4章(6)

 夜、弓鳴が後輩を連れて僕の部屋にやってきた。

 管理局広告宣伝部に所属する、田島日南子たじま ひなこ

 化粧が濃くギャルっぽいイメージがあったが、すっぴんのいまは、むしろ童顔に見える。ゆったりした服を着ていても分かるくらいにスタイルがいい。


「その日、排水設備の掃除担当だったんです……」


 修道院には簡易的な上下水道の設備がある。

 担当は企画局の祭門さんだ。

 祭門さんはチームを組み、教会の庭で朽ちたままになっていた石材を転用し、半年かけて水路を完成させた。アルノ川から水を引き、間に池と小さな水門を挟むことで流れの強さを調整している。領主バスティアーノは最初その疏水そすい工事に難色を示した。洪水被害を広げることになるというのが理由だったが、祭門さんは水門の役割を説明し、村にも同じ設備を作ることを提案して、承諾を得た。


 何より生活水準を上げてくれたのは、水洗トイレだ。

 屋内に男女別にあり、排泄物が屋外で粗布のフィルターにかかるようになっている。二日に一度、そのフィルターを交換して、糞便は畑の肥料に回す。

 みんな交替でやっていたが、次第に一部の営業局員が手を抜くようになった。


 それを発見した日南子が営業局員に抗議すると、数日後に虎丸さんから呼び出しがあった。部下の非礼を謝りたいというのだ。日南子は固辞したが、伝言役の営業局員は、断ると虎丸さんの顔を潰すと言って脅しに近いことを口走ったらしい。

 虎丸さんの劣情は、部下に伝染していた。口調や表情から身の危険を感じた日南子は、昼間の時間帯を選んで会いにいった。


 虎丸さんは、部屋でひとりワインを飲んで泥酔していたらしい。通り一遍の謝罪を述べたあと、一緒にワインを飲もうと誘った。日南子が断って部屋を出ようとしたとき、後ろから襲われた。小柄な体からは想像がつかないほど力が強く、叫んでも誰も助けに来なかったという。


