愛と呼べない夜を越えたい――Nov.


 真っ白な画面にうんざりした。

 誰もいないことをいいことに大きくため息をつく。

 小一時間ほど前に教授から進路について散々言われたが、どれもピンと来なかった。途中からネタを思い描くのに夢中で生返事だったが、血の上った教授じいさんも同じことを三回ぐらい言っていたから、おあいこだろう。

 学費はバイト代でまかなっているから問題ないじゃないか。親代わりの叔父だって、兄貴と一緒だなと許してくれてんだ。半笑いだったが、俺の人生をレールにはめるつもりはない。

 教育学部棟を出て、焦る気持ちを抑えながら足早に進む。自転車を乱暴に停めて部室に潜り込んだ。

 幸いなことに誰もいない。身体中を巡るようなネタを早く形にしたかった。

 いざノートパソコンを開けば、最初の一文が思い付かない。仕様がないので脈絡もなくプロットを打ち込んだ。見る見る内にできたものにざっと目を通してなかなかの出来だと口端が上がる。新しいファイルを開き書きはじめようと構えたが、指は一ミリも動かず最初に戻っただけだった。

 どうどう巡りに無駄にエンターキーを連打する。カーソルが下にずれて行くだけだ。

 途中から書いても良いが、最初から勢いに乗って書きたい。意地になって首を何度も回し、肩をもみ、腕を回しても効果はなかった。

 考えても考えても思い付かない奴だな、これは。

 急にお腹が空いていたことを思い出した。飯を買いにいこう。保存を終えたノートパソコンを机に置いたまま部室を出る。鍵代わりの南京錠を差し込んで、弁当屋に向かった。体を動かしながらも頭の隅では最初の一文を考える。

 自転車のペダルに足をかけても思い付かない。信号待ちをして、横断歩道を二つ過ぎ、弁当屋の明るい看板を見てもいい案は閃かない。

 注文を待つのも面倒で棚に並べてあった弁当をレジに持っていく。たぶん同じ大学の学生アルバイトに愛想を振り撒かれたが、返事をしてやる気分にならなかったので会計を済ませて店を出た。ビニール袋を引っ提げて同じ道を引き返す。剃り忘れた顎髭を爪先でかき、上の犬歯を舌で撫でた。いつものルーティンも俺の頭に救いの手を差しのべてくれない。

 部室で食べてもいいが、きっと何も思い付かないで終わるだろう。そんな気がして、正門を抜けて右に曲がる所を左に進路をとる。白い息が出ないことが不思議なほど、冷えていた。

 自転車から降りて枯葉だらけの桜並木を歩く。等間隔に並ぶ街灯へ集る虫を眺めながら、枝だけになった木を見上げた。真っ暗な夜空に黒い枝がのびている。

 枯葉を踏みしめる音とチェーンの規則正しい音を耳の端で聞きながら歩いた。街灯の下に置かれたベンチに人影を見つけて歩調をゆるめる。

 体に染み付いた人間観察を息を吸うようにしていた。

 まとめるのに苦労しそうな色素の薄いふわふわな髪。白い肌に桃のように赤い頬。首には不格好なまでにマフラーを巻いて、ほかほかの肉まんを頬張っている。見た目だけで判断すれば至極、能天気な女だ。


「お兄さんもご飯ですか?」


 リスのような瞳が不思議そうに見つめてくる。肉まんに集中してるとばかり思っていたのに意外と周りを気にしていたらしい。

 無言で立ち去ろうかとも思っていたが、女がまた声をかけてくる。


「隣、空いてますよ」


 にこにこと悪意のない笑顔に断る気も失せて、自転車を歩道の端に停める。芝生と落ち葉を踏みしめて、無遠慮な力加減でベンチに座った。

 隣でうわぁ、と悲鳴が上がっているが知ったこっちゃない。


「からあげ美味しいそうですね」


 隣から覗き込んでくる毛玉が邪魔だなと思いながら、自分の買った弁当がからあげだったことに気がつく。初めて弁当に意識を向けて、気持ちだけ入った千切りキャベツと漬物、少し物足りなく感じるからあげを見下ろした。


「冷めてしまわない内に食べてくださいねぇ」


 誰に言ってるかわからない掛け声を上げて、肉まんを大きな口で噛みつく。

 つられたわけでもないが、からあげを口に運んだ。冷めたからあげとキャベツを一緒に咀嚼する。油っこさに珈琲で流したいと思ったが桜並木のベンチにそんな気のきいたものはない。例え、自販機があったとしても買うつもりはないが。


「ココアが飲みたいですねぇ」

「すごい組み合わせだな」


 返事をされると思っていないらしい。真ん丸の目がこちらを見てくる。それも一瞬のことで、おいしいですよ、とへらりと笑った。

 大学の人気のない一角で、肉まんを片手にココアを飲みたいと考える人間なんて会ったこともなかった。闇と枯葉に囲まれた空間で、呑気に笑っている。

 こんなにも幸福な奴は世の中にはいないだろう。

 頭に生まれた言葉に冴え渡る心地が広がった。


「でかした」


 小さな毛玉を押し込むように撫で付けて、弁当を口にかけこんだ。袋にごみを詰め込んで自転車にまたがる。

 後方で何やら叫んでいるが、聴覚を消し去りたかった。一晩で書き上げられそうな熱情を冷えた夜にさらわれたくなかった。

 俺の思考を邪魔しないでほしい。彼女に感謝はしているがそれ以上はないのだから。

 悪態をつきながら、ペダルをこぐ。まだスタートラインにも立てていない自分が許せなかった。



(終)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る