ぼくとその女の子【8】

「人がいなくて静かなところがいいな。ちょっと付いてきてくれる?」


 くれはに連れられてたどり着いたのは、三階、それも校舎の隅にある、視聴覚室だった。


 いつもは部屋に入る前に児童たちが脱ぎ散らかした上履きでドアの回りが一杯になる部屋だ。でも今ぼくたち二人は脱いだ上履きを手に持って中に入り、くれはがドアの鍵を閉めた。なんというか、少しだけモコモコしたこの特徴的な床のせいなのか、部屋の中はいつもの教室とは違った独特のにおいがしていた。


 ぼくは部屋の隅に立てかけられていたパイプ椅子を二つ、手に取ろうとする。


「いいよ床で。この部屋の醍醐味でしょ。そんなの座ったら外から見えるよ」


 窓の外には野球チームが練習をしている様子が見える。ぼく達は窓際に隠れるように座った。流石にこっちを見てて気が付く人なんていないと思うけど。


 ぼくは何の話から切り出せばいいかわからなくてこの変な材質の床の模様を眺めながら、思考を空回りさせ続けていた。くれははぼくの方を少し俯いたまま向いていた。


 どうしよう。何か言わなきゃいけないんだけど。


「「…あの。」」


 無理やり搾り出した二人の声は、見事なまでに重なった。慌てたぼくは、口をぱくぱくさせながら完全に言葉が出なくなった。


 くれはも一瞬びっくりした顔をしたけれど、今度はぼくの顔をしっかりと見つめて、少し笑った後静かにもう一度話し始めた。


「金曜日は本当にごめんなさい。ちょっと嫌なことがあった直後で。あんまり自覚無かったけどイライラしてたみたいで。ほんとただの八つ当たり。それも関係ない人に。いきなりあんな風に言われて意味わからなかったよね?後になって冷静に考えてみたらどう考えても私情緒不安定なやばい子で。それがもう本当に恥ずかしくて恥ずかしくて…。謝るしかないんだけど突然怒って今度は突然謝ってきたらそれはそれで情緒不安定だからどうしようって思ってたんだけどやっぱりこうするしか無いから来てもらいました。」


 なんで敬語?もしかすると、この子もかなり動揺しているのかもしれない。やたら早口だし。


「ぼくの方こそ、ごめん。その、いろいろと。」


 相変わらずぼくの声はこんな大切な時に、いや、こんな大切な時だからこそ、自分でも嫌になるほどの自信がなさそうだった。くれはの優しい視線すらまともに受けることができず、ぼくの視線はくれはの口元あたりを彷徨っていた。


 ぼくの言葉を聞いたくれはは、少し考えるような様子を見せて、ぼくたち二人の間にはまた少しの間、音の無い時間ができそうになった。


 でもくれははすぐに口を開いた。その表情は先ほどまでの優しさの余韻も残しつつ、凛とした、とても真剣なものに変わっていた。


「いろいろとって、どういうこと?」


 ぼくは何も答えられず更に目を逸らした。しまったと思ったけれどもうすでに遅い。この子はぼくのうっかり漏らした投げやりな部分を、見逃してはくれないみたいだ。


「別に対した意味じゃないよ。金曜日のあの時のことはぼくの方も申し訳ないと思ってて、勝手に調べてさせてもらっただけ。気持ち悪いと思ったなら…その…やっぱりごめん。」


 目を合わせないまま、ぼくの歯切れの悪い声が響いた。これではごまかせるわけがない。


「違う。そうじゃないよ。というかまず、それも別に悪いことしているわけじゃないでしょ?少なくとも謝るようなことじゃない。それよりも、さっきキミはいろいろって言った。まだ他に謝るようなことがあるってこと?何のことかわからないけれど、もしそうならキミは間違ってる。そんなことを思うのは完全に必要のないこと。キミという人、キミの価値はキミ自身が伝えるんだよ。秋野さんじゃない。」


 なぜ突然秋野が出てくるのか。一見唐突なその名前をここで出すことが出来ることはこの子の優しさを示している。


 さっきの秋野のぼくらをからかうような態度、くれはの挑発にカチンと来た様子の意味とは何か。一応確認しておくともちろんそれは二人がぼくに気があるなどということでは全く無い。


 秋野は悪い言い方をしてしまえば、選ばれた側の人間だ。そして本人にもその自覚がある。見た目は華やかだし、何をやらせても器用に大抵のことはこなす。あの気の強さに実力が付いて来たのか、自分の実力に対する自信から来る気の強さなのかはわからないけれど、本人にもプライドがあるんだと思う。


 事実、ぼく達のクラスは秋野によって動かされている部分はある。特に女子は、秋野が気分次第で何か渦を巻き起こせば逃れることは出来ない。逃れようとすると渦の中心が近づいて来かねないので、変にじたばたすることは諦め、ある程度の距離を保ちつつ秋野の周りを大人しく回っていることが建設的だし、実際に皆そうしている。一人を除いて。


 クラスの女王のような存在の秋野だけれど、彼女にとって不幸なことに我がクラスにはどうにも自分の力が及ばない存在がいた。


 水槽みたいにちっぽけなぼく達のクラスに、秋野は特大の渦を巻き起こす。ぼく達は逃げ場なく巻き込まれるしかないけど、くれはだけは言ってしまえば空に浮いているというか、文字通り次元が違うのである。


 くれはと対しているときの秋野からは自信を感じない。強い言葉も、使えば使うほどなんというか、一種の怯えのように見えてしまう。秋野のぼくに対する態度は、決して友好的なものではなかったけれど、ぼくはそれに対し情けなくはあっても腹立たしい、みたいな気持ちは正直言ってあまりなかった。


