6章(8)
使節団は、市庁舎内に一泊していくことになった。
夕方、会談を終えた社長に声を掛けられ、二人でアルノ川の岸を歩いた。
ひどい悪臭が鼻を突いた。近くの橋の上に
社長の隣にいるだけで、かつての緊張が蘇ってくる。
一度は自分も社長になったなどとは、口が裂けても言えない。
ここまで積み上げてきたはずのものが、一瞬で崩れ去った気がした。
「我が社員は、どれくらい残っている?」
「百人と少しです」
ほう――と社長が感嘆の声を上げた。
「よくそれだけ残ったな。誰が集団を引っ張っている? 虎丸あたりか?」
「……虎丸さんはいません。宮間さんと朽木さんは亡くなりました。いまは、若手社員を中心に、合議制をとっています」
「合議制? そうか――おまえでは、まとめられんか」
社長は鼻で笑った。
「それで、何をして暮らしている?」
「基本的には、農業です。それに、靴を作って売って――」
「フィレンツェ政府は靴屋に警備を頼むのか?」
食い気味に言葉が返って来るので、話がしづらい。
この感覚、久しぶりだ。
「いえ、警備の仕事は成り行きで、本業ではありません。……社長はいままで、何をされていたんです?」
「あの洪水で、フィレンツェの近くに流れ着いてな。商人に助けられたのはいいが、そのまま船でピサの港までいって、
まるで現実感がなく、聞いているだけで頭がクラクラしてくる。
そういえば社長はイタリア語が話せるのだった。
一族の伝統で、学生の頃に専門の家庭教師がつくらしい。
「他の奴隷からしたら、ヒーローですね」
体に染み込んだ癖で、つい、お
「どうかな。船員を脅して別の港に行って、船ごと全員売り払ったからな。いやー、高く売れたぞ」
結局、悪いやつが、より悪いやつに変わっただけだった。
「で、そのカネでローマに行って、聖職者の身分を買った」
「信仰心をお持ちだったとは――」
「おれにあるわけないだろ。それを高く転売して、傭兵団を作る原資にした」
中世で、まさかの転バイヤー。
もう、脳がついていけない。なんというバイタリティだ。
そのでたらめなエネルギーを、うまく利用できないだろうか。
「和平交渉がまとまるように、社長から教皇庁の人々に働きかけてもらえませんか。時間稼ぎをするだけでも助かります。一四九九年の五月で、全部終わりますから」
社長の顔色が変わった。
「全部終わるだと? どういうことだ」
「元の時代に帰る方法があるんですよ! 一四九九年の五月一日に、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ教会の聖具室に行けば、あの地震があった日の『前日』に戻れるんです。この時間旅行を、丸々、なかったことにできる!」
聞き終えた社長は、短く切って捨てた。
「くだらんな」
「……は?」
「なぜ戻る必要がある?」
「いや、社長、この時代でずっと生きていけます……?」
「いける」
力強く、言い切った。
「おまえはいつの時代で生きたいんだ? 二十一世紀か? それとも、もっと未来がいいか? 転生ガチャを何度しても、どの時代にも、それぞれ違った生きづらさがあるんじゃないのか。なぜ、目の前にあることを全力で楽しもうという気持ちになれんのだ。おれはこの時代も気に入った。力と知恵さえあれば、どこまでものしあがれる。見ていろよ。おれは教皇庁を……ローマを乗っ取ってみせる!」
両手を広げ、わははははと空に向かって
まさに、人の形をした災厄。
「しかしですね、社員は、元の時代に戻りたいという者が大半でして――」
「未練は捨てろ! サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会の聖具室だ? そんなものは、このおれが燃やし尽くしてやるわ」
軽率だった。
危険な男に、貴重な情報を流してしまった。
「ダメです、そんなことをしたら……」
社長は僕の言葉を遮った。
「茶山、おまえ、本社ビルから脱出するとき、川でおれを見捨てようとしただろう」
「あれは……ですね……」
汗が大量に吹き出してきた。
この人には、思いつきの嘘は通用しない。
「許す。中途半端が一番どうしようもない。上席を殺したいと思ってからが一人前だ。ローマに来い、茶山。おれについてくれば、良い思いをさせてやる。社員にもそう伝えろ。――以上」
両手を強く叩いて、にやりと笑った。
「ムーブ」
僕は命じられるまま、その場を立ち去った。
これ以上そこにいたら、何でも言うことを聞いてしまいそうだった。
翌日、社長たち使節団は、捕囚のピエロ・デ・メディチと面会して無事を確かめた後、フィレンツェを去った。
行政長官である『
サヴォナローラの永久追放と、ピエロ・デ・メディチの復権。
メディチ家に市政の実権を戻せというのだ。
市民の反応は、真っ二つに分かれた。
どちらも受け入れがたい条件ではある。
しかし、それ以外に北上する教皇軍の足を止めるものはない。
意見はすぐにはまとまらなかった。
フィレンツェ政府は教皇領に検討に時間を要すると伝え、時間稼ぎに入った。
役割を終えた僕たちは、いったんヴァル・ディ・トッリへと戻った。
社長が生きていたニュースは、社員たちに驚きを持って受け止められた。ほとんどは拒絶反応だったが、何人かは修道院から姿を消した。虎丸さんの元部下で、彼が追放されてから肩身が狭そうにしていた者たちだった。
マキャベリは約束を果たした。
メディチ派を粛清した際に政府が接収した貴族の家を譲ってくれたのだ。
三階建てで、立派な中庭がついていた。僕たちはここに店を開いた。
『
道に面したカウンターで販売するのではなく、広々とした中庭に天幕を張って商品を並べ、ゆっくり試し履きできるようにした。年齢、性別、価格帯、様々なバリエーションの靴を用意し、ワインを無料で振る舞った。
僕たちは靴屋の仕事に本腰を入れた。
企画局が靴をデザインし、仕様書を書く。生産局が素材を仕入れ、商品を作る。営業局が現場で接客し、販売する。商人からの卸売の相談にも乗る。管理局が社員の労働環境を整え、売上を取りまとめる。ヴァル・ディ・トッリの農業の人手が足りなくなった。遊馬の発案で、フィレンツェの捨児養育院から孤児たちを引き取り、農作業の手伝いをしてもらう代わりに、寝床と食事を提供して文字を教えることにした。
靴屋は繁盛し、たった二週間で、農業の三ヶ月分の売上を叩き出した。
競合する他店から嫌がらせを受けたり、人種差別があったり、盗難があったり、決して良いことばかりではなかった。それでも毎日が楽しかった。終わりのない学園祭のようだった。
仕事を好きな人は少ない。
でももしかしたら、嫌いなのは仕事ではなく『会社』というケースもあるかもしれない。ふと、そんなことを思った。
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