2章(3)
「総務部の人が、おまえは朝礼に出てなかったって言ってたけど……、なんで茶山さんと一緒にいるんだ?」
遊馬の問いに、弓鳴が歯切れ悪く答えた。
「いろいろあって――エレベーターでタイムトラベルしたんだよね」
「……おまえ、地震で頭とか打ってない?」
遊馬が心配するのも無理はない。
何の前置きもなくタイムトラベルと言われて、納得する人がいるだろうか。
無用の混乱を招くだけだ。
ここは、いったんごまかさなければ――
「タイムカードでは定時退勤になっているのに、エレベーターに乗って会社を出ると二十三時になってる。……地震の直前、ちょうど弓鳴くんとエレベーターで一緒になって、そんな話をしていたんだよ。な」
目配せすると、弓鳴が小さくうなずいた。
「そう――そうだった。コローレの、ブラックあるある……みたいな?」
「分かる、ソレ!」
遊馬が大きな口を開けて笑う。
単純な性格で助かった。
「ムダ話してる時間ないぞ」
匠司が遊馬にぴしゃりと言い、僕の足に目を遣った。
「足、どうしました?」
「地震のときに痛めた。歩くのが辛くてね。君らが来てくれて助かった」
肩を貸してくれというつもりで掲げた手に、匠司がチラッと視線を向けた。
それだけだった。
「そうですか。残念です」
その言い方に不穏な意図を感じたのは、僕だけではなかったらしい。
「おい賢太郎、おまえ、まさか――」
詰問調で言う遊馬に、匠司がうなずく。
「足手まといになる。このビルは、いつ崩れてもおかしくない」
「茶山さんを見捨てていくのかよ!」
遊馬の直球。
ありがとう、僕もそれが知りたかった。
「この人を助けていたら、僕らまで逃げ遅れるかもしれない」
「じゃあ、お前は先に行ってろよ! おれはこの人を連れていく」
遊馬が力強く僕の腕をつかんだ。
「好きにしろ」
匠司が吐き捨て、弓鳴を手で促して屋上の出口に向かおうとする。
しかし、弓鳴はその場を動かなかった。
ボソリとつぶやく。
「……手伝うよ、遊馬」
それを聞いて、ほとんど無表情だった匠司が、動揺を見せた。
「弓鳴、この人は森口を――」
「だとしても、私は同じことはしない」
弓鳴はキッパリと言い切った。
匠司は観念したように、小さくため息をついた。
× × × ×
遊馬と匠司が、両側から抱えるようにして運んでくれた。
屋上から四階に移動する間に、これまでに起こったことを聞いた。匠司はあまり体力がないらしく、早々に息が上がって、話しているのはほとんど遊馬の方だった。
朝礼はいつも一階のホールで開かれる。
始まってすぐに大きな地震があり、それが収まったかと思うと、大量の水がなだれこんできた。三階から下は浸水し、残った社員は四階の避難階段に集まった。そこが最も陸地に近い場所だったからだ。
川を渡る方法が話し合われ、匠司たち企画局の社員が、消火栓設備のホースを使うことを提案した。ホースは十五メートルしかないので、途中で結んで繋げたという。
話を聞きながら、ひとつの疑問が湧いた。
「最初の一人目は、どうやって川を渡ったんだ?」
「田中準さんが突破してくれました。あの人、大学まで競技水泳をやってたんですよ」
遊馬の営業の先輩が、体にホースを巻いて陸まで泳ぎ切ったらしい。
あの濁流では視界も効かなかったはずだが、ビニールのゴミ袋で浮力を得て、そもそもホースに命綱の役割を持たせていたと聞いて納得した。一回目、二回目は失敗し、三回目で渡河に成功。その後は体重の軽い社員が優先して、ホースをたどって渡ったという。
「田中はもちろんだけど、後に続いた何人かも凄いね……」
命綱なしで川に流されたら、一巻の終わりだ。
僕なら、やれと言われても尻込みしてしまうだろう。
僕たちが避難階段の踊り場にたどりついたとき、残っているのは天道社長だけだった。激しい水の流れが鼻先をかすめ、風にさらわれた
社長が僕を見て、開口一番、吠えた。
「遅いぞ、グズが!」
「大変、失礼しました!」
「月島たちは死んだ。おまえが死んだら経営戦略局は全滅だぞ。危機感を持て!」
「ハイッ」
部下の二人が犠牲になったと知って、胸が激しく痛んだ。
ひとりは三十三歳、もうひとりは二十五歳だった。
あまりにも若すぎる。
それにしても、社長が月島さんの死を知っていることが不思議だった。
僕と弓鳴が意識を失っている間に、誰かが電気室にある遺体に気づいたのか?
