! まさか――」
弓鳴が大きな声を出し、慌てて自分の口を押さえた。
声を潜めて、言い直す。
「まさか、戦場に落としたりしてませんよね?」
「……大丈夫、思い出した。スーツの上着に入れたんだ。ホラ、元の時代の……」
どうせ、戻るときには着替えることになるから、移し替えておいたのだった。
弓鳴が長い息をついて、僕の肩を軽く
「もう――ただの酔っ払いおじさんじゃないですか。そろそろ引き上げません?」
「うん、何人かに
「挨拶? このタイミングでさよならって、怪しくないですか」
「元の時代に戻るとは言わないよ。でも、最後に何もなしっていうのも寂しいだろ」
「……分かりました。でも、これ以上は飲まないように。朝の五時半、工房の中庭で集合、ですからね」
弓鳴が僕の鼻先に指を突きつけて、念押しした。
× × × ×
マキャベリは、第二書記局の執務室にいた。
いまのマキャベリは、書記局長というより『正義の旗手』の秘書官として広範囲な仕事に関わっているが、オフィスだけは変わっていないらしい。
室内は暗く、机の脇に
部屋に訪問者があっても、書き仕事に集中している。
声を掛けるのをためらっていると、ようやく気づいて顔を上げた。
「サヤマ、君か」
「こんな日にも仕事ですか?」
マキャベリは目元を指で押さえてほぐしながら答えた。
「戦死者の恩給制度を作らないと」
「……ときどき、あなたに矛盾を感じるんですよ」
あえて挑発的な言葉を選んだが、マキャベリは楽しそうに笑って受け止めた。
「矛盾? なんだろう」
「あなたはよく、組織で最も重要なのは意志決定者だと言う。でも、実際に心血を注いでいるのは、人事的な政治工作ではなく、地道な仕組み作りの方ですね」
「理想的な君主が現れてすべてを決めてくれれば、それが一番だ。本当にそう思うよ。でも、そういう人はなかなかいないし、人は年齢や状況でたやすく変わる。だから、ひとつひとつ仕組みを考えて、少しずつでも国を良くしていくしかないね」
「……あなたなら、きっとできますよ」
言いながら、胸が痛んだ。
歴史はずいぶん変わったはずだが、弓鳴から聞いた『史実』によれば、このあとマキャベリを待ち受ける運命は、彼が望んだものとは大きく異なる。
やがてスペインとフランスがイタリア半島への干渉を強め、全土で戦争が起きる。フィレンツェも
フィレンツェ共和国はメディチ家の支配下に戻り、マキャベリは職を失う。
それだけではない。
メディチ家要人の暗殺計画に加担した疑惑で、投獄、拷問の
運良く
「サヤマ、君を臨時ではなく正式な職員として推薦したいと思っているんだ。モンナ・ユミナともども、これからも力を貸して欲しい」
「……ぜひ」
年下だが、こんなに尊敬できる人物には会ったことがない。
もっと、この人の仕事を近くで見ていたかった。
「ひとつ、役人としての心得を教えてください。国から無理難題を押し付けられたときには、どう乗り越えます? 実際あなたは、私の知る限り、一度もそれを放り出さなかった。なぜですか?」
「――私は、この国を愛している。自分の魂よりも」
芝居がかった声でそう言ったあと、表情をくしゃくしゃっと崩して笑った。
「というと、サマになるだろう? でもね、本当は少し違う。たとえば、そうだな……、君は劇を観たことはあるか?」
「ええ、まあ……何度かは。そんなに熱心な観賞者ではありませんが」
「私は好きなんだよ。いつか自分でも脚本を書いてみたいくらいだ。ただ、ときどき、観ていてすごく
カーテンコールで演者を紹介するように、手を伸ばして僕を示し、
「なんとかなるかもしれない。だろう? そして実際にうまくいったとき、私は実感するんだよ。これが私の仕事だ、とね」
ここは観客席じゃない。
僕はその言葉を胸に刻んだ。
これ以上話すと、
いつものように、また明日とだけ言って別れた。
その足で、重要犯罪人を扱う牢獄に向かった。
かつてサヴォナローラがいた牢に、いまは社長が繋がれている。
ろくに傷の手当てを受けていないらしい。
麻の服の左肩は、血が滲んで真っ赤になっていた。
壁を背にして床に座り、鎖のついた足を伸ばした姿は、囚人とは思えないほど堂々としている。顔からは、さすがに疲労と
しばらく、無言で向き合った。
社長が先に言葉を発した。
「おれは、どうなる」
「明日、五月一日の午前に縛り首になります」
社長がわずかに表情を硬くした。
「――ですが、朝の六時、私は二十一世紀に戻ります。この時代に来る一日前に。この歴史そのものがなくなるので、あなたが縛り首になることはない」
「ふざけやがって。慈悲のつもりか?」
「まさか。私はあなたに『二十一世紀に戻りたい』と思って欲しいんです。心の底から。それは、あなたが自分の限界を認めるということだから」
社長はムスッとして、黙り込んだ。
「さようなら。二十一世紀で会いましょう」
僕は入口にいる番人に、僕以外は社長に会わせないように伝えて牢を後にした。
社畜工房に向かう足取りが軽かった。
ずっと心に蓋をしていたものから解放された気がした。
僕は――僕たちは、ついにあの社長を倒したのだ。
社畜工房の中庭では、社員たちが盛大な飲み会を開いていた。
いよいよ、長い旅が終わる。
雰囲気は明るいが、それぞれ胸に浮かぶ想いは単純ではないはずだ。
祭門さんの姿が見当たらない。どこかで、家族と静かに過ごしているのだろう。
「やー、我らが特別委員のお出ましや!」
晴川が目ざとく僕を見つけて、絡んできた。
最後の時間を楽しむ社員の中に、弓鳴の姿はない。
「弓鳴は? 先に戻っているはずなんだけど」
なぜだろう――
胸騒ぎがする。
「見てへんよ。え、一緒だったんとちゃいますの?」
その瞬間、僕は走り出した。
頭で言語化にする前に、予感が体を動かしていた。
自室に戻り、扉を開ける。
弓鳴が銃を手に立っていた。
床に、月島さんから預かった社員証が落ちている。
僕のスーツから、抜き取ったのか。
「弓鳴、ダメだ!」
社員証は二枚ある。
一枚は僕が、もう一枚は晴川が持っている。
どちらか一枚があれば、二十一世紀に戻れる――
そういう話だった。
しかし、僕はひとつ疑問を持っていた。
僕の持つ社員証と、晴川の持つ社員証は、本当に同じものなのか?
「……遅かったですね、茶山さん」
弓鳴が笑った。
いまにも泣きそうな顔をしていた。
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