エピローグ いつもより少し早く

「……んぱい、せんぱーい、起きてくださーい」


「んん……」


ゆっくりと目を開くと、目の前には、眠る前に見た蒼衣──とは異なり、既に外出の準備を整えた蒼衣がいた。


だが、なんとなく髪がしっとりとしている気がする。


ちらり、とデジタル時計に視線を向けると、いつもよりも1時間も早い。


「蒼衣、起こすのが早い……」


「だって暇なんですよ」


「暇だからって起こすのはやめてくれ……」


ベッドに腰掛ける蒼衣に、俺は目を閉じながらそう言う。ふわり、と漂う香りが、いつもとは違う気がする。


「……シャンプー変えた?」


「きゅ、急ですね……。変えたんじゃなくて、たまには先輩の使っているのを使ってみようかと」


「別に普通のやつだぞ?」


俺は、特にシャンプーに、というかコンディショナーやボディーソープにもこだわりはない。ほとんどが、買いに行ったときに1番安かったものだ。


「いいんですよ。これで、今日はわたしと先輩は同じ匂いがするんです。ちょっとドキドキしません?」


「……しない」


「むぅ……。しないなら、今の間はなんですか?」


「……さあ?」


頬を膨らませているだろう蒼衣を見ようと、閉じたままだった目蓋を、ほんの少しだけ開けると、視界には綺麗な瞳が映る。


「──ッ!? 近!?」


思わず、飛び起きる。遅れて、いつもとは違う、それでも甘い香りが漂う。……本当にこれ、俺と同じシャンプーか……?


「あ、やっと起きてくれましたね。これでわたしも暇しなくて済みそうです」


「……二度寝するかぁ」


「いやいや先輩、起きましょう……って! 本当に寝ようとしないでくださいよー!」


起こした体を布団に潜り込ませ、しっかりと掛け布団を被る。やはり、朝は眠るに限るのだ。


「せ、先輩! わたし行きたいところがあるんです! せっかく先輩がいつもより早く起きてくれたので行きたいんです!」


「起きたんじゃなくて起こされたんだけどな!」


「そこはいつもわたしが起こしてるんですから多目に見てください! お願いですからー!」


「わかったわかった! 行ってやるから! 引っ張るな!」


布団を引っ張る蒼衣に抗いつつ、俺はじとり、と視線を向ける。


「まずはそのちょっと濡れてる髪をしっかり乾かせ!」


「髪ですか? ああー……。ちょっと慌てて乾かしたので、ちょっとだけ濡れたままなんですよね」


そう言って、蒼衣は布団から手を離し、髪へと持っていく。髪が湿っているせいか、髪に指を通す仕草が、妙に色っぽく見えた。


「とりあえず、それしっかり乾かしたら付いて行ってやるから」


蒼衣との布団の引っ張り合いで、完全に目が覚めてしまった。この状態からの二度寝は、時間的に不可能だ。


「んー……これくらいなら、そんなに濡れてないのでいい気もするんですけど」


たしかに、ひと目でわかる、というレベルではなく、よく見れば、程度なのだが、それでも湿った髪はいただけない。……というか、俺が見せたくないのだ。


「ダメ。乾かせ」


「はーい。……あ」


そこで、蒼衣がにやり、と笑う。


「先輩、乾かしてください」


「……俺が?」


「はい。先輩がダメって言うんですから、先輩の思う大丈夫なところまで、乾かしてください」


「……」


そんなことを言う蒼衣は、イタズラっぽく笑いながら、それでいて甘えるような視線を俺に向ける。


それを拒否出来るような俺ではないし、蒼衣の髪の触り心地を知っている俺に、抗う術はなく。


「はぁ……。ちょっと待ってろ」


「はーい」


なるべく、仕方なさそうな感じを出しながら、ドライヤーを取ってくる。


近くのコンセントに挿し、温風を当てながら、蒼衣の髪を乾かしていく。


「……これ、結構いいです」


蒼衣の表情は見えないが、きっと頬を緩ませているのだろう。


「そうか?」


「はい。たまに、お願いしてもいいですか?」


「……たまに、な」


「はい」


ドライヤーの音だけが、しばらく部屋の中を支配する。それでも、そのゆったりとした時間が心地いい。


「……これでよし」


「ありがとうございます。乾かしてもらうの、結構いいものなので、今度先輩の髪も乾かしてあげますね?」


「……まあ、機会があれば、な」


「きっとすぐ来ますね」


そう言って、笑う蒼衣に苦笑しながら、俺は、ふと思い出す。


「そういえば、行きたいところってどこだったんだ?」


「あ、そうでした。近くにカフェが出来たみたいで、そこのモーニングを食べてみたいなー、と、思っ……て……」


「?」


語末が弱くなる蒼衣に、疑問を覚えて、彼女の視線の先を見る。そこには、いつも俺が起きる時間を示すデジタル時計があった。


「もうこんな時間ですか!? せっかく行けそうだったのにー……」


あぅぅ……と声を漏らしながら、肩を落とす蒼衣。


「また今度行ってやるから。今日は諦めてくれ」


「はい……」


蒼衣の頭を撫で、テンション低めの彼女の膨らんだ頬に指を突き刺しながら、いつもより少し早く、俺たちの1日ははじまるのだった。

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