「僕たちが最後ですね。急がないと」
匠司がビルを振り返った。
避難階段から見ると、建物の傾斜がよく分かる。
ビルは、下流に向けて倒れかけていた。
弓鳴が先に川に飛び込んだ。焦った様子もなくホースを
何やら、陸地にいる社員たちの様子がおかしい。
しきりに叫んでこちらに何かを訴えようとしている。
大きく手を振っている者もいる。
渡り終えてずぶ濡れの弓鳴が、建物の上を指した。
振り返ると、ビルがゆっくりと倒れていくところだった。
「だから言ったんだ――」
匠司がつぶやき、メガネを顔から外した。
社長が叫んだ。
「ホースを
遊馬と匠司が手すりに飛びつき、ホースの結び目を解いた。
ビルが倒れていく――
僕は近くにあったゴミ袋をつかみ、ホースを抱えた。
踊り場が傾き、そこにいた全員が激流に放り出される。
一拍置いて、ビルが川面を打つ轟音とともに水飛沫が降ってきた。
頭から濁った水を被り、口の中に苦い土の味が広がった。
悲鳴が水面を交錯する。
想像していたより、ずっと水が冷たい。
服に染みて、痺れるような痛みが体を浸食していく。
とっさに手に取ったゴミ袋のおかげで僕の頭は水上にあり、かろうじて周囲の様子が見渡せた。
下流に向けて流されたホースに、匠司、遊馬、僕の順にしがみついている。そして僕よりも下流の位置に社長。
一方、陸地では、ホースを持つ社員たちが、川に引きずり込まれそうになっていた。いまホースには、僕たちだけでなく水の勢いが重さになって加わっている。あまり長く持ちそうにない。
遊馬の声が聞こえた。
「バタ足で、岸の方に寄せましょう!」
近くで、水飛沫が立つ。なるほど、流れに逆らってホースを引っ張ってもらうより、僕たちが岸に向かって近づいた方が必要な力が少なくて済む。
片足は、激しく動かせる状態にない。
それでも、もう一方の足で、力の限り水を蹴った。
絶対に、諦めない。
社員たちが岸に並び、僕たちを川から引きずり上げようと待ち構えている。
あと数メートル。
服のせいで、体がひどく重い。
せめて、靴くらいは脱いでおくべきだった。
体力が限界に近づいている。
僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。振り向くと、激流に浮き沈みする社長の顔が見えた。体がホースから離れ、片手だけでつかんでいる。いまにも押し流されてしまいそうだ。僕がホースを下って手を伸ばすと、大きな手が僕の手首をつかんだ。
社長は必死の形相をしていた。
その瞬間、胸の奥に、不思議な感情が生まれた。
普通に考えれば、この状況とは、まったく無縁であるはずの感情。
僕は嬉しかった。
この僕が、社長の生殺与奪を握っている!
これまで何度、罵声を浴びせられただろう。
『死ね』『クソ以下』『役立たず』『給料泥棒』――
それだけではない。
毎日のように叩かれ、物を投げつけられ、蹴られた。
僕の結婚式のスピーチで下ネタを言って、会場を凍らせた。本人は爆笑していた。
土日なんてないも同然だった。家族で動物園に行こうとした朝に電話があって、ソシャゲのリアルイベントに代理で参加するため、四国の商業施設まで飛んだこともある。
この人がいなければ。
何度、そう思ったか。
いや、いなければ、なんて
死んでくれれば。そう思った。
誰にも見えない。
水中で手首を動かして、この手を振り払えば……そうすれば……!
社長と目が合った。
ときに、目は口よりも物を言う。
社長が僕の手を持つ力が強くなった。
「茶山さん!」
誰かが叫んだ。
大きな木の幹が、水面を跳ねるように流れてきた。
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