7章(2)

「殴って気ぃ失わして運んだらええねん」


 晴川がボソッと暴論を吐き、隣りにいる弓鳴が噴き出した。

 日本語だったのでマキャベリたちには意味が分からなかったはずだが、僕は立場上、静かにと二人を注意した。

 もっとも、マキャベリはそれどころではなかっただろう。

 彼は常に自国と敵国の板挟みになっていた。

 神経を擦り減らす根回しと粘り強い交渉の末、どうにかここまで漕ぎ着けたのだ。

 今更、教皇領との契約条件をくつがえすことなどできない。

 出発の遅延だけでも、胃腸が悲鳴を上げているはずだ。


「導師様、ご自身のお命を軽んじるのはおしなさい」


 いよいよ、口調に苛立いらだちが混じり出した。

 サヴォナローラは動じない。


「私が死んでも、主の御業みわざの進行には、なんの支障もないでしょう」


「そりゃ、実際、そうでしょうけれども――」


「この世にしがみつくなど、俗人のすることです」


 傍でやりとりを聞いていて、自分が非難されているような気持ちになってきた。


「あなたは生きるべきだ」


 僕が急に会話に割って入ったので、サヴォナローラ当人はもちろん、マキャベリや仲間たちも驚いたようだった。


「ジロラモ師、あなたは教皇という大きな敵と戦った。なぜです」


「――の者たちが魂の芯から腐敗し、主の言葉を己の欲望のためだけに用いているからだ。誰かがそれを正さなければならなかった」


 その言葉は力強く、目に映る光には迷いがなかった。


「それは正されたのですか」


「……あなたは、私に何を言わせたいのだ」


「あなたと教皇は、神前でフェアに弁舌を競ったわけではない。あなたは、。神様の意志はまったく関係ない」


 怒りからか、寒さからか――

 サヴォナローラが、ぶるっと身を震わせた。


「正しい道を歩んでいる者にとって、勝ち負けなど取るに足りぬことだ」


「いえ、。あなたがもし本当に世の中を良くしたいのなら――その意思があるのなら、泥水をすすってでも生きるべきだ。一度頭を下げるくらい、なんです」


「それは扉だ。開けたが最後、次々に悪魔が現れ、私にりついてささやくだろう。ひざまずけ、涙を流して許しを乞え、首を差し出せ――とね」


「あっさり許してくれるかもしれないじゃないですか。とりあえずいまをしのげば、状況が劇的に変わる可能性だってある。教皇が急死するとか、どこかの大国がフィレンツェに肩入れするとか」


「ずいぶん他力本願な話に聞こえるが……」


「ジロラモ師、私の国には宝クジというものがあります。券を買って当選すれば、人生を左右するほどのお金が手に入る。もちろん、その確率は低い。限りなくゼロに近い。。そうすれば、信じられる。クソみたいな会社をやめて、住宅ローンを全額返して、満員電車に乗らず、誰にも頭を下げず、好きなときに喫茶店巡りをして、空いた土地を見て、設計事務所に図面を引いてもらって、自分のこだわりの喫茶店を開き、妻に店を手伝ってもらい、娘が帰る時間には店を閉めて家族全員で夕飯を食べる――。そう信じられる!」


「すまない、あなたが何の話をしているのか……」


「どれだけみっともない願いだって届くことがあるし、それを聞くのは他人なんだ。相手が神様だって同じことですよ。地球上の人間がみんな大声で助けを求めているから、まず聞いちゃもらえない。でも叫び続けていれば――せみでもあるじゃないですか、急に何十匹も同時にパタッと静かになるときが。あんな風に他の人の声が途絶えて、自分の声だけが響くかもしれない。それが神様の耳に届くかもしれない! つまり私が言いたいのは――」


