サヨナラ、小さな罪――Sep.
つくづく、自分は無駄なことをしていると思う。でも、高鳴る心臓も今しようとしているいたずらも止められそうにない。
食堂の一角、少し離れた先では他学部の学生が談笑している。私の些細な行動なんて見るわけがない。
細心の注意を払って手をのばしたのは、紫のボールペンだ。机に伏している大きな体から転がり落ちたものに指先が触れた。
私を置いてけぼりにして夢の世界に旅立った彼は気づかない。
自分の手元に持ってきたボールペンを見て、得意な気持ちになった。自動車学校の名前が印字された粗品は無差別に配られたようで、赤、青、緑と戦隊もののような色違いをよく見かける。
自分のペン入れから紫のボールペンを取り出して、彼の傍らに置いた。
見た目には絶対わからない交換だ。
無駄なことだとは思う。でも、私にとっては意味があることだった。
何食わぬ顔で課題に戻った。思い出したように彼を見やるが起きる気配はない。
本当に寝付きがよく、爆睡型。同じ講義に参加して船を漕いでると思ったら、おでこを机に打ち付けたのは風物詩になってしまった。誰も彼の前に座ることはなくなり、教授に小言をもらっても陽だまりのような笑顔はバツが悪い色をほのかに見せるだけで曇ることはない。
一年浪人して私と同学年になった時も、同級生になれるもんだねぇと顔をほころばせた。あまりにも図太いので、得をしているのではないかと思うにぶい性格だ。
食堂の時計を見ると、次の講義の時間が迫っていた。
「ゆう兄、起きなよ」
肩を揺さぶっても起きない。
仕方なしにゆう兄の椅子の後ろに回り込み、両脇に手を入れた。渾身の力を込めて体を起こす。寝る子は育つと言うが育ち過ぎである。熊か、コイツは。
「……あれ、課題が出来てない」
起きて一番の言葉がこれである。
髪が好き勝手に跳ねた頭をはたいてやった。
「寝言は寝て言いなさい」
私の言葉にも焦った様子のないゆう兄は振り返り、おはよと笑う。
時計を見た彼は、締切に間に合わないと軽く放心していた。うっすらと諦めの笑顔が浮かんでいる。
「この課題の締切、明日だから大丈夫」
目がすわった私は可愛くないと思う。しかし、このとぼけた幼馴染みに厳しくしつけるのも私の役目だった。
あからさまに表情を明るくさせたゆう兄は、的の外れた言葉をぼやく。
「浪人してよかったなぁ」
「世話の焼ける年上がいて困ったなぁ」
「はは、ごめんね」
わざとゆう兄の口ぶりを真似する私に彼は笑いながら謝った。全然、反省をしていない、と思うが今更である。ゆう兄が私に甘えるのはいつものことだった。浪人して苦労を理解してもその性根は治りそうにない。
ゆう兄を助けるのも、甘えられるのも喜んでいる自分はとことん彼に甘いと自負していた。行動と態度はついてこないが。
「すず、最近、写真撮った?」
荷物を片付けながら、ゆう兄が話しかけてきた。
私は首を振りながら答える。
「んーん、あんまり。この前、桔梗を撮ったぐらい」
「見してよ。最近、いいネタが思い付かなくてさぁ」
ゆう兄は文芸部に所属している。構内で頒布される冊子に作品を載せる時はよく私の写真を作品の表紙にしてくれた。なんだか、むず痒いと思いながらも断れない。意識して顔に出さないよう繕って私は口を開く。
「近いうちに現像しとく」
「うん、よろしく」
この屈託のない笑顔に私は弱い。心の中だけで嘆息した。
「あれ、
ゆう兄の声に顔を上げた。私の苦手な奴だ。
無精髭にのびっぱなしの前髪。胡散臭いことこの上ない。留年ばかりで期限切れ間近の先輩だ。これでも文芸部では文聖として慕われているらしい。
食えない笑顔を貼り付けた先輩はストローを噛み潰しながら、ゆう兄に応える。
「おぅ、
言わずもがな、熊公とはゆう兄のことである。自分のことは棚にあげて腹が立つ。
この時間、無駄だろう。
そうは思っても口にはしない。不機嫌丸出しの私を放って彼らは話を続ける。
「いえ、まだです。臼井先輩はもう書けたんですか」
「形はできた。楽しみにしておいてやる」
「ありがとうございます。今日は部室寄ります?」
「気が向いたらな」
生返事をしつつ、死んだ魚のような目が私を見下す。
「みーちゃった」
先輩は唐突にふざけた。片方の口端を歪めている。
何を、とは語らないが、先輩の目は雄弁に語っていた。私は握っていたペン入れに力を込める。
首をひねるゆう兄を視界にも入れずに、先輩は切り出す。
「ねぇ、
私は先輩の言葉を無視してペン入れを鞄に入れた。
「俺の貸しましょうか?」
「野郎のなんて借りたくねぇよ」
「わからなくもないけど、それ俺に言います?」
二人の掛け合いも聞こえないふりをして出口を目指す。
「これだとまた留年だなぁ」
愉快そうな声が背中にかけられる。
来年もこの顔を見たくない。
ゆう兄はもう留年できないでしょ、と笑っていた。全く、笑えない。
私は鞄を投げつけたい気持ちを我慢して、ペン入れから紫のボールペンを取り出した。これ以外のペンでも構わないだろう。そんな考えが一瞬頭を過るが、
「返さなくて結構ですから」
私は叩きつけるように紫のボールペンを渡した。
「あ、それ俺も持ってる」
ゆう兄の狙ってるのではないかと思えるほどの場違いな言葉は先輩をさらに笑わせる。
私はその場にいたくなくて、足早に歩を進めた。
「美人が台無しだなぁ」
余計な声が追いかけてきたが、無視だ無視。アイツに割く時間も荒らされる思考も無駄だ。
正面だけを睨み付けて足は止めない。慌てて追いかけてきたゆう兄に簡単に追い付かれた私はさらに歩幅を広くした。
「すず、すず」
斜め後ろから声をかけられるが、止まれそうにない。講義室の席について、自分の息が上がっていることに気がついた。
隣に座ったゆう兄も頬が少し赤い。
「ほら、俺のあげるから」
ほしかったんでしょう?とゆう兄は私を子供扱いする。確かにゆう兄のボールペンがほしかった。彼の物がほしかった。だけど――
「お揃いじゃない」
私の小さな我が儘はゆう兄に聞こえなかった。なんて言ったの?と困り顔。
情けない気持ちになりながらも、私は返ってきた紫のボールペンを受け取った。
(終)
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