ぼくとその女の子【1】

 井の中の蛙大海を知らずという言葉があるけれど、大海を知らないまま、偶然どういうわけか同じ井戸の中に大魚が居合わせてしまった蛙のことは想定しているのかな。


 四年生に進級した蛙、久方春陽は井戸の中にとんでもない大魚がいることに気が付いた。


「小倉さん。あなたの番ですよ。」


 今は国語の授業中で、物語を一人一人順番に読んでいる。

 母親が娘に友達の大切さを伝える、まあ特段面白くもなく、つまらなくもない普通の話だ。


 窓の外をぼーっと見ていたその女の子は、案の定授業に集中していなかったみたい。

 その子の番で流れが止まり、担任の先生が指摘する。


 慌てる素振りも見せず、静かに立ち上がったその子が読み始める。

 母親に問いかける娘の言葉を。

 それに優しく応じる母親の言葉を。

 なんというか、喉の引っ掛かりを全く感じない、澄み切った声で。

 …恐ろしく冷淡に。表情一つ変えず。


 棒読みという訳ではない。むしろ人を惹きつける、もしかしたら恐怖すらさせるかもしれない、まさしく人の上に立つキャラクターがそこにいた。

 しかしそれは、もちろん少なくともぼくが読み取れるこの文章の母と娘の姿ではなく、ただのぼくの隣に立っているクラスメイト、小倉くれはその人だった。


 自分の担当分を読み終わったくれはが再び静かに着席する。

 くれはの長い髪は、わずかに開けた窓の隙間から入り込んだ風で揺れ、窓際の席に差し込む光できらきらと輝いていた。


 ぼくは横目でその様子をじっと見ていて、それだから


「久方君。久方君。次は君でしょ。」


 この子まで来たということは当然すぐに回ってくるはずの自分の番にも気付くことができなかった。

 慌てて立ち上がり、読み始める箇所を思い出すのにちょっと時間がかかって、読み始めてすぐに何でもないところで思いっきり噛んだ。


 クラスのあちこちでクスクスと笑い声が起きた。あーあ。さっきのこの子と状況は同じだったのに。笑われるのはぼくの方だけか。


 まあぼくの対応が完全に小物のそれだったのは残念ながら疑いようもないので、甘んじて受け入れるしかない。こういったところに器の違いがはっきり出てしまうものなんだろうな…。


