【7章】背信者たち

7章(1)

 運命の一四九九年がやってきた。

 この時代のフィレンツェでは三月二十五日に年が変わるが、僕たちは二十一世紀の生活習慣にならって、一月の頭に正月休みをとった。

 社員数は、百人を割って九十三人。

 この時代にやってきた当初は百五十人近くいたので、約四割減少したことになる。

 天道社長を頼って離脱した社員がいたほか、冬に入って数人が病気で亡くなった。エアコンのない時代で過ごしていると、気温が人体に及ぼす影響の強さを思い知らされる。夏と冬には、必ず何人かが体調を崩し、回復しないまま息を引き取った。


 一月四日、新年最初の評議会が開かれた。

 いつものメンバーが揃い、それぞれが受け持つ業務の報告を行う。


「すごいクレーマーがいるんだよ。既にこの時代にさぁ。じいさんなのに、しつこくて」


 苦笑まじりに語る遊馬あすまの顔は、活力に満ちている。

 フィレンツェに直営店『社畜工房ボッテガ・シャチク』が出来てから、遊馬は目覚ましい活躍を見せた。売り場に立って販売をする一方、複数の商談に関わり、他の街に支店を作る話まで進めていた。営業開始は、一年後の春を予定しているという。


 遊馬の件に限らず、先々の話が議題になることが増えた。それがおかしくもあり、切なくもあった。今年の五月一日に、サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会の聖具室に行き、この奇妙な旅と変化した歴史をすべて『なかったこと』にする。

 それがいまの僕たちの目標なのだ。

 いつしか、その日のことを誰も口にしないようになっていた。


 フィレンツェ政府と教皇領の外交使節団が会談して半年。

 使者が何度か行き来して交渉を重ね、ようやく内容がまとまった。

 ピエロ・デ・メディチを無傷で教皇庁に引き渡す。

 サヴォナローラは追放せず、説教を永久に禁止する。

 一見、教皇領が大幅な譲歩じょうほをしたように思える。

 マキャベリを悩ませているのは、詰めの段階で教皇が追加した第三の条件だった。


『金の話でもない、人の命でもない。これがかえって難題でね――』


 会談にサヴォナローラを同席させ、教皇の代理人であるヴァレンティーノ公チェーザレに許しを乞えというのである。

 サヴォナローラはいきどおり、政府が自分を教皇に生贄いけにえとして捧げるつもりだと市民に訴えた。しかし市民の心は、この半年の間にサヴォナローラからすっかり離れていた。教皇を怒らせたのは、やりすぎだった。僧侶がひとり謝罪することで教皇が矛を収めるのなら、それで良いではないか――


 依然として熱狂的な支持者がいるとはいえ、サヴォナローラが市政に与える影響力は、ほとんど無視しても良いほどになった。むしろ危害を加えようとする集団が現れ、サヴォナローラのことを罪深い詐欺師だと言って回り、フィレンツェ政府は僧の身柄を守るために、微罪をでっち上げて市庁舎パラッツォ・ディ・シニョリーアに収監しなくてはならなかった。


『友よ、また君の力を借りなければならない』


 マキャベリから新しい依頼が届いた。教皇が指定した引き渡し場所は、フィレンツェとローマの中間地点にあるサン・カシャーノ・デイ・バーニ。フィレンツェの南方、シエーナ共和国の領内にある村だが、教皇軍の進攻によって国境が変わり、両軍の緩衝地域になっているようだ。


 フィレンツェ政府としては、もはや縄で引いてでもサヴォナローラを会談に参加させたい。しかしそのことが事前に市民に伝わると、熱狂的な支持者を刺激する恐れがある。奪還しようと企むやからも出るかもしれない。だから、夜のうちにこっそりと出発する。夜の移動には危険が伴うので、少人数で護衛をして欲しい――


 評議会は、この提案を受けることを全会一致で可決した。

 僕たちにとって必要な時間はあと五ヶ月。

 戦争を――この街から少しでも遠ざけなければならない。


 参加するのは、評議会から、僕と弓鳴ゆみな晴川はれかわ、遊馬。

 匠司しょうじは、靴の仕事で手いっぱいだったので、留守をたくした。僕たち以外に、銃の扱いに優れた五人の社員が同行。その指揮は、弓鳴がとる。

 フィレンツェ政府の代表大使は、トンマーゾ・ディ・アルビッツィなる貴族に決まった。政府の要職についてはいるが、外交の実績はない。教皇がヴァレンティーノ公を代理人にしたため、それに見合う家柄の『お飾り』が必要になったのだ。副使として第二書記局長に昇進したマキャベリ、秘書として部下の官僚が随行。さらにピエロ・デ・メディチとサヴォナローラ。足し合わせると十四人という大所帯になる。


 出発は二月の頭と定められた。しかし、この旅は出だしからつまずいた。

 ピエロ・デ・メディチは言われるがままだったが、サヴォナローラは、いざ出発という段になっても動こうとしなかった。

 夜が深まりつつある時刻、僕たちは市庁舎パラッツォ・ディ・シニョリーアの高い塔の中にいた。

 そこに、重要犯罪人を収監する牢がある。階全体に漂う、ひどい悪臭。鼻が曲がってしまいそうだ。いま収監中の罪人からだけでなく、長い歴史の中で体液やら汚物が染み込んだ壁や床から発せられている臭いだと感じて、背筋が寒くなった。

 石壁に鉄の輪で留められた松明たいまつが、あたりを淡く照らしている。


「導師様、困りますよ、今更。国家のために、お願いします。ホラ、あなたの身を守るために護衛も用意したんですから」


 マキャベリが下手に出るが、サヴォナローラは牢から一歩として外に出ようとしない。刺すような冷気を苦にせず、簡素な僧服を着て床に座り込んでいる。


「私は教皇の特使などには会わない。それは神の言葉に反することだからだ。この街で私を処刑するのなら、そうすればよい。きっと、神が私を救ってくださる。また、そうならず、ここで私の命が絶えるのなら、それもまた神のおぼし。いずれにしても、私は神に身を捧げている。その信を曲げて、邪悪な代理人に膝をつけというのは御免こうむる」


 まったく取り付く島もない。

 邪悪な代理人というのは、言うまでもなく、ヴァレンティーノ公のことだろう。

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