 ――これ以上逆らうと、ここで生きていけなくなるぞ。


「そう言われて、頭が真っ白になって……」


 どんな言葉を掛ければいいのか、分からない。


「……辛かったね」


 言葉を選んで言うと、日南子が目を伏せた。


「違うんです。それが、始まりだったんです。それから――」


 言いよどんで、黙ってしまう。

 弓鳴が日南子の手に自分の手を重ねて、優しく叩いた。


「その後も、呼び出されて……他の人がいるときもあって……」


「虎丸……!」


 さすがの僕も、さん付けをする気になれなかった。

 人間のクズとしか言いようがない。

 話を聞いていて怒りが蘇ったのか、弓鳴は顔を真っ赤に上気させて、


「他にも同じ目に遭っている人がいるみたいですよ。これ以上、『社律』違反を放っておくんですか。茶山さん!」


「いや――許さない」


 いつになく強い怒りを感じていた。

 虎丸さんが傷つけたのは、女性たちだけではない。

 この会社のルールだ。


「でも、君が話したことは、虎丸には分かってしまうと思うよ」


 念を押すと、日南子は硬い表情でうなずいた。


「……もしこれで虎丸が処罰されないなら、私がここを出ます。ひとりで生きていけるか分からないけど、ここにいるよりはマシです……」


 日南子の目に、強い意志を感じた。


 × × × ×


 フィレンツェ旅行の三日後、宮間さんの部屋で役員会が開かれた。

 宮間さんの部屋は、修道院にある個室の中で一番広い。

 七畳近くあるだろうか。

 ランプを二つ使っていて、室内は夜でもそれなりに明るい。

 部屋の真ん中に木のテーブルを置き、椅子が四つ揃っている。

 朽木さんが顔を出さないので、ひとつは常に空席だった。


 いつものように、僕が農作業の状況と今後のスケジュールを報告する。

 ノートPCに資料をまとめているのは弓鳴だ。

 弓鳴は記録のつけ方がとても細かく、それなのに見やすかった。この二つを両立できる能力は貴重だ。

 宮間さんは僕の読み上げを『はい、はい』と熱心にうなずいて聞いているが、虎丸さんは相槌ひとつ打たず、黙々とワインを飲んでいた。


「今日は、ひとつ、ご報告があります」


 僕はチラッと虎丸さんを見た。

 自分のことが議題に上がるとは夢にも思っていないのだろう。

 ワインの入った木の器を片手に、眠そうな目を虚空に向けている。


「――虎丸さんに、性的嫌がらせを受けたという社員がいます」


 これだけのことを言うのに、勇気を総動員する必要があった。

 虎丸さんは無反応だ。


「それによりますと――」


 田島日南子の名前を出さずに、経緯を話した。

 宮間さんは一言も喋らず、真剣な顔で聞き入っていた。

 話を終えてしばらく沈黙があった。


「何を言い出すかと思えば……」


 虎丸さんがつぶやいた。

 突然、手にしていたワインの器を僕に投げつけた。

 酔っているせいか、それは僕を逸れて背後の壁に当たった。

 虎丸さんがテーブルを叩いて吠えた。


「茶坊主! テメエ自分が何を言ったか分かってんのか! ああ?」


 言葉で頬を張られたようだ。

 この手の圧は社長で慣れていたはずだったが、ビリビリと肌に悪寒が走る。


「いや――」


 宮間さんが口を挟んだ。


「私も、似た話を別の人から聞きました。しかし、今日まで、それを議題に上げなかった。自分が恥ずかしいです」


 毅然とした態度に、驚かされた。

 まさか、こんな展開になるとは。

 しかし、虎丸さんは少しも怯んだ様子を見せなかった。


「何を仰いますか、宮間社長!」


 あえて、代理と付けなかった。

 露骨な追従ついしょうであり、それによって、かえって宮間さんを軽んじていた。

 さらに、そのことを隠そうともしていなかった。


「私は社長代理です」


 宮間さんが鼻白んで言った。


「ええ、もちろん――それはもちろん! しかし、もうよろしいのでは? 天道前社長は、残念ですが、もう生きてはおられますまい」


「虎丸さん、それよりも、あなたについて話をしたい。言うまでもありませんが、セクハラは『社律』に違反します。私が聞いた話では……」


 宮間さんは、いくつかの事件を並べ、虎丸一党の集団犯罪を糾弾した。

 強姦事件だけではなく、リンチを受けた男性社員の話もあった。


「心外です、社長。すべて根も葉もない虚言です。誰かが、私と部下たちを陥れようとしている!」


「私にはそうは思えません。それでなくても近頃、あなたの言動は、少々目に余る」


「まったくもって、理不尽だ!」


 虎丸さんが両手で机を叩いた。


「社長は、私に対して偏見をお持ちのようだ。精励恪勤せいれいかっきんな忠臣である、この私に――」


 宮間さんが何かを言おうとするところに、虎丸さんが言葉を被せる。


「よろしい! この虎丸雄一郎、逃げも隠れもいたしません。ですから、証拠をお示しください」


「証拠――ですか」


 宮間さんの声が、虚ろに響く。


「証拠がないというのなら、せめて、証言者の肉声を聞かせていただけませんと。裏付けのない密告だけで断罪されるのであれば、それはもはや魔女裁判、我々が守るべき規律やモラルが、文字通り中世にまで堕ちたと言わざるを得ませんぞ」


「それは……」


 宮間さんが困り顔で僕を見る。

 僕は視線を外した。

 この期に及んで、この開き直り――

 役者が違う。相手が悪すぎた。


「全社員が一致団結しなければならないときに、社長におかしなことを吹き込むとは。そういう輩こそ、会社の敵ではありませんか! 私の前に連れてきてください! !」


 大声に打たれて、宮間さんは黙り込んだ。

 これで、勝負あった。

 では証言者を探します――と宮間さんがか細い声で言って、話は尻すぼみになった。

 解散し、部屋を出る時に、虎丸さんが後ろから僕にささやいた。


「茶山――分かっているだろうな。ただでは済まさんぞ」

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