3章(5)
いっそ、ここで寝るか――
開き直ってそう考えていると、弓鳴が戻ってきた。
「虎丸に怒られました……よね? すみませんでした」
取締役を呼び捨てである。
言葉ほどには、すまなそうな顔をしていない。
むしろ楽しそうだった。
「悪いと思ってないだろ、全然」
「思ってますよ、茶山さんには――少しは」
「虎丸さんと、前に何かあったのか?」
「忘年会で、若手の女子だけでダンスやる出し物あるじゃないですか。あれほんと気持ち悪い伝統ですよね。私のときはブレザーの制服でしたけど、終わった後に虎丸にテーブルに呼ばれて、思いっきり太もも撫でられたんですよ。いま思い出しただけでも、むかつく。あいつも社長と一緒に川で流されちゃえばよかったんだ」
「おっとととととそれはないぞ弓鳴くん」
僕は声に出して言いながら周囲を見回した。
誰かに聞かれていたら、僕が陰口の共犯者になってしまう。
幸い、あたりに人影はなかった。
弓鳴が声を立てて笑う。
「巻き込み、失礼しました」
「本当にやめて? 君じゃなくておれが先に死ぬからね」
弓鳴は、気をつけますと神妙な顔をしたが、まだ目が笑っていた。
こいつは危険すぎる。
さっさと話題を変えた方が良さそうだ。
「朽木さんはまだ起きているかな?」
丘に散らばる灯りが、少なくなりつつあった。
「ええ、たぶん。名簿を作っていると思います。役員会で何か決まりました?」
「役員会での決定事項を全社員に伝えるために、各局からひとりずつ出してもらって連絡会を作ることになった。その人選について、朽木さんと相談したいんだ」
「……それ、私がやりましょうか。イタリアに来たことには、ちょっとですけど責任を感じていますし、同期の局がバラけているから、ちょうどいいかもしれません」
「君の同期、というと――」
「昼に会った
遊馬は営業局。匠司は企画局。弓鳴は管理局。晴川は確か生産局。
なるほど、仲の悪い縦割り組織を横断するのに同期の力を使うのは、良い案かもしれない。
「じゃあ、さっそくお願いしていいかな」
「はい。みんな、どこにいるかな……」
こうして、各社員に情報が伝えられた。
会社ごと、一四九五年のフィレンツェ郊外にタイムトラベルしたこと。
あと三年半、生き延びなければならないこと。
ほとんどの社員にとって、信じがたい話だっただろう。
反応は様々だったようだ。
泣く者、笑う者、唖然として黙り込む者……。
こうして、最初の夜が更けていった。
× × × ×
翌朝、支給された薄味のビスケットをかじっていると、匠司がやってきた。
相変わらず、分厚いメガネをかけている。
あの激流で、よく失わなかったものだ。
「昨日は、失礼しました」
脇当ての部分が革で補強されて、かなり丈夫そうだ。
「弓鳴から、森口のことに茶山さんが無関係だったと聞いたので」
「お詫びとして、これを?」
「まあ、そうです。見捨てようとしたことをチャラにしてもらえませんか」
真剣そのものという表情だ。
かえって失礼の度合いが増していたが、同時に清々しさも感じて、笑ってしまった。
「結局助けてくれたんだし、気にしなくていい。……君は、デザイナーだったね」
「ええ、『リナ・センプリス』のサブチーフです」
イタリア産の革を使った婦人靴のブランドだ。センプリスというブランド名は、イタリア語のシンプルに由来する。本当は語尾をセンプリチェとしなくてはならないのだが、当時のデザイナーが語感の良さを優先して変えてしまったらしい。
創業時から続く看板商品というだけあって、かなり保守的なデザインのルールが存在する。文字通りシンプルなフォルム。カラーバリエーションはあえて黒と紺のみ。どれだけデザイナーを変えても古臭さが抜けず、売上は年々落ちていたが、匠司がデザインチームに入ってから洗練された今時の形に生まれ変わり、ブランド名に再生を意味する『リナ』の冠がつけられた。
不思議だ。こんなに野暮ったい男から、あんなに美しい線が作られるなんて。
匠司は意外なことを口にした。
「靴を売りませんか」
「……え?」
匠司は丁寧に言い直した。
「三年半、靴を作って、それを売って生計を立てませんか」
「……ここが中世イタリアだというのは、聞いたね?」
そもそも彼は連絡会の一員だから、かなり早い段階でそれを知ったはずだ。
「ええ。でも、素材さえあれば、たぶん問題なく作れるので。学生の頃に、何度か原始的な方法で靴を作ったことがあるんです」
笑顔とまでは言えないが、初めて匠司の表情に明るい色がついた。
「生皮を、樫の樹皮から溶け出したタンニンに漬けて、
「頼もしいね。ただ――まずは、買う人を探さないと」
僕たちは、川に面したなだらかな丘の上にいた。下っていくと、どの方向でも、大小の森や
剥き出しの大地の息遣いが聞こえてきそうな光景だった。
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