7章(3)

 目的地までは、馬を使っても四、五日かかるという。

 山岳地帯を通過中に雪が降った。幸い降雪量はそれほど多くなかったが、凍てついた大気が地上からどんどん熱を奪い、僕たちを苦しめた。顔や手足がしびれ、感覚が薄れるほどの寒さで、マキャベリが用意してくれた羊毛のコートがなければ、そこで脱落者が出ていたかもしれない。


 脅威は自然だけではなかった。

 身をもって体験したことだが、徒党を組んだ傭兵たちは、旅人を手軽な収入源と考えている。話し合いなど通用しない。

 二度、武装集団に遭遇した。

 一回は戦ってそれを退しりぞけ、もう一回は僕たちが銃を構えて抗戦の意志を示すと、相手が戦わずに逃げていった。

 一応、護衛という本来の役割は果たせたわけだ。


 僕はピエロ・デ・メディチの健康状態が心配だった。

 せ細って、目に力が入っていない。フィレンツェ政府が上等な服を着せて雰囲気をつくろっているが、かえって痛々しい印象を受ける。常に無言で、馬の歩みにあわせて、ふらふらと上体が揺れていた。もともと覇気に乏しい青年だったが、およそ二年に及んだ獄中生活が、さらに心をえさせてしまったようだ。

 彼が捕囚ほしゅうの身になったのは、僕にも責任の一端がある。自由になるところを見届ければ、バスティアーノに対する罪悪感が少しは晴れるだろうか。


 ある晩、宿の食堂で、マキャベリと弓鳴が議論を始めた。

 マキャベリが机を叩いた。酩酊めいていして、拳に力が入っていない。


「モンナ・ユミナ、私はピサの二回の戦いで、傭兵隊コンドッテがほとほと嫌になったのですよ。見せかけの戦争ばかりして、銭をふんだくる悪党ども!」


 モンナというのは、妙齢の女性に対する敬称だ。


「戦争請負人とはいえ、命が財産ですから、そうなってしまうのは当然です。フィレンツェにも、以前は人民隊長カピターノ・デル・ポポロが率いる市民軍ミリツィアがあったのでしょう?」


「そう! しかし、経済発展と同時に自衛意識が衰退して、傭兵に頼るようになってしまった。これではいけない。私は書物から古代ローマ帝国の軍事体制を学びました。たとえば、ウェゲティウスの『軍事について』。この名著を参考に、国民軍を再編したい。農民は歩兵に、市民は騎兵に――」


「古代ローマは忘れてください、


「はい?」


「戦術は日々進歩しています。過去を振り返るのは、。その代わりと言ってはなんですが、私に案があります」


「ほう! ぜひ伺いたい」


 マキャベリがテーブルに身を乗り出す。

 弓鳴が僕に目配せした。

 計画通り――とその目が言っている。

 弓鳴は万が一戦争が起こってしまった場合に備えて、マキャベリを通してフィレンツェの軍事体制を変えようと考えていた。

 身振り手振りでアイディアを語る弓鳴の表情は、実に生き生きして楽しそうだ。

 笑顔で計画し、実行して泣く。

 なんという複雑な性格だろう。

 

 × × × ×


 フィレンツェを出て五日目、会談の地サン・カシャーノ・デイ・バーニにたどりついた。丘の中腹に根を張った村で、深い樹林に囲まれている。人口は、四、五百人程度だろうか。大きな石を積んで作った建物が多く、村全体に素朴な風情ふぜいを感じた。

 この村は、古くから温泉が湧くことで有名らしい。

 それを聞いて、遊馬が喜びを爆発させた。


「凍えて疲れ切ったところに温泉って――最高かよ!」


「会談の前に一風呂ひとっぷろ浴びて、身綺麗みぎれいにせんとな!」


「賛成。お風呂自体、もう何日も入ってないもんね」


「ハイ、君たち走らない! この後のことを話してから!」


 修学旅行の引率の先生になった気分だ。

 浮かれる僕たちを尻目に、マキャベリたちは気乗りしない様子だった。

 この時代、体を洗うと病気になりやすいという迷信が流布るふしており、人々はあまり風呂に入らなかった。祭門さんの奥さんから聞いたのだが、僕たちが修道院に浴場を作って頻繁に入っていることを、ヴァル・ディ・トッリの村人たちは、ひどく野蛮な習慣だと思っていたという。


「ここの温泉はいいぞ。ちと熱いがな」


 

