4章(7)
自室に戻り、干し草を詰めたベッドに座ると、苦い思いが込み上げてきた。
――負けた。
自分を殴りたい。
少し冷静になれば、こうなることは分かったはずだ。
フィレンツェで聞いたサヴォナローラの説教――
あの奇妙な熱が、十数年間保ってきた僕のバランス感覚を狂わせた。
それとも、弓鳴たちに頼りがいのあるところを見せたいと欲が出たのか。
らしくないミスだった。
虎丸さんの主張は明快だ。
『証拠の提示』か『肉声による証言』。
どちらも望み薄だった。
証拠など、あったところで、そもそも検証する方法がない。
証言は、田島日南子にしても、面と向かって告発する勇気も気力もないだろう。
被害者なのだから、なくて当然だ。
部屋に置いている小さな甕からワインを木の器に注ぎ、一気に飲み干した。
「しくじった」
声に出して言うと、よけいに自分が
虎丸さんに目をつけられた。
僕の立場は、非常に悪くなったといえる。
宣言した以上、何らかの攻撃をしてくるだろう。
どうする――
遠慮がちにドアをノックする音がした。
もう夜も遅い。
こんな時間に、いったい誰が――
もう一度、ノックの音。
「茶山さん、少し、いいですか」
宮間さんの声が、ドアの向こうからくぐもって聞こえた。
慌てて立ち上がり、ドアを開ける。
宮間さんの、なんともいえない困り顔があった。
「ちょっと、お話、いいでしょうか」
「ええ、……」
廊下を人影がよぎった気がした。
「どうぞ、入ってください」
僕は宮間さんを中に招き入れ、扉を閉めた。
「……どなたか来ていました? 声が聞こえましたが」
「いえ、自分で携帯に……記録というか、出来事を整理するために」
「そうでしたか」
宮間さんは不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も聞かなかった。
僕が勧めた椅子に座ると、吐き出すように言った。
「虎丸さんをこのままにしておけません」
「……と、いうと」
「彼を取締役から解任するつもりです」
「……虎丸さんが黙って解任されるでしょうか」
「あなたもよくご存じでしょうが、『社律』では、役員会で意見が分かれて同数の場合、役職上位者の意見を採用することになっています」
ルールとしては、その通りだ。
しかし――
「私が心配なのは……」
「分かります。虎丸さんは全力で抵抗するでしょう。それでも、このまま彼の増長を許すわけにはいかない。組織が分解する前に、なんとかしなくては。茶山さん、お手伝いをお願いします。あなたには専務になって欲しい」
僕が専務!
舞い上がりそうになる心を抑えつける。
これ以上、社内での立ち回り方を誤ると、居場所がなくなってしまう。
「私は歳が若すぎます。『みんなで守ろう年功序列』ですよ、社長代理。朽木さんが適任ではないでしょうか」
「確かに朽木さんは有能ですが……やる気のない人に無理強いをしても」
「役員会に出席していなかったのは、折り合いの悪い虎丸さんがいたからという可能性もあります。私から働きかけます」
「……では、お願いします。明日の午前、臨時の役員会を開催します」
「はい」
「茶山さん」
宮間さんの手が震えていた。
「怖いですね。何かを決めるというのは」
「……正しいご決断だと思います。私も、できることはしますから」
僕は自分の声が頼もしく聞こえることを祈った。
宮間さんが遠い目をして言った。
「叔父なら、どうしましたかね」
「社長は……、一喝して終わりでしょうね」
「叔父は、ああいう人間ですから、皆さんからはひどく嫌われていたでしょうけど、あれで、いいところもあったんですよ。……いいところ、と言っていいのかな」
「たとえば、どんなところですか」
社長は、甥の目にどんな風に映っていたのだろう。
非常に興味深い。
「私はゲイなんです」
宮間さんの突然の告白に、一瞬、言葉に詰まった。
「……そうですか」
「リアクションに困りましたか」
「いえ……すみません。突然だったので。ちょっと驚いて」
「いいんです。残念ですけど、まだそういう反応をする人もいる。慣れています。母が、結婚しろ結婚しろとうるさくて、ある年、正月の親戚の集まりに、あえてパートナーを連れていったんですよ。まあ、みんな困ってしまってね。表面上、普通にしていたけれど、嫌悪感を持っているのが、ありありと分かって。でも――」
ふっ、と宮間さんが思い出し笑いをした。
「叔父だけは、普通だったんです。率先して声をかけて。お仕事は? 儲かってます? なんて、それはそれでデリカシーがないんですけどね。初対面の人に、二言目には年収を聞く癖があるんですよ、あの人は。とにかく、品がないんだよなあ――」
宮間さんはどことなく楽しげだった。
僕はその光景をリアルに思い浮かべることができた。
声まで聞こえてきた。
僕は社長を憎んでいた。
経営者としては、勘が鋭く、どっしり構えたところがあったけれども、そもそも靴会社の社長なのに靴に興味がなかった。
端的に言って、仕事嫌いだった。
ただ、ある種のカリスマ性があったことは認める。
社長は自分以外の全員を下に見ていた。
その意味で、公平な人だった。
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