 今日はぼくの学級当番の日で、ということはつまり隣の席であるくれはも同じく当番であるということである。


 下の名前で呼び捨てにしているのはもちろんぼくの中だけだ。

 うっかり本人に伝わったらかなり恥ずかしい。というか気持ち悪がられそう。

 隣の席だけど話したことほとんど無いし。

 同い年のクラスメイトなんだから悪いことではないはずなんだけどね。

 卑屈な心は可能を不可能にするのだ。


 それはさておき、当番には放課後ちょっとした仕事がある。

 先生の手伝いをしてから教室に帰ってきたぼくががらがらと音を鳴らしながら戸を開けると、そこにはぼくの予想に反して生徒が一人だけ残っていた。


 机に開いた、ノートのようなものに向かって何かを書いている。

 背筋はぴんと伸びていて恐ろしい程姿勢が良く、この子の姿はこんな普通の公立小学校のボロボロの机と椅子にはなんだかミスマッチだ。

 いや、だからこそこの子の特別さが余計に際立っていると言えるのかな。

 雰囲気に気圧されたぼくは、つい無意識のうちに足音を立てないようにゆっくりと歩く。

 その結果、その子の隣にある自分の席に辿り着くのに、いつもより少し時間がかかった。


 自分の席に座り、帰る準備をする。

 たいして荷物があるわけではないのですぐに終わり、後は教室を出るだけである。いつもなら。


「…。」


 実のところ、ぼくはくれはが何を書いているのか知っている。というかそれはさっきまでぼくが書くつもりだったものだ。

 学級日誌を書くのは当番の仕事の中で一番面倒くさく、ぼくはくれはにやってくださいとは言えなかったので、最後にこれを書いてから帰るつもりだった。

 いつもくれはは放課後すぐに帰宅してしまうので、一人になってからゆっくり落ち着いて書けばいいかなぁ…と。


「…。」


 しかし予想外にこの子が協力的で、何も言わずに一番面倒な仕事をやってくれてしまっているので、ぼくはどうすればいいか困っている。

 横目で彼女の手元をチラチラと見ていると、残された行はあと二行だった。まずい、もう書き終わるぞ。


 ぱたん。という小さな音を立てて、くれはは日誌を閉じ、筆記用具を片付け始める。

 焦ったぼくは横を向いてわずかにくれはの方に身を乗り出し口を開く。まだ何を言うのかも決めてないのに。


「あっ、あの。ごめん…。日誌、ありがとう…。」


 我ながら典型的なダメな奴の喋り方だと思った。

 なにが酷いって、こんなに近くなのに、相手の目を見て喋っていない。いや、まあこんなに近いから尚更見れないのだけれど。

 この子のあまりに整った顔にはそれだけの雰囲気があるのだ。


 ぼくは最悪スルーされてそのまま帰られることも覚悟した。けれども。


「なに言ってるの?」


 それはぼくが今まで聞いたこの子の声の中で最も温かいものだった。

 驚きながらくれはの顔をそっと見ると、少しきょとんとした様子でぼくの顔を見ていた。


 大きな瞳からのその視線は、ぼくの目を捉え、離さない。

 どうしてそんなに自信を持って人と目を合わせられるんだろう。


「他の仕事全部やってもらったんだから、これくらいやるわ。まさかわたしが全部キミに仕事押し付けて帰るような人だと思ってたわけ?」


 くれはが薄情な人だと思っていたわけじゃないけれど、こういうのを進んでやるようなイメージも無かった。

 どちらにせよ失礼なので、ぼくは何も言えずにいる。


「まあ他の仕事も別にわたしが頼んだわけじゃないんだけどね。全部我先にとやっちゃうんだもん。黒板出来るだけきれいにした後、黒板消し外でぱんぱんやるの、結構好きなんだけれど。」


 意外な答えが返ってきた。もしかしてぼくはこの子のことを少し勘違いしていたのかもしれない。

 この子は、見かけよりずっと取っ付きやすい人なのかも。

 …ということをうっかりそのまま言いかけて慌てて喰い止める。


「なに?あのねぇ。別に責めているわけじゃないから。いや、この言い方も良くないか。実際、やってもらってるわけだし。」


 くれはの表情が移り変わる。授業中とか、今までずっとつまらなそうな顔しかしてなかったのに。

 ぼくはこの短時間で、今までよりずっと多くの種類のこの子を見た。


「まあ、せっかく隣の席になったんだから、もう少し話そうってこと。授業聞いててもつまんないから、暇つぶしにクラスの人達の観察ばっかりしてたけど、たぶんキミが私に一番近い。一番面白そうなのが隣にいたのはラッキーだったのに、それが全然話しかけてこない!チラチラこっちを気にしてたのはわかってたから、そのうち何か聞かれるかな、と思ってたけど。まさか当番回って来るまでかかって、しかもこっちが助け舟出す羽目になるなんて。」


 やばい。見透かされてる。というか、クラスの人達見てたって本当?

 全然他人に興味ないと思ってたのに。窓の外ばっかり見てると思ってたのに…。

 何より、ぼくも?話かけろって一体何を?

 ただでさえ喋るの上手くないのに、この、何考えてるのかわからない子に?

 ああ。他に今何を言ってたっけ。


 情報量が急激に増えすぎて、次の言葉が出てこない。何を聞けばいいのかわからないのではなく、どう聞けばいいのかがわからない。

 浮かんでくる言葉の一つ一つが、頭のどこかで詰まって、パンクしている。

 ぼくが何も言えないでいるうちに、彼女は帰る準備を終え、椅子から立ち上がった。

 空いた窓から風が吹き込み、教室のカーテンをはためかせる。


「それじゃあ、またね。今日はありがとう。とにかく、私の顔色ばっかり窺ってなくていいから。もうそろそろ流石に学校退屈過ぎて限界だったの。別に学校来る必要なんてないし、すごく来たいわけでもないんだけど…、こっちはいいことは無くても悪いことも無いからね…。」


 彼女はそんなことを言い残し、教室を出て行った。

 風は止み、カーテンは垂直に垂れる。


 最後によくわからないことを言われた気がしたけれど、元よりその時何を言われていたとしてもぼくの耳には入っていなかったと思う。

 この時見た光景を、ぼくは一生忘れない。


 小倉くれはには、誰しも一度見たら忘れられない絶対的な特徴がある。

 この子は、太陽の下で文字通り煌めくのだ。

 昼間の授業中は、その名前とは対照的に、白く。


 そして今、くれはのその銀色の髪は、風になびかせられながら、夕陽に照らされて、眩く、そしてその名前の如く赤く、煌めいていた。


 ぼくはあの子が帰った後もしばらく、窓の外の夕陽を物足りないと思いながらただただ茫然と見ていたんだ。

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