珈琲は月の下で――Oct.

 ふと、顔を上げるとつまらなそうな顔が目に入った。


熊公くまこう、話書く時もそれぐらい集中しろよ」


 熊公と呼ばれはするが、俺の名前にはかすりもしていない。冬眠明けの熊みたいな顔をしてるから、と面倒そうに説明した臼井うすい先輩は入部仕立ての俺にも容赦なかった。

 あだ名で始まり、ペンやノートパソコンを貸せと言われ、果てには使いっぱしり。何をしても感謝の言葉もなく、「おー」と気のない一言。誉められたことも嫌なことを言われたこともなく、気付けば三年も立っていた。あだ名で呼ばれて、それを聞いた他人の怪訝な顔を不思議に思うぐらいだ。慣れとは恐ろしいものである。


「いやぁ、今日までのレポートと小説の締め切りは違うでしょ」


 俺が笑えば、臼井先輩は胡散臭そうに目をすがめる。


「そりゃ違うだろーが、鬼もびびるような顔で書いてんぞ」

「この教授、容赦ないですから」


 単位取れないと留年なんで、と付け加える。昨年受けた全く同じ講義の単位をあっさりと落とされた経験もある。隣に座っていた幼馴染みすずは、秀の評価をされていたので、提出した論文が基準を満たさなかったのだろう。

 それで終わればよかったのだが、さらには今年の前期でも落とされた。進級が差し迫った今期が本当に最後のチャンスだ。


「進級できないのはさすがに困るんで」


 笑えないなぁ、と思いながらもその言葉をこぼす口は力なくゆるんでしまう。

 すずは論文のチェックを申し出たにも関わらず、急な用事で見れなくなったと物凄くしょげていた。思い出し笑いなんて緊張感がないと叱られそうだ。


呂村ろむらちゃんが先輩なのも愉快じゃねぇか。先に受けてもらって講義の内容教えてもらえよ」


 三年留年している臼井先輩が呑気なことを言っている。

 単位を取れないと困るという感覚をこの先輩には求めてはいけない。浪人して、同級生になってしまったひとつ下のすずを思い出す。世話好きのすずが先輩になるのを想像して、似合いそうだなぁと考えたが、その考えを打ち消した。

 まず間違いなく、彼女に怒られる。浪人すると決めた時も、とても心配させた。うん、よくない。

 それに俺にはのっぴきならない理由もある。


「留年して、奨学金止められたら困るんで」

「苦学生だねぇ」


 臼井先輩は全然気にした様子もなく、ニヒルに笑う。この人は他人の不幸を面白がる節があるが、なぜか嫌いにはならない。馬鹿にしている、とか侮辱されたように思わないからだろうか。


「論文は?」

「お陰さまで終わりました」


 簡潔に聞いてきた言葉に、俺は肩の力を抜いて答えた。最終チェックはしてもらってないが、途中で何度かすずにも確認してもらったから大丈夫だろう。

 ふん、と腕組みをした臼井先輩が横柄に頷いた。片方の口端を器用に引き上げる。


「俺の珈琲で労ってやろう」

「やった、ありがとうございます!」


 臼井先輩の言葉に疲れが何処かに飛んでいった。俺はノートパソコンをしまって、棚の上にある電子ケトルを机の上に置いた。

 先輩は勝手に私物置き場にしているロッカーから器具を取り出す。鞄から珈琲豆を取り出して適量をミルに入れ、キリキリと回し始めた。

 俺は珈琲豆を挽く音を聞きながら部室を後にする。照明が点灯する玄関を抜け、文化部棟の横にある自販機の前を通りすぎた。暗闇に浮かぶように光る体育館横の自販機に向かう。以前から珈琲には軟水とうるさい臼井先輩指定のミネラルウォーターを二本買って、部室に急いだ。


「買ってきましたよ」

「おー」


 先輩に声をかけて電子ケトルに一本分の水を入れてスイッチを押した。沸騰するのもあっという間で、下準備をしこまれている俺はドリッパーやサーバー、カップの順に沸いたお湯を注ぐ。最後にドリップポットをお湯で温めながら、追加のお湯を沸かした。

 臼井先輩は口を出してこない。つまりは完璧にこなしているということだ。

 臼井先輩がドリッパーに挽いた豆を準備するのを見た俺は、カップとドリップポットを持って立ち上がる。冷めたお湯をトイレの手洗い場に捨てた。立ち上る湯気に期待がふくらむ。


「貸せ」


 部室の扉を肩で開けると同時に声をかけられる。俺は何も言わずに先輩の前に道具を置いた。

 カチッと電子ケトルが仕事を終えたことを告げる。

 臼井先輩の手によって、電子ケトルから温められたドリップポットにお湯が移された。そこから、先輩は珈琲以外に目を向けない。声をかければ無視をされ、邪魔をすれば一週間は口をきいてくれないことも経験済みだ。

 文芸部の部室で、実験を始めるかのように男二人で無言をつらぬく。

 珈琲の音に耳を傾けながら、お湯を操る先輩はいつものいい加減さが皆無だ。

 俺は何も言わずに、先輩の姿に見入る。この姿を言葉に文章にできたら、どんなに心が満たされるだろう。自分には扱いにきれない言葉は繊細で不便だと思う。

 ドリッパーを満たしていたお湯が滴となって落ちていく。


「電気消せ」

「え?」


 臼井先輩の言葉の意味が飲み込めなくて、間抜けな声が出た。

 珈琲から視線を上げた臼井先輩が眉間に皺をよせる。


「明かりがうるさい」


 続けて、電気を消せ、と臼井先輩が低い声で言った。

 言われるがままに俺は電気を消す。


「野郎と月を愛でる趣味はないが、珈琲を味わうにはもってこいだろ」


 満月にほの白く照らされた先輩が愛しそうに珈琲を眺める。これで、珈琲に月が映ったら最高だな、と呟いた。

 凪いだ様子の臼井先輩を刺激しないように静かに椅子に座る。

 冗談でも、月がきれいですね、と言ったら殺されそうだ。臼井先輩が一口目を楽しむ間に胸の内に封印しておいた。

 珈琲を一口すする。

 ああ、やっぱりおいしい。

 自然と出てくる感情が心に広がっていく。

 隣の部室から、書類をそろえる音が聞こえた。臼井先輩と二人っきりで何をしているんだろう。そんな考えも浮かぶが、もう一口、珈琲を口に含めばどうでもよくなった。

 雑多に置かれた本棚も、凹んだロッカーも、むき出しの壁も何かのフィルターがかけられたように一枚の絵になるような気がする。

 背の高い窓に目を向ければ、中央の窓枠に半月がのぼっていた。下には小さな街灯が等間隔に並び、その隙間をライトを照らした車が走り抜けていく。

 別世界と、生活を感じる景色に、これを切り取りたいな、という欲求がにじみ出る。できるならば、この一瞬を残したい、文字だけでなく、写真という形もいいかもしれない。

 すずに頼もうか。

 ここにいない幼馴染みのことを思い出した。彼女なら、俺が望む以上の写真を撮ってくれそうだ。


「何かいいネタ思い付いたのか?」


 面白がる臼井先輩の言葉に、俺は思わず笑った。



(終)

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