【6章】フィレンツェの憂鬱
6章(1)
産婆の家から、元気な赤子の泣き声が聞こえてきた。
「どうも」
普段から
僕の番が回ってきた。
「おめでとうございます。男性でも育休を取れますからね」
「……笑うところか?」
「いや、最近、制度整備しました。使ってください」
「へえ……、それはどうも」
固く握手を交わす。
スキンヘッドで強面だが、笑うと何とも言えない愛嬌が出る人だ。
家の扉が開き、出産の手伝いをしていた
「お父さん、はよ入って! 他の野郎どもは、もちょっと待っててな!」
祭門さんが周りに頭を下げながら家の中に入っていく。僕たちはそれを拍手で送った。テーブルに用意されていたワインで乾杯し、喉を
一四九七年の七月。
僕たちがこの時代にやってきて、一年と八ヶ月が経っている。
三年半という長い『出張期間』の、折り返し地点を少し過ぎたあたりだ。
新しい命の誕生は、三ヶ月前の血生臭い事件から立ち直っていない村にとって、明るいニュースになった。祭門さんの相手は、十八歳の村娘だ。黒い大きな瞳の持ち主で、笑うと可愛らしいえくぼができる。密かに独身社員の間でファンが多かったらしい。
祭門さんは建築や土木工事に才能を発揮し、修道院はもちろん、村の水路や建物の補修に日々取り組んで、村人と接する機会が多かった。それでも、四十五歳の無口なスキンヘッドの男が、どうやって親子ほどに年齢の離れた女性を射止めたのか――肝心の部分は、本人が語らないので、謎に包まれたままだ。結婚と出産が同時になったのは、娘を持つ身としては複雑な心境だった。新婦の家族が許しているのなら、他人がどうこう口を挟む話ではないのだが。
祭門さんが、肌着にくるまれた赤子を抱いて外に出てきた。
照れくさそうに、娘でした、と言う。
赤子の目はまだ開かず、体のところどころが血で汚れていた。
「祭門さん、頭、支えないと。こんな感じですよ――そうそう! 上手ですねえ!」
確かに、祭門さんの手つきは少し怪しかった。生まれたばかりの赤子は、首がすわっていないので、後頭部に手を添えて支えてあげなくてはならない。
ひとつの光景が記憶からこぼれ落ちてきた。
娘が生まれた日に、同じことを助産師さんに言われた。
ぎこちなく抱いた娘を、人間というより動物に近いと感じた。鼻の頭に白い吹き出物がいくつもあり、血の塊が顔のあちこちにこびりついていた。そっと肌に触れると温かく、波打つ鼓動が伝わってきた。急に抱いているのが怖くなった。オモチャのように小さな手が、何かを求めてぐるぐると宙をさまよっていた。
そのときに胸を占めた感情は、嬉しさでも不安でもなく、焦りだった。この子のために、稼がなければ。もっと出世しなければ。親として恥ずかしくないように。生活費を、学費を用意できるように。
『おれ、頑張るよ――仕事、頑張るから』
そう決意を語ると、妻は笑った。
『それより、もっと家にいて欲しいな。この子だって、それが嬉しいと思う』
娘は、あまり泣かず、ただ口をぱくぱくさせていた。
五年後、その口が、僕に『会社に住めば?』と言う。
家族のために働く――そのはずだったのに。
いつの間にか、出世することが目的になってしまっていた。
お
遊馬と
「おまえも負けてらんないな。靴もいいけど、アッチを頑張れよ」
「は? なんの話だよ」
「だからさ――」
「……バカ、指をさすな!」
ちょうど、晴川と出産の手伝いをしていた
焦っている匠司を見るのは珍しい。
薄々気づいてはいたが、そういうことか。
弓鳴は昨晩から一睡もしていないはずだ。
目の下に、濃いくまがあった。
お疲れ様、と声を掛けると、疲れた笑みを浮かべた。
「ひと一人生まれるって、大変ですね」
「生まれてからも、いろいろあるからね……」
「この時代、幼児の四人に一人は成長できずに死んでしまうんですよ。みんなでちゃんとサポートして育てないと……」
「弓鳴は、そういう予定はないの?」
ジロッと、横目で睨まれた。
「あ――撤回する。いまのは、抵触するね、何かに」
僕の発言は、交番の前で路上駐車をしたのに等しい。
いま弓鳴は、評議員のひとりとして内部統制を担当し、社律に変わるルール作りや、パワハラ・セクハラの
「おめでたい日に免じて、今回だけ見逃します。でもまあ――私は、親には向かないかな。母が、ザ・主婦って感じの人で、料理とか
弓鳴がそんなことを気にするのが意外だった。
「別に、相手が料理をしてもいいんじゃない?」
「まあ……、そう思いますけど。そもそも相手がいないんで」
「匠司が独身だね。彼は手先が器用だから、料理も得意なんじゃないか」
さりげなさを装って言うと、弓鳴が苦笑した。
「なんでそんな身内から? 匠司ですか? 二人でいるところが想像できないなー」
前途多難だぞ――
匠司の健闘を祈りつつ、それ以上は立ち入るのをやめておいた。
「赤ちゃんもいるし、いよいよ例の対策を本格的にやらないとな」
僕たちは次の嵐に備えなくてはならなかった。
繰り返し中世の社会を襲い、恐怖に陥れた
黒死病、ペストだ。
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