 特に今は、くれはの言葉に勇気付けられて負の感情は小さくなっている。物事を冷静に、客観的に見れる。我ながら単純な奴だな。


 こんなことを言ったら秋野はそれこそものすごく怒るだろうけど、自分は相手に対していろいろと仕掛けているのに、相手は真正面から相手にしてくれないほどむなしい事は無い。正直、秋野とくれはのやり取りはそんな感じだった。自分のじたばたが、相手には届いているのかいないのかどうにもスカスカした手ごたえで、ますます相手との差を感じてしまうのは、自分は大したこと無い人間なんじゃないかと気が付き始めた瞬間は、どんな気分なんだろうか。想像は容易い。


 人としては苦手なタイプの秋野。それでも、秋野の気持ちはなんとなくわかってしまう気がした。くれはという特別な存在に向き合った瞬間、ぼく達は同じ平凡な存在として纏められてしまう。


 秋野。君はきっとそれを認めたくないんだろう。

 でもあんなことを言っていても君は結局満たされることは無いと思うよ。


 きっと秋野は、くれはがぼくみたいな冴えない男子と一緒にいるところに希望を感じてしまったんだろう。自分より特別な存在が、大したこと無い奴とそういうことになっている、実は結局平凡な人間だという可能性にすがってしまったのかもしれない。


 でもさ、秋野。君はぼくのことをどう考えているのかな。変な言い方だけれど君はくれはをぼくと同じところまで降ろそうとした。でも自分がぼくと結びつけられたら怒るだろう。


 そんなことが本当にあると思うのかな…。

 君だってこの子が特別だということはもう内心、十分にわかってしまっているはずなんだ。


 ちょっと考え方が雑すぎると思う。とんでもない人間を相手にするのなら、せめてもっと作戦は練らないと。そもそも倒す方法があるかはわからないけれど。


 けれども、これまで言ったことと食い違うようだけど、くれはは確かにあっさりと秋野を撃退したけれど、そのやり方はぼくの思っていたようなものとは少し違った。


 秋野は今まで普段からあからさまにくれはのことを煙たがっていた。まあ、本人は認めたくないだろうけど目の上のたんこぶって奴で。


 だからやっかみというか嫌がらせとまではいかないにしても陰口、嫌味を言っていることはたまにあって、くれはは今までまともに相手にしないであっさりと逸らし続けて来てて、だからこそこの二人の間には明確な、まあ言ってしまえば格の違いを感じてしまっていた。


 でも今回は、くれはは秋野を正面から受け止めた。受け止めて、跳ね返して、撃退した。

 ぼくはそれが意外だったし、やっぱり秋野は怒るだろうけど、正直ある意味で秋野の成果としては今までで一番マシだったんじゃないかな。


 今までかすりもしてなかった攻撃が、初めてその姿をとらえたんだ。

 …巻き込まれたぼくが言うことではないけどさ。


 それで、まあぼくの方なんだけれど。

 少し嬉しくて、悔しくて、情けなくて、恥ずかしくて、そしてまた、少しだけ嬉しい。


 くれはがどうして珍しく秋野を正面から相手にしたか。自意識過剰みたいで恥ずかしいけれど、それは多分、ぼくがいたからだ。

 ぼくと言うか、他人を巻き込んだから、いつもみたいに通りすぎるのを待たないで、いち早くくれはは振り払うことを選んだんだ。


 次元の違う特別な存在が、同じステージまで降りてきて自分を守ってくれた。自分を気にかけてくれた。

 そのこと自体はとても嬉しいことで、この子がやっぱり素敵な子だということを示す。

 でもそれは同時に、ぼくがこの子を引きずり降ろす存在だと言うことも意味する。他でも無い秋野の態度はまさにそれを意味していたし、何よりもぼくが一番、そのことを自覚していた。


 よく言われる「釣り合わない」という表現は好きじゃない。人の価値を決めるのに秤に乗っける方法はナンセンスだと思うから。

 でもこの場合は、それもまあ妥当な表現かなという気がしていた。


 あまりにも自然にこぼれ出た「ごめん」の一言には、ぼくのかっこ悪いところの全てが詰まっていたんだ。


「私、さっきのこと、別に冗談で言ったんじゃないんだよ?」


「秋野さんがびっくりしているところ、見たくない?君のかっこいいところ秋野さんに見せて、好きにさせちゃおうよ。」


 突然、なんだかすごいことを言って、くれはは笑った。


 いつかのようにくれはの背後、窓の外からは眩しい西日が差し込んでいたけれど、それよりも眩しい、さっきまでとは打って変わった、優しい笑顔だった。


 さっきまでぼくの中に渦巻いていたはずのもやもやした気持ちが、これを見られただけで消し飛んでしまったことに気付いて笑いそうになった。


 くれはに意味を勘違いして捉えられない様に、慌てて取り繕った。


「そうだね。まずはそのくらいの人になれなくちゃ、ダメなんだ。」


 ん?なに言ってんだ、ぼく。


 くれはは一瞬だけ固まったように見えたけど、そのあとすぐに、とてもうれしそうに笑い始めた。

「あはははは!やっぱり君はわたしの思ってた通りの面白い人だった!」


 何にも取り繕えていない。思ったことをそのまま口に出した、めちゃくちゃ恥ずかしいただの決意表明になった。


 多分ぼくの顔は真っ赤になっているだろうけど、この子が嬉しそうだし、もう半ばやけくそ感がありつつも、正直悪くない気持ちだった。

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