エピローグ 夏期休暇はすぐそこに

「それじゃあ、先輩。わたし、そろそろ帰りますね」


「おう」


立ち上がり、玄関へと向かう蒼衣を追って、俺もベッドから出る。


玄関で靴を引っ掛け、がちゃり、と音を立てて扉を開くと、生暖かい風が肌を撫でた。


不快感に顔をしかめながら、蒼衣と共に、階段をぎしぎしとうるさい音を立てながら降りていく。


とん、と軽やかに地面に降りた蒼衣が、自分の服にすん、と鼻を鳴らした。同時に、む、と声を漏らして眉を歪める。


そして、くるり、とこちらを向いて、俺の腕へと抱きついてくる。むにゅり、とした柔らかな感触に動揺しつつ、俺は口を開く。


「……暑いんだが」


「ちょっとだけですから、我慢してください」


そう言って、蒼衣は俺の右肩あたりに鼻を近づけ、さっきと同じようにすん、と匂いを嗅ぐ。……いったい、なんなのだろうか。


「……焼肉の臭いがしっかりついてますね……」


「それはまあ、そうだろうな……」


俺は、右肩に鼻を寄せ、軽く空気を吸い込む。明らかな肉の臭いと、ふわり、と甘い香りがうっすらとした。


謎のフレーバーに微妙な表情になると、そういえば、と蒼衣がこちらを見る。抱きついていた蒼衣も暑かったのか、腕は解放され、代わりに指が絡められる。緩く握られる手を、軽く握り返すと、蒼衣がふわり、と笑った。


「そろそろ、期末試験ですね」


……柔らかい笑顔とは真逆の、悲しい現実の話じゃねえか。


「あー……。そういえばそうだったな」


面接のことで頭がいっぱいになり、忘れていたが、数日後には期末試験が控えている。考えるだけでも面倒だが、やるしかないのも事実。大学生の悲しいところだ。


「……また徹夜週間か……」


「もう。先輩はテスト前に徹夜する習慣、やめたほうがいいと思いますよ?」


「やめると点が取れないんだよなあ」


「普段から講義を聞いていないからですよね……」


「聞いていても取れないんだよなあ」


肩をすくめる俺に、蒼衣は仕方なさそうに、小さくため息を吐く。


ちらり、と視線を上げると、見慣れた自動ドアの向こうに見慣れたエントランスがある。……見慣れているだけだが。


ゆっくりと歩いていたのだが、あまりに短くて、もう蒼衣のマンションの前まで到着してしまっていたらしい。


繋いだ手を軽く握ると、緩く握り返される。それに口角を緩めながら、どちらからともなく、力を抜いた。するりと手が抜ける感覚に名残惜しさを感じるが、それも一瞬。蒼衣は、一歩だけ前に出て、こちらを振り返る。


「それでは先輩、おやすみなさい」


「おう、おやすみ」


なんだかずいぶんと久しぶりな気がするやりとりだ。以前は毎日行っていたのに、最近ではめっきりと回数が減った。……まあ、その理由は蒼衣が俺の部屋に泊まることが多いからなのだけれど。


自動ドアをくぐり、エレベーターの前でひらひらと手を振る蒼衣に手を振り返して、その姿を見送る。


その姿が見えなくなってから、俺は手を下ろして、来た道を戻る。


期末試験、か。


大学生にとって、それはもう重要なイベント──というか、試練。


ただ、俺の頭はその後のことに意識を持っていかれている。


密かに計画していたものや、昨年の約束。


そんなものが一気に溢れる夏期休暇。


昨年とは違う関係性だからこそ、違った楽しみ方が出来るに違いない。……いや、楽しめるように、準備してあるのだ。


俺は、気合を入れるように夜空を見上げながら、アパートの階段へと向かう。じめっとした空気とは違って、キラキラと星が輝いている。


夏期休暇はすぐそこだ。


……いや、それより期末試験の方が近くて、はるかにまずいのだけれども。大丈夫だろうか……。


そんな不安をほんの少しだけ抱えつつ、俺は自室へと戻るのだった。


──夏が、はじまる。

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