第15話 善と正義と温泉と

軽くではあるが、ひと通り温泉街をうろうろと歩き回った頃、空が赤く染まりはじめたこともあって、俺と蒼衣は旅館へと帰って来ていた。


部屋まで戻り、ふたり揃って床へと座る。


「ふぅ……結構歩きましたね」


「だな。もう足が痛い」


「わかります。それに、汗でべたべたです」


そう言いながら、蒼衣は胸元をぱたぱたとあおぐ。ちらちらと、柔らかそうな縦のラインが覗く。首元には、ぺたりと髪がくっついており、少し上気した頬も相まって、妙に色っぽい。


そんな、どこに視線を集中させるか迷うような光景を前に、鋼の精神で目を逸らして、咳払いをする。


「……とりあえず、1回温泉に行くか」


「わ、ついにですか! 温泉……楽しみです……!」


俺の言葉に、暑さでくてっ、としていた蒼衣が急に元気になる。入る前からリフレッシュ効果のある温泉、すげえな。


「そうと決まれば早く行きましょう! 善は急げです!」


「お、おう。別に善ではないと思うが……」


「温泉は正義ですから、善です」


「善と正義は別物なんだよなあ」


「では先輩、温泉は正義ではない、ってことですか?」


「いや、正義だが」


焼肉と同列くらいには正義である。ただ、善と正義は別、という話だ。


「蒼衣、世の中、正義だから善とか、善だから正義とか、そういうのは成り立たないんだ」


「ふむ……。先輩、急に中学生みたいなこと言い出しましたね……」


頬に指を当て、考える素振りだけ見せた蒼衣は、困りました、とばかりにそんなことを言う。


「誰が中学生だ。この結論に辿り着いたのは大学生になってからだぞ」


「余計に悪い気がするんですけど……。ちなみに、なんでそんなこと考えたんです?」


「何だったか忘れたんだが、講義で考えさせられた」


哲学、とかだっただろうか。よくわからないままに講義を受け、よくわからないまま終わったイメージだ。評価はギリギリだった。ふざけんな。


「大学の講義って、相変わらず変なのもありますよね」


「まあ、あんなの、教授のやりたいことを勝手にやっているだけだろうしな。訳の分からない講義、今思いつくだけでも結構出てくるぞ……」


「……わたしもいくつか出てきますね。なんというか、うーん……」


複雑そうな蒼衣が、微妙な表情で続ける。


「大学生が勉強しないって言われる理由って、100%大学生が悪いと思ってたんですけど、実は大学側にも問題があるんじゃ……」


「間違いなくそうだろうな」


まあ、真面目な講義ばかりになったところで、真面目に受けるかどうかは別問題だが。


「……先輩が真面目に受けるかは別だ、みたいな顔してます……」


「なんだその不真面目そうな顔……」


「こんな顔です」


ぱしゃり、とスマホで撮った画面を蒼衣が見せてくる。


「普通の俺の顔じゃねえか」


「講義中、普段から不真面目な顔してますからね」


「寝てるからそんなことないんだよなあ」


「もっとダメじゃないですか! まったく……って、こんな話している場合じゃないです。温泉です、温泉」


「そういえばそうだったな。……行くかぁ」


ぐっ、と伸びをしながら立ち上がる。旅館の部屋にいると、ついつい外へ出るのが面倒になるのが良くない。居心地が良すぎるんだよなあ。


俺と蒼衣は、それぞれ温泉へと向かう準備をして、部屋を出る。抱えた荷物には、タオルと下着、そして備え付けの浴衣が入っている。


「久しぶりの温泉……楽しみです!」


「だな。のぼせるなよ?」


「それは先輩の方ですよ?」


そんな会話をしながら、俺たちは旅館の廊下を歩いて行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る