 予感はあったが、やはり、この人が来るか。

 社長が兵士を引き連れてやってきた。

 けばけばしい赤い服を着て、悪目立ちしている。

 防具は銀色の胸当てのみで、以前にフィレンツェで会ったときに比べれば軽装だ。


「到着が遅れて失礼しました。いつ着いていたんです?」


「昨日の夜だが、まあ気にするな。こちらはこちらでゆっくりしていた」


 何か妙だ。

 自分は時間にルーズなくせに、他人の遅刻は許さないのが社長だった。


「茶山……他のみんなも、元気そうじゃないか」


 僕たちを見回して、ほがらかに言った。

 妙な間が空いたのは、僕以外の社員の名前が一人も出てこなかったのだろう。


「教皇領で、ずいぶん出世されたそうですね」


 遊馬が言うと、嫌味や皮肉ではなく、ごく自然の日常会話に聞こえるから不思議だ。


「ああ、ローマの水は美味いぞ。どうだ、こっちに来ないか?」


「せっかくのお言葉ですが、に満足しておりますので」


 遊馬ではなく弓鳴が冷ややかな笑みをたたえて断った。


「そうか。……私はいま、教皇軍の副司令官の職をいただいている。戦うことになったら、降伏しろ。おまえたちの命は助けてやる」


 自分が勝つ前提で話をしているのが社長らしい。

 その背後から、長身の男がやってきた。

 晴川が声を抑えて叫んだ。


「誰や、あのイケメン!」


 社長が気づき、男に向かって優雅な礼をした。


「おお、ヴァレンティーノ公。自らお出迎えにいらっしゃるとは……」


 チェーザレ・ボルジア。

 全能の教父の息子、教皇軍の総帥。戦争の天才と呼ばれる男。

 社長の隣で足を止め、物憂ものうげな灰色の瞳で僕たちを見回した。


 かなり若い。まだ二十代の半ばではないか。

 話だけ聞いて熊のような男を想像していたが、まったく違っていた。

 はっきりした二重ふたえまぶたと長い睫毛まつげを持ち、目尻が垂れぎみで、芸術家のような繊細さを感じる。茶色の髪が強く波打って肩まで垂れ、鼻とあごの下に蓄えた髭は、むしろ甘い雰囲気を強めていた。

 しかし、口もとに微笑がひらめいた瞬間、がらりと印象が変わった。

 そこに見えたのは、。抜き身の刃に似ていた。どんな人生を送ればそんな風に笑えるのか。艶のある黒いコートの合わせから、鈍く光る銀色の鎧と剣の柄が覗いている。


 チェーザレはいま、人々の尊敬と憎悪を一身に集めている。この半年間の主戦場は、イタリア半島の北東部を占めるロマーニャ地方だ。シエーナ共和国との戦争を切り上げて向かったのは、スポンサーである教皇が、かつて教皇領だったロマーニャを取り戻すことにこだわり、強く要請したためらしい。チェーザレは、フォルリ、イーモラ、チェゼーナなどロマーニャの主要都市を攻略し、残るファエンツァへの侵攻を目前に控えていた。マキャベリの話によると、今回の会談のために最前線から呼び戻されたことは、本意ではなかったようだ。


 チェーザレが口を開くと、白く濁った息がこぼれた。


「遠路、ご苦労であった」


 短い言葉で場の空気を支配すると、おもむろに村外れを指した。

 いまいる場所よりも低い、森が開けた場所に、四角と三角の積み木を重ねたような二階建ての館がある。


「あの別荘ヴィッラを借り受けている。今夜、教会の鐘が鳴ったら、そこでピエロ・デ・メディチ様を引き渡してもらおう」


「承知しました、ヴァレンティーノ公」


 代表大使のトンマーゾが進み出て、うやうやしく答えた。いつの間にか旅装を解き、宮殿の中にいるような恰好をしている。こういう人物は、二十一世紀のビジネスの場でもしばしば見かけた。気配を消して面倒事を避け、という場面でグッと存在感を打ち出すタイプの人種。

 チェーザレは一瞥いちべつしただけでトンマーゾを無視し、マキャベリに歩み寄ると、その肩を親しげに叩いた。


「メッセール・ニコロ、あなたの尽力なくして今回の条約締結はありえなかった。事が落ち着いたら、ぜひまた酒を酌み交わしたいものだ」


 二人は、半年の間、何度も会って会談の下準備を進めていた。

 マキャベリはその度にチェーザレのいる戦地までおもむいていたという。

 まさに命がけだ。


「は、ぜひ……」

 

 主君に対してするように、マキャベリが礼をした。

 チェーザレは次にサヴォナローラに対して慇懃いんぎんな口調で語りかけた。


「お久しぶりです、導師様」


 サヴォナローラは無言で目礼を返した。

 この二人も、フィレンツェと教皇庁のそれぞれの代表として面識があるらしい。

 チェーザレは、と口もとを崩して笑った。


「気楽にされよ。父はあなたのことで日々怒鳴り散らしているようだが、私はこれでけっこう、あなたの気概きがいを買っているのだ、ジロラモ師。形として膝を折っていただくが、もはや私も聖庁の緋色ひいろの衣を脱いだ身、心の中であなたが何を唱えようと、感知するわざを持たぬ」


 どうやらそれはチェーザレ流の冗談だったらしい。

 しかしサヴォナローラは、やはり黙然と目礼で応えただけだった。

 見ている方がハラハラしたが、チェーザレはそれをとがめるでもなく、では、と言い残して去っていった。


「……まあ、なんだ、後でな」


 僕の肩を叩いて、社長もチェーザレの後を追った。

 そのよそよそしい態度が、僕の中に強い違和感を残していった。

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