5章(9)
朽木さんは三日後に死んだ。
ここ数日は、陽光が神経を刺激し、発作を誘発するということで、日中も窓を閉め切って部屋を真っ暗にしていた。昨日、
杉田が枕を持って僕の部屋に来たとき、農作業の定例報告で弓鳴が部屋にいた。
弓鳴は気を使って席を外そうとしたが、杉田は最初から僕だけを見ていた。
目が虚ろで、様子が少しおかしかった。
「朽木さんが、亡くなりました」
僕は無言でうなずいた。
心のどこかに、ホッとした気持ちがあった。
日々、苦しむ声を聞いて、何もしてあげられないのがつらかった。
朽木さんも苦しみから解放されて救われたのではないだろうか。
杉田が僕に枕を差し出して言った。
「私――社律に違反しました」
弓鳴が口を手で押さえる。
僕も、何が起こったのか、すべてを悟った。
だから、その先を話そうとするのを、手を上げて遮った。
「杉田、言わなくていい」
「どうすればいいですか。罰を受けます」
「内容は聞かない。知らないことは罰せられない」
「でも」
「杉田、何度も説明したと思うけど、一四九九年五月まで生き延びれば、『やり直し』になる。この時代に来て起こったことは、長い夢を見ていたみたいに、全部なくなる。だから――君はこれまで通り、社員のひとりとして協力して欲しい」
突然、杉田の顔がパッと明るくなった。
「それって――いつから『やり直し』になるんでしたっけ」
「僕らがこの時代に来た一日前だ」
ああ、と杉田はため息をついた。
そして弱々しく笑った。頬に涙がこぼれた。
その笑顔は、どこか、懺悔をする朽木さんに似ていた。
「それじゃあ……やり直し、できません」
朽木さんとの関係のことを言っているのだと分かった。
まるで、すべてをなかったことにしたがっているような――
でも、僕には何も言えなかった。
その日のうちに社葬が行われた。
朽木さんの体は火葬にせず、穴を掘って大地に埋めた。
杉田の発案だ。僕たちはそれを尊重した。
コローレの歴史上、ここまで愛された人はいなかったかもしれない。すべての社員が、農作業を通じて朽木さんに世話になり、その人柄に触れていた。虎丸さんの部下だった営業局の社員たちですら、涙を流した。
村の教会から神父を呼び、祈りの言葉を捧げてもらう。
棺の入った穴を囲んで、全社員で見送った。
僕は隣に立つ弓鳴が小さく『お疲れ様でした』というのを聞いた。
憎しみと感謝は、両立する。
そうやって生き続ける想いもあると思う。
翌日、杉田が修道院から姿を消した。
匠司が、鞣し工房の近く、アルノ川の岸で女性の服が脱ぎ捨てられているのを発見した。
× × × ×
僕は朽木さんの遺言に従わず、社長になった。
「バカみたい」
弓鳴は呆れていた。
「一回なってみたかったんだよ。ちゃんと記録しておいてくれ」
「……一応、しますけど。ただの自己満足ですよね、これ」
こうして、コローレの歴史に僕の名が刻まれた。
社長就任の一日目、権限を使って役員会を解散し、その代わりとなる意思決定機関を作った。
評議会。
ひとり一票の議決権を持つ合議制だ。最初のメンバーには、連絡会の面々に入ってもらった。僕は一日で社長を辞任し、評議員のひとりになった。
その日、フィレンツェから使者が手紙を運んできた。
『メッセール・ユウスケ・サヤマ、お蔭様で、私はフィレンツェ政府の正式な職員になった。第二書記局の所属だ。ああ、村々を巡る不毛な日々よさらば――密偵の真似事はつらかった!』
契約社員から正社員にステップアップしたようなものか。
異例の出世である。
それだけ、ピエロ・デ・メディチを生きて捕らえたことが評価されたらしい。
『約束の報酬についてだが、もちろん、忘れていない。私の権限の及ぶ範囲でお支払いする。希望を知らせてくれ』
さっそく、立ち上げたばかりの評議会で話し合い、二つの要求を決めた。
ヴァル・ディ・トッリに自治の継続を認めること。
これには、事前に村人たちの了解を取った。
誰かが領主になってくれるのなら、それで構わなかったが、村人たちは異邦人である僕たちに統治を委ねた。急に領主になれと言われても、恐ろしかったのかもしれない。それで、暫定的に僕が領主になった。
もうひとつは、靴職人組合への加盟と、店の保有。
『
新参者が大きな顔をすると反発を招く、というわけだ。
ともあれ、僕たちの靴を、フィレンツェで売ることができるようになった。
靴職人組合の加盟店に製品を置いてもらうのだ。
さっそく、四足の紳士靴と三足の婦人靴がフィレンツェの街角に並んだ。
三日ほどで完売し、組合から、次の仕入れを催促する手紙が届いた。
社内は、歓喜に湧いた。
泣いている社員もいた。
いろんなことがあって、忘れかけていた。
僕たちは、靴屋だった。
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