第8話 してほしいこと、したいこと

「先輩、何かしてほしいことってありますか?」


シャワーを浴びた蒼衣が、なぜかそんなことを言ってきたのが、15分ほど前のことだ。


蒸気した頬に、まだ湿り気を帯びて、しっとりとした髪。そして、薄手のシャツにホットパンツという、ゆったりとリラックスした服装。


そんな蒼衣を見ながら、俺はひとつ、頼み事をした──のだが。


「本当にこれでよかったんですか?」


「おう」


「なんでもよかったんですよ?」


「これでいいんだ」


むしろこれがいいんだよなあ。そう思いながら、手を動かす。まだ、どことなくしっとりとした髪に指を通していく。


そうするたびに、蒼衣が心地良さそうに目を細めた。


俺が頼んだこととは、日課でもある、蒼衣を膝枕しつつ、髪を撫でることだ。


「でも、本当によかったんですか? せっかくわたしになんでもお願い出来たんですよ?」


「だからいいんだって。朝から普段と違うことばっかりだからな。ここで普段通りのことをしておきたい」


特別なことが続くなかに普段と同じことがあると、なんとなく安心するのだ。


「むぅ。これだと先輩へのご褒美じゃなくて、わたしへのご褒美なんですけど……」


そんなことを言って頬をぷくり、と膨らませつつも、どこか嬉しそうな蒼衣の様子に、つい笑ってしまう。


「俺のやりたいことと、蒼衣がされて嬉しいことが一緒なら、別にいいんじゃないか?」


「……まあ、それはそうかもです。そこが一致しているのは大事なことですし」


「だろ?」


それに、こういうときでなくても、俺が本気で頼めば蒼衣はなんでもしてくれる。俺が蒼衣に甘いように、なんだかんだで蒼衣も俺に甘いのだ。……いや、わりと普段から、特に最近、こいつは甘いな……。


「それで先輩。インターン、どうでした?」


「働きたくないと思った」


「うわあ……」


苦笑する蒼衣に、俺はさらに続ける。


「業界がどうとか、情勢がどうとか、そんなこと考えたくないんだよな……」


俺としては、自由気ままに、気になったことに触れながら生きていきたいのだが……。


「まあ、そういうわけにもいかないしなあ」


「そうですねえ」


くりくりと頭を擦り付けてくる蒼衣の髪を撫でながら、俺はため息を吐く。


働くのは嫌だと思う。……が。


生活するには、金が必要だ。家賃に光熱費に水道代、食費もいるし、娯楽費だって必要だ。きっと、それ以外にもあれやこれやとかかってくるのだろう。


となれば、嫌でも働くしかないわけで。


「やるしかないよなあ、就活」


「そうですねえ。ひとまず、先輩は目の前のインターンを片付けるところから、ですね」


「だな。それさえ終わればとりあえずはしばらくないしな」


一応まだ3回生なので、本格的な開始ではない。とりあえず、インターンさえ超えてしまえば、しばらくは就活について、考えることもないだろう。


「頑張るか……」


「ではわたしは、頑張る先輩をサポートすることを頑張りますね」


ぱちり、と片目を閉じる蒼衣。


「別にそこはいいんだが……。いや、まあ、正直助かってるけどな」


それに関しては、いつものことだったりもするが。


……就活、頑張りたくねえなあ。


いくら可愛い彼女の応援があったとしても、面倒なのは面倒だし、やりたくないことはやっぱりやりたくない。


それでも、やるしかないのだ。やりたくねえ……。


そんな憂鬱な気分になりつつも、俺は軽く目を閉じる。


自分が働いているイメージなんて、頭の中には浮かんでこない。社会人の自分、なんてものは、どこかあやふやで、非現実的に思えて仕方がない。


ただ確実に見えるのは、隣にいる、こいつの姿だ。ふわり、と笑う彼女の姿だけは、明確にイメージ出来る。そんな自分に、思わず口角が上がった。


……蒼衣と楽しく生きていくには、頑張るしかない、よな。


そう考えて、俺は気合を入れなおす。


……けれど。


「とりあえずは明日のインターン2日目に向けて、ゆっくりするか」


その言葉に、蒼衣は優しい声色で、少し目を細めて。


「そうしてください。何事も、しっかり休んで、それからですから」


そう言って、少し頭を擦り付けてくる蒼衣の髪を撫でながら、俺はささやかで幸せなひとときを堪能するのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る