ぼくとその女の子【4】


 朝起きると、父さんはもう仕事に出ていた。悪いけどあるものを好きに食べてくれとの書置きが残っている。ありがたく頂かせて貰おう。何も悪くない。


 とはいっても別に特段食べたいものがあるわけでも無いので取り敢えず卵とベーコンを焼いてみた。後は米か…。


 カパッと音を立てて炊飯器を開くと、そこには綺麗に洗われたお釜があった。

 いやわかってたけどさ…。電源入ってなかったからね…。


 父さんは何を食べていったんだろうという疑問とどうせなら炊いておいて欲しかったという落胆といや、それは昨日自分で気が付いてやっておくべきだった作業だろうという反省を浮かべて、まあだったらパンにすればいいやという着地点をぼくは見つけた。


 フライパンの上のものを焼いたパンに乗せて塩を適当にぶっかけて齧る。

 齧る。噛む。飲み込む。齧る。噛む。飲み込む。齧る。噛む。飲み込…。


 最後の一口だけワンテンポ遅れてごくんと飲み込む。うん。まだ飲み込めていない。

 コップに注いだお茶を一気に飲む。うん。


 一晩経っても飲み込めないものが、まだある。それはぼくの頭に張り付いている。


 このまま何もせず夜になって明日になって、そして週が明けて学校に行くのをただ待っていることはちょっと…耐えられないと思った。


 土曜日…。サイクルは狂うけどまあもう返せるし、いいか。

 ぼくは玄関のドアにしっかりと鍵をかけたことを確認すると、自転車に跨って家の前の坂道を下った。ペダルは殆ど漕がない。それでも車輪は回り続ける。顔に感じる風は、少し生暖かい。



 自動ドアをくぐって右手に曲がり、入館カードをかざして機械に道を開かせると、いつもの慣れ親しんだ匂いを感じた。この匂いにこの建物そのものはどれほど関与しているんだろう。もしこれら全てを別の場所に移しても、同じように紙は香るのだろうか。


 鞄から三冊、本を取り出してカウンターの五十歳くらいに見えるおばさんに差し出す。本当は返却ボックスに置いておけばいいんだけど、ぼくは毎回、直接カウンターに持っていくようにしている。もし何か不備があって、問題になったりしたら嫌だからね。


 市営のこの図書館は、結構本の種類が豊富で、ちょっと古い建物の感じも、落ち着いた雰囲気を醸し出していてぼくは結構気に入っている。学校から離れたところにあるせいか、ここで同級生を見かけたことはほぼ無いというのもポイントが高い。


 いつもの本棚のあたりを見る。いや、今日はこっちが目的じゃ無いんだ。気持ちを切り替えて、目的の場所に向かう。


 部屋の扉を開けると、中には人は誰もいなくて、モニター画面が二列に三つずつ、並んでいた。奥の方にある壁の近くの席に座り、電源を付ける。数分待った後、検索画面を開き、人の名前を入力する。何と入れたかは言うまでもないけれど。


 …すごいな。ニュースサイトのインタビュー記事、紹介記事。いろいろな作品に出ているのがよくわかる。ぼくが思っていたより、遥かに凄い子だったんだ。ぼくは一体、誰に、何のつもりで話していたんだろう。


 自分の足場がまるでふわふわしているような気持ちになったぼくは、キーボードを本当に自分の指が叩いているのかはっきりしないまま、検索条件を加えて、画面を更新する。


 より詳しく、より正直で、そしていい加減でくだらない方へ。ぼくは本当にしょうもない人間だ。


 …。なるほど。やっぱりこんな感じか。


「大人に媚びすぎてて、見ててキツい。」


「親に吹き込まれたことそのまま喋ってるのが気持ち悪い。」


「それはむしろ親だろ。テレビ番組の子役のいい子強調の扱いは実際クッソキモい。」


 まあそりゃそうだと思う。ぼくだったら大人が喜びそうな白々しいことをましてやテレビでなんて、とても言えない。ぼくが捻くれてるのもあるけど。むしろそれしかないかな。


 あの子が何を喋っているかよく知らないけど、どんなことを言っているのかは大体想像がつく。まあそれを調べにここにきたんだけど。父さんのパソコンを使うこともできたけど、何となくそれは躊躇われたのでわざわざここまで出てきたのだ。


