5章(8)
朽木さんは窓際のベッドで上半身を起こしていた。
窓の
驚いたことに、常に仏頂面の朽木さんが引きつった笑みを浮かべていた。
朽木さんは、僕たちの表情から、戸惑っていることを察したらしい。
「……ああ、これはね、顔の筋肉がピクピクして、こんな風に、なっちゃうんだ。楽しいわけじゃ、ないんだよ」
口が動かしづらいのだろう。
言葉は途切れがちで、音がこもって聴こえる。
苦しそうに話す姿は、見ていて痛々しかった。
「君たちに、言っていなかったことが、ある」
「何関係の話ですか?」
朽木さんが、申し訳なさそうに目を伏せた。
「森口くんのこと、だ。彼は労基に行ったことを、まず僕に話した。それを社長に伝えたのは、僕なんだ。もちろん、彼のため、だった」
隣で、弓鳴が息を呑む気配がした。
「働きづらさを訴える社員が、増えていた。せめて、自由に、異動できるようにするべきだと、思った。もっと、従業員に権利を与えるべきだ、とね。その実例として、彼を挙げてしまった。社長は激怒して、森口を呼べ、いますぐにと……」
社長の声が、頭の中で肉声となって再生された。
弓鳴が思い詰めた顔で、じっと床をにらんでいる。
「ニュース会社に、情報をリークしたのは、僕だ。記事の準備に、二年かけた。これから、二弾、三弾と出る予定だった。外に向けて発信することで、僕なりに、この会社を変えたかった。でもね、つくづく、思った。どちらにしても、あんな記事では、会社は変わらなかった。社長を作ったのは、半分は従業員だ。文句を言いながら、どこかで彼を慕い、彼に決定をさせている、従業員だ。真剣に戦い、それが叶わないなら、とっとと会社を去るべきなんだ。それなのに、それができない」
喋り疲れたのか、朽木さんはそこで言葉を切った。
筋肉の
「世の中のブラック企業は、そうやって、出来ているんだ。みんな、本当は、自分では、人生を決めたくないんだ。誰かのせいにして、生きたいんだ。文句を言いながら、社畜だと言いながら、心の中では、そんな自分に誇りを持って、誰よりも頑張っていると言い聞かせて、救いがたい人生を、送るんだ。他でもない、僕が、そうだったんだ――」
朽木さんは震える手で頬を拭った。
「茶山くん、君は、社長の後継者だ。誰も頼んでいないのに、組織を残して、肩書を決めて、君のブラック企業ごっこに、みんなが巻き込まれた。まったく、救いがたい――」
そこまで言うか。
さすがに心が折れかけたとき、
「ふざけるなッ!」
怒鳴ったのは弓鳴だった。
うつむいたまま、怒りを吐き出す。
「茶山さんは、器が小さくて保身のことばっかり考えて、大事なことをなかなか決められない情けない人だけど、逃げなかった。自分なりに考えて、みんなのために頭を下げて、会社を続けて来たんだよ。あなたはそこにいなかったじゃないか! ずっと自分の得意なことだけをして、その場にいなかったじゃないか。ブラック企業は社員が作る? それが本当だとしても、社長より年上のあなたは、この数十年間、何をしてきたんですか。面と向かって社長に立ち向かう勇気がなかったんでしょう? 森口くんのため? 冗談じゃない。人をダシにして、死なせて、それでも会社を変えられなかったくせに! あなたは、ただの卑怯者です」
弓鳴は顔を上げ、朽木さんを正面から見据えて、もう一度強く言い放った。
「卑怯者っ!」
そして、部屋を出ていった。
朽木さんは、弓鳴が出ていった扉に向かって、上半身を曲げて深く頭を下げた。
そのまま床に落ちそうになったのを、僕が支えてベッドに戻した。
「……君は、僕に、言いたいことが、ないのか?」
朽木さんは
罵られ、怒鳴られたいと思っていたのだ。
だから、あそこまで
弓鳴が怒鳴った後で、僕はそれに気づいた。
もちろん、それこそが、弓鳴が怒りを感じた甘えの正体だったのかもしれない。
「全部、彼女に言われてしまったので。……弓鳴は、あなたのことを尊敬していたんですよ」
「……過去形、だね。自業自得だ」
朽木さんは、透き通るような笑みを浮かべていた。
「君は、不思議な男だ、茶山くん。天道社長は、死の方を向いている。上手くいえないが、自分の命も、他人の命も、全部燃やして進むようなところが、あった。君は、違う。みっともないくらいに、生きることに、執着している。それは、陽の光に向かうことだと思う。だから、恥を承知で、君に、お願いしたい……」
「僕に……社長になれと?」
「いや、君は、その器じゃない、な」
「あっ、はい……」
力強く、断言されてしまった。
「若い者たちに、決定権を譲り、それを、見守ってやってくれ。もう、僕たちの時代じゃない。社律を壊せ。会社を、作り直すんだ、茶山くん。それが、君の役割だ」
こうして、朽木さんの長い話は終わった。
奇妙な泣き笑いの顔が目の奥に残って、ずっと後になっても消えなかった。
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