 気づけば、僕が悪魔にりつかれたようにしゃべっていた。

 サヴォナローラは、じっと僕の目を見ていた。そこに微かに何かの感情が動いた気がした。後ろから、弓鳴が僕の腕を強くつかんだ。

 その感触で、ようやく理性が戻ってきた。 

 弓鳴がつかんでいた手を離して、ポン、と優しく僕の背中を叩く。

 僕はサヴォナローラに深々と頭を下げた。


「……失礼しました」


 おおやけの場で、こんな狂態を演じるとは――

 自分でも信じられない。

 弓鳴が進み出て、静かな声でサヴォナローラに語りかけた。


「『善に生きるということは、善を行い、悪に耐える生活を、死ぬまで続けることなのです。もしすべての悪を避けようとするなら、この世から出てしまうしかないでしょう。いばらのなかで薔薇ばらを摘み、他の人々をすべて、君より善良だと考えなさい』」


 サヴォナローラの顔に動揺が走る。

 弓鳴はいつになく穏やかな表情で話を続けた。


「以前、あなたが修道院に入ったばかりの修道士に送った言葉ですね。他の人々というのは、修道院の人たちのことで、俗世間の全員というわけではないけれど、あなたはここで、世間と折り合いをつけながら辛抱強く生きる道を説いておられる。いまこそ、それをご自身が実践されるべきでは?」


 長い沈黙が訪れた。

 サヴォナローラが、小さく息を吐いた。


「……あなた方の話を聞いていて、いまはいない友人の言葉を思い出しました。私は、いまでもそれを不敬なごとだと思っているが……なぜか、忘れられない。『人間は自分の自由な意思によって何にでもなることができる。盲目な欲望に駆られ地上に転がるならば植物となり、感覚にとらわれ快楽にふけるならば動物ともなる。しかし、人間が自由意志を正しく使い、理性によって導かれるならば、天界にすむ霊的存在ともなり、身体を離れて純粋な観想のうちに生きるならば、やがては神そのものとなることもむつかしくはない。』」


 他者の言葉の引用とはいえ、修道士が口にするには、強い違和感がある内容だった。


「ご友人というのは、ミランドラ伯のことですね」


「……あなたは、何もかもご存じのようだ」


 サヴォナローラは口元に微笑を浮かべた。

 まったく話についていけない。

 急に登場したミランドラ伯というのは何者なのか。

 しかし、弓鳴の言葉は、このかたくなな修道士の心を動かしたようだった。


「意思、か。確かに私には、まだやるべきことが残っている」


 自分に言い聞かせるようにつぶやいて、ゆっくりと立ち上がった。

 マキャベリが、祈るように組んだ両手を弓鳴に掲げ、無言で感謝を伝えた。


 × × × ×


 階下で待ちぼうけを食らっていた代表大使や官僚と合流し、僕たちはひっそりとフィレンツェを離れた。

 一路、会談の地サン・カシャーノ・デイ・バーニへと、街の灯を背に街道を南下する。全員に馬が用意された。馬術は僕が領主になってから『研修』の課目に入れ、いまでは全社員が習得している。

 隣を走る弓鳴が、突然、噴き出した。

 チラッと僕の方を見る。


「――なに」


「茶山さんがサヴォナローラにバーッと喋ったの、思い出しちゃって」


「反省してます」

 

 結局、サヴォナローラを動かしたのは弓鳴で、僕は意味不明な暴言を吐いただけだった。すぐ後ろを走る遊馬が、明るい声で言う。


「いや! 感動しましたよ、おれは。中年の魂の叫び、しっかり受け止めました。よく当たりが出る宝クジ売り場知ってるんで、二十一世紀に戻ったら一緒に買いに行きましょう!」


 遊馬の隣にいる晴川が、ぶはっと息を吐き出して、


「いや笑うやろ! 唐突に登場したせみで、もうアカンかった。蝉おらんでしょ、ここトスカーナに。途中からバリバリ日本語やったし」


「え、日本語? 嘘だろ……」


 まったく自覚がなかった。


「日本語でしたよ! でも、ウン――」


 弓鳴は優しく笑った。


「気持ちは、なんとなく、伝わったんじゃないですか」

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