第3話 葛藤

 順調に私のお腹のなかで赤ちゃんは育っていて、胎動が聴こえた時は感動して泣いてしまった。


 妊婦は情緒不安定になるというが本当でやたらと泣ける。夕方になるだけで泣いて動物の映画や大家族のドキュメンタリーを見ては泣いた。


 初めは産まない選択肢を選んでいた自分。酷いよね。私は自分を責めていた。

 私だって妊娠が分かった瞬間は産みたいと思ったよ?

 考えなかった訳じゃない。

 だけど私に人ひとり育てられる?

 どこまでいっても半人前な私が責任を持てるの? 子供を愛せなかったら? 赤ちゃんが可愛く思えなかったら? 無責任に産んで子育ても仕事も上手くいかなくて虐待してしまうかもしれない。


 彼に抱かれる時は避妊もきちんとしていたのに妊娠したのでパニックになって誰にも相談できずにいた。

 いい歳をした娘が実家暮らしをしてるだけでも肩身が狭いのに『不倫していて妊娠しました』だなんて家族に言える訳がないと思ってた。


 葛藤して悩んで悩んで。

 妊娠初期に倒れてお姉ちゃんに知られた私は頭が真っ白になったけどあの時来てくれたのがお姉ちゃんで良かった。背中を押してくれて感謝してる。

 そうして母親になることを受け入れると産まれたくて頑張っている赤ちゃんを見捨てようとした自分が嫌で穢らわしく感じた。


 私は妊娠による体の変化、悪阻つわりや肌が敏感になって全身の痒みに苦しみながら自分の浅はかさや運の悪さや身勝手さにも嫌気が差していた。

 赤ちゃんより『私』を優先だったって事。どうにも自分が許せなかった。

 そして現実問題が毎日襲いかかる。


 経済的なことや私なんかが母親になれるのかという自信の無さ。

 産むのか、産まないのか。

 産むと一度決めたのにまた悩んだ。

 赤ちゃんを堕ろすなら時間がないこと。自分が女であることにすら恨みがましく思っていた。

 男ならこんな痛みないじゃない?

 同じ快楽を得た果てに私だけこんな苦しみがあるなんて男はズルいじゃんか。


 日に日に大きくなってきたお腹は周囲に隠せなくなっていた。幸いにも、といえば彼女に悪いが私の上司はシングルマザーで理解があった。

 上司は色々相談にのってくれ育児休暇や保育園の事や妊娠中の不安な気持ちを吐露すると気持ちがだいぶ落ち着いた。


 私は胎動を感じる度に愛おしさがどんどん溢れてきてやっと母親になる覚悟と一つの大切な命を育んでいるという自覚が芽生えていった。


   ◇◆◇


「子供の父親は俺だよな? 責任を取らせて欲しい」


 私は雅也まさやに呼び出されて二人でよく行ったレストランの個室で会う事になった。

 大好きなイタリアンのお店だったが今は悪阻つわりで以前は好んで食べたチーズや料理の匂いに胃腸や胸がムカムカとしていて辛い。私は安定期に入っても悪阻が無くならなかった。


「責任?」

「妻に話したんだ。子供が産まれたら俺達で育てるよ」

「はっ?」

 私は全身が凍りつきそう。話してる相手がかつてベッドで愛し合った相手とは別人に思える。

 この人は誰?

 私の好きだった雅也なの?


「前にも言ったけど俺達夫婦は不妊治療しても子供を授からなかった。君が妊娠してるって言ったら妻が代理出産だと割り切るっていうんだ」


 私のワイングラスにはカットした檸檬を落とし込んだ水が注ぎ込まれている。グラスを握る右手が震えた。

 わなわなと怒りが湧き上がってきて雅也の顔にグラスの水を投げかけてやりたくなった。





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