「銀髪だから珍しがられて出てるだけじゃん。大人になったら髪の色なんて染めればいいんだから、何の価値もない。」


「というかアレ本当に地毛なわけ?親が注目されるために染めさせたとかじゃなくて。」


「しょっちゅう聞かれて毎回地毛だって答えてたじゃん。最近あんま聞かないけど。」


「そりゃそんなことしてたら虐待って言われるからな。もしマジでそれでテレビ側も引っ込みつかなくなってそのままだったら笑うけど。」


 いやそれは普通に世間に浸透したから今更言わなくなっただけだろ。ぼくには浸透してなかったけれど…。


 なんとも嫌な気分になった。不愉快な掲示板の書き込みを読んだからじゃない。


 あの子の綺麗な髪を思い出す。本当に地毛だって知っているからでもない。


 ぼくはさっき強い劣等感を持った。あの子が思っていたよりもずっと凄い、選ばれた子供で、手を伸ばしたら届かなくて空を切ったというか、そもそも最初からそこにいなかったような悔しさとか虚無感を感じた。あの子は自分とは比べ物にならない、崇高な存在なんだって。なのにそのくせ、あの子を軽んじる人たちがネット上にはちゃんといるのを見て、あの子が髪の色のことを言われて怒るような弱さというか、普通の人っぽいところを見せたことを思い出して安心した。他でもない自分が怒らせて、それをずっと気にしていたはずなのに。そのことに助けられた。ぼくはその程度の、何もない人間だ。


 しばらく席に座ったまま、特に何かするわけでも無く考えていた。いや、考えていたといえるかどうかすら怪しい。結局自分が大したことない奴だという卑屈な考えを、頭の中でずっとぐるぐる回していただけなのだから。


「あれ~。久方じゃん。どうしたの。」


 急にドアが開いて、入ってきた女子に話しかけられた。

 秋野里穂。クラスメイトで、前のクラスから一緒だったから、全く知らない訳じゃない。だけど。


「あっ、うん。パソコン使いたくて。ぼくちょうど帰るとこだから、ここどうぞ。」


 開いていたタブを慌てて閉じて、席を譲る。


「何それ答えになってないし。ここ来る奴はみんなパソコン使いにきてるでしょ。」


 はっきりとした物言い。この子はいわゆる女子グループのリーダー格で、クラス内での発言権は強い。相手のことを気にしない、自分の歩きたいところを堂々と踏んでいくようなこの子の振る舞いが、ぼくは苦手だった。


「まあいいや。ありがと。」


 聞いてみただけで大して興味は無かったらしく、秋野は荷物を少し乱暴に隣の椅子の上に置き、自分はさっきまでぼくが座っていた席について、持っていた何かの端末をパソコンに繋ぎ始めた。


「それじゃあ、また学校で。」


 いつ部屋を出るべきかタイミングを見計らってみたけれど、どう考えても間を空ければ空けるほど出にくくなるので、多少無理やり流れをぶった切ってでも外に出てしまうことにした。秋野と二人だけで個室にいる状態は、すぐにでも解消したかった。


「ん。あー、あのさあ。」


 やばい。声をかけられた。わかる。この後来る会話の内容は、少なくともぼくが喜ぶような内容では絶対にない。やっぱり間髪入れずにすぐに部屋を出るべきだった。

でも秋野は、彼女にしては珍しく少し考えたような間を空けた後


「んー。やっぱいいや。ごめんごめん。また月曜ね。ばいばい。」


 意外にも優しく微笑んだ後、軽く手を振ってきた。ぼくはどうすればいいかわからず、手を少しあげたけれど、それを振ることは無く、軽く会釈をして部屋を出た。何が「また」なのかはわからない。どうせ別に学校で話すことなんてないのだから。


 秋野は女子グループのリーダーになるだけあって、多分顔は整っていると言っていいと思う。そして本人もそれを自覚していて、自信を持っている。秋野はクラスのほとんど話したこと無い奴とうっかり休日に会ってしまうというこのめんどくさい状況を、あっさりと処理してみせた。ぼくは秋野が確かに苦手だけれど、ただクラスが同じなだけのぼくにいかにも「友達です。」みたいな対応が平然と出来るところに、妙に感心してしまった。それとも勝手に委縮して壁を作っているぼくの方が間違っているのか。


 なんだか自分が、ますます惨めになったように感じた。いつもの本棚の前に向かったぼくは、タイトルがシリアスっぽくて厚めの、少なくとも小学生はほとんど読まなそうな小説を三冊、適当に引っこ抜いて、急いでカウンターを通すと、逃げるように家に帰った。


 結論から言うと、ぼくはミスをした。しかもこの時、ぼくは何を間違えたかにすら、気が付いていなかった。

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