2章(2)

「とりあえず、ここから出ないと……」


 声に出して、自分に言い聞かせた。

 とはいえ、三階から下は川の中だ。

 正面玄関から出るわけにはいかない。


「屋上に行きません? 高いところから見れば、もっと状況が分かるかも」


 弓鳴の提案に乗ることにした。

 幸い、エレベーターの隣、つまりすぐ近くに階段がある。

 弓鳴に肩を借りて、一段ずつ昇った。

 屋上に出ると、さあっと冷たい風が吹き抜けていった。

 一気に視界が開ける。

 他のビルどころか、人工物が何も見当たらない。

 陸地では、緑の丘がラクダのこぶのようになだらかに連なっている。

 ピッ、と音がした。


『このビルごと、イタリアのフィレンツェ近郊に飛ぶ。一四九五年の十二月だ』


 弓鳴の携帯から、月島さんの声が再生される。

 弓鳴が確信に満ちた顔でうなずいた。


「ここ、本当に過去のフィレンツェ近郊かもしれません。地形が……それっぽい」


「……いや、ないだろ。地形が似ているという根拠は?」


 弓鳴が丘を指した。


「東京には、過去にだってあんな連続した丘陵地帯ないでしょう? 私、昔から歴史が好きで、大学でも勉強したんです。中世ヨーロッパ、とくにイタリアが専門です。卒論の準備のために、現地にも行きました」


 弓鳴が月島さんの問いに『イタリア』と答えたのには、そういう背景があったわけだ。


「ここが本当に過去のイタリアなら、君の希望が叶ったことになるな」


「私のせい? 茶山さんがグズグズして答えないのが悪いんでしょ」


 強い。

 ノータイムで弾が撃ち返されてくる。

 僕は口を閉ざして不毛な議論を打ち切った。

 目の前の現実を受け入れなければ。

 あらゆる人と状況に対応する。それが僕の唯一にして最大の長所ではなかったか。これまで、社長や上司から投げられたいくつものムチャブリをクリアしてきた。

 しかし――? 

 その中でもこれは……最高にバカげている。


 どこからか、人の声が聞こえた。

 弓鳴に肩を借り、声がした方の柵に近づく。

 死角で見えていなかった場所に人がいた。

 四階の避難階段の踊り場が、外に向かって大きくせり出している。

 まるで出島だ。

 階段の手すりに結ばれたホースが、川を横断して陸まで伸びている。陸では脱出した社員たちが列を作り、ホースを綱引きの要領で持っていた。

 避難階段に残っている社員が、ひとりひとりホースを手繰たぐって川を渡っていく。陸地まで、三十メートル前後あるだろうか。膨らませたビニールのゴミ袋を浮き輪代わりに使っているようだ。


「よおし、そのまま! 怖がるなよ、陸を見ろ! !」


 大柄な男が、渡河の指揮をとっていた。

 社長、天道大樹てんどう だいきその人だ。

 意外だった。

 

 いつだったか、社長の出張に同行した際、宿泊先のホテルで火災報知器が誤作動するアクシデントが発生した。避難階段に宿泊客が殺到してパニックになる中、社長は後ろからタックルを食らわせて自分だけ逃走経路を切り開いていた。

 元来がんらい、我が身が第一の人なのだ。

 もしかしたら、あのリーク記事が関係しているのかもしれない。記事の後半では、社長の豪遊や愛人についても詳細に報じられていた。否定したとしても、社員の心証を害するのは確実だ。非常時に頼れるリーダーを演じることで、ポイントを稼ごうとしているのではないか。


「――あ、同期がいる!」


 弓鳴が声を弾ませて、避難階段にいる集団を指した。

 社長の気まぐれで大量に新卒を採用した年があり、弓鳴はその世代だった。後に社長が『黄金世代』と名付けたのは、良い人材が揃っている――からではなく、単にカネ、人件費がかかる世代という意味らしい。

 弓鳴が屋上の柵から身を乗り出し、避難階段に向けて大きく手を振った。


「おーい! 助けて! ケガ人がいるの!」


 待つこと数分、二人の男が屋上にやってきた。

 営業局の遊馬悟あすま さとる

 企画局の匠司賢太郎しょうじ けんたろう

 二人とも弓鳴の同期社員だが、対照的な雰囲気を持っていた。


 遊馬は、見るからに体育会系の男だ。

 体格に恵まれ、顔立ちが凛々しい。少年のような無邪気な笑みが、造形のいかつさをやわらげている。身に着けているものから、日頃の真面目な仕事ぶりが分かった。

 灰色の生地に薄く格子柄が入った小奇麗なスーツを着ており、スラックスの片膝だけが擦れている。店舗管理や新規開拓だけでなく、日々現場に立ち、膝を床についてお客様のフィッティングの手伝いをしていれば、自然にそうなるのだった。


 匠司には、研究者のような知性と落ち着きを感じた。

 容姿は、いまいち冴えない。切れ長の目や日本人にしては高い鼻などパーツは整っているのに、メガネがすべてを台無しにしている。クラシックな鼈甲べっこうぶちのフレームで、レンズが分厚い。メガネ屋で『一番安いものを』と頼んだら出て来そうな代物だ。髪に寝癖、ジャケットには無数のしわが残っている。センスは若手デザイナーの中で飛び抜けていると聞いたが、当の本人からは、無粋な印象が拭えなかった。


真記まき! 心配したぜ、ホント」

 

 遊馬が微笑んで、弓鳴を親しげに下の名前で呼んだ。


「……ケガ人って、この人か」


 僕を見る匠司の顔に、嫌悪感がありありと映っている。

 どうやら僕は、若者全般から好かれていないらしい。

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