第8話 わたしは飲んでませんよ?

人生で初めてビールを飲んだとき、思ったことはなんだっただろうか。


美味しい? 不味い? 不思議な味?


そのどれとも違うが、俺は多分、一般的な感想を抱いたのだと思う。


「苦すぎる。美味しくはない。こんなにいらない」


「ええ……まだそこそこ残ってますよね……」


机に載せた缶ビールを、蒼衣が手に取って横へと揺らす。恐らく、まだ7割ほど残っているはずだ。


「飲んだらわかるんだが、こう、匂い通りの味がする。……これ、美味しいか?」


「いや、知りませんよ。わたし飲んだことないですし……」


口に残る苦味から逃れるように、俺はおでんの人参を口へと放り込む。


人参の優しい甘さが口に広がるのを感じながら、銀色に光る缶を睨む。


「ビールが美味いっていうのは詐欺だな」


「そんなことないと思いますけど……。先輩は子ども舌なので、その辺りが関係しているんじゃないですか?」


「そんなことあるか? たしかに子ども舌だとは思うが……」


「あると思いますよ? だって、はじめてお酒を飲んだときだって、アルコール分がいらない、ジュースでいい、って言ってませんでした?」


「言った気がするな……」


あのときも、これ美味いか? と思った覚えはある。


それから数ヶ月経った今では、アルコールも美味いものだとは思うが。


「いずれ、慣れて美味いと思うのかもな」


「かもしれませんね」


それを聞きながら、もう一度ビールを口へと流し込む。


なんでも慣れ、ということなのだろうか。この苦味に慣れることがあるのか、甚だ疑問ではあるが。


なんて思っていると、蒼衣が四つん這いでこちら側へと回り込んでくる。シャツの首元からちらり、と覗く胸元に、思わずどきり、とさせられながら、平静を装って俺は問いかける。


「……どうした?」


「いえ、その、先輩はさっき、ビールは匂い通りの味がするって言ってましたけど、どんな匂いだったかな、と思いまして」


そう言って、蒼衣は俺が置いた缶を手に取り、すん、と鼻を鳴らす。


「あー……そういえばこんな匂いでしたね。味の想像が微妙に出来ませんけど」


「そのまま、イメージ通りだぞ?」


苦い、以外にそうとしか伝えられない味なのだが、蒼衣はそれではわからなかったらしく、


「気になります……」


と、眉間にシワを寄せている。


「まあ、あと9ヶ月くらいの辛抱だな」


「それ結構遠いです……」


そう言いながら、蒼衣の視線は缶の飲み口へと向けられている。


──そして。左手で、髪を耳にかけて。


「んっ……」


ちろり、と赤い舌で、飲み口を舐めた。


「──!?」


「んん……? たしかに、苦いような気も……?」


舐めただけではよくわからなかったのか、蒼衣は首を傾げている。動揺する俺に、気づく様子はない。


……舐めた。舐めたな。


こう、非常に良くないとは思うのだが。


蒼衣の仕草は、なんともまあ、劣情を催すタイプのものだ。


アルコールのせいで、軽く判断力が低下しはじめていることもあるのか、早々に葛藤をはじめる俺に気づくことはなく、蒼衣は俺を振り返る。


「あ、そうです。いいこと思いつきました。……先輩、ビール飲んでください。ひと口で大丈夫なので」


「え? ああ……。って、それ意味あるか?」


「いいですから、はい、どうぞ」


「お、おう……」


自信満々、というより、少しニヤついている蒼衣に嫌な予感がしつつ、俺は手渡された缶を軽く煽る。


乾いた音を立ててテーブルに缶を置き、口の中のビールを飲み切る。……苦いな。


そう思った瞬間。


「──!?」


全身に、予想外の感触が伝わった。


背中には手を回されており、前は全面密着状態。唇には、柔らかな感触。


──抱きつかれて、キスされている。


改めて理解した瞬間、俺の思考はオーバーヒート状態に。


柔らかい。暖かい。甘い香り。


今の一瞬で回ったのか、アルコールのせいで弱まった自制心と相まって、思考がどんどんと溶かされていく。元より蒼衣に弱いのに、恋人になったことでさらに弱まった理性が、とろとろと溶けていく。


ああ、これ以上は、まずい──


そう思いながら、止められない両手が蒼衣の背中へと伸び──


「んっ、ぷはっ」


あと少しで、というところで、蒼衣が俺から離れた。


必然的に離れる唇に、俺の思考が目の前のことへと一気に引き戻される。


「なるほど……。たしかに微妙な味と匂い……」


軽く顔を赤くしながらそんなことを言う蒼衣に、俺は。


「お、お前な……」


いまだちかちか明滅する視界と思考を制御しながら、そう漏らす。


「わたしは飲んでませんよ? 飲んだ先輩とキスしただけですし、セーフです」


なんて、蒼衣は顔を赤らめながら言っている。


「そうじゃなくてな……」


盛大にため息を吐きながら、付き合いだしてすぐにこの調子では、そう遠くないうちに絶対に事故が起こると確信して、諸々の準備だけはしておくことを決心した。

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