第8話『一年一組』
ユウキは、鏡のように磨かれた廊下の隅っこで膝を抱えていた。
時折通りかかる生徒や教員が向ける奇異の視線も全く気にしていない。いや、気にする余裕がないと表現するのが正しいだろう。
「そんな馬鹿な……ありえない! いや、この世にありえないことなんてない! それにしても偶然? いやいやここまで揃えば必然! でも俺は、何でも少し悪い方に考える癖があるから、やっぱり偶然? ど……どうなんだこの状況!!」
輪廻する思考から抜け出せないでいると、
「ユウキ君」
背後から聞こえた懐かしい呼ばれ方に振り返った。そこに居たのは、あの頃とはすっかり変わってしまったあの人だ。
「サザンカ……授業終わったの?」
「そうじゃなきゃここに居ないです」
露骨な嫌悪がサザンカのあどけない顔に張り付いている。他の生徒たちが向けるユウキにモノとは性質が違っていた。彼女のそれは、度数の高い古酒のように年季が入っている。
「本当に君は強くなったです。昔とはえらい違いです。あの泣き虫ユウキがよくもまぁ……」
楽しい思い出を語っているわけではない。思い出したくない過去を無理やり絞り出している。
だから聞いてはいけない気がした。
けれど聞かずにいたら後悔する。
胸中で暴れる恐怖を殺して、ユウキは切り出した。
「あのさ。俺、サザンカに聞きたいことがあるんだ」
「なんです?」
サザンカは、表情を崩さない。それでも構わずに続けた。
「君とツバキが同じ組にいるのは、偶然なのかい? それとも偶然じゃないのかい? もしも……もしもだよ? 偶然じゃないなら、どういうことなのか説明してほしんだけど」
「うちも説明してほしいことがあるです」
「なに?」
「そんなに強いなら、どうしてあの時、助けに来てくれなかったですか?」
ああ、やっぱりだ。そう言われると思っていた。
「それは……」
誠意のない言い訳ならいくらでも思いつく。
だけど何を話した所で彼女を納得させる答えにはならない。
「……ごめん」
「謝罪じゃなくて理由を聞きたいです」
「……ごめん」
サザンカは、嘆息と共に侮蔑を浮かべた。
「今のうちとユウキ君は生徒と教師です。それでいいです。お互い昔には戻れないです」
「サザンカ……」
「また明日、です。花一華先生」
遠くなる背中を見送りながら、ユウキは自分の膝を抱きかかえた。
――――――
太正国立第二病院の三階病室。個室になっているそこは本来白い壁だが、夕焼けの色に染められ、寂しくも暖かな心持ちにさせてくれる。
白毛の混じった黄金色の髪を持つ壮年の男が一人ベッドに横たわっていた。眼鏡姿で地味な印象を抱かせる容姿だったが、顔のパーツそのものは整った形をしており、身体つきも歳の割には引き締まっている。
「父さん」
ツバキは、朝日のようにさわやかな声と共に、父桜葉ケンジロウの病室に足を踏み入れた。
ケンジロウは、太正国軍の少佐の地位にある軍人である。五十人規模の小隊を率いて極秘の護衛任務にあたっていたが、一ヶ月前、反政府組織『アザミの一族』の襲撃を受けて負傷。
命こそ助かったもののかなりの重傷で、現在はリハビリをしつつ仕事への復帰を目指している。
「ツバキ、学校はどうだった?」
ツバキは、ベッドの傍らの椅子に腰掛けると、満面の笑みで語り始めた。
「あのね。今日、蒼牙閃の授業があったんだけど、的に当たったんだ」
我が子が初めて歩いた時のように、ケンジロウは破顔した。
「そうか! すごいな、ツバキは」
「だけど、サクラの方が凄かった。すごい切れ味の蒼牙閃を撃ってた。最後の方は的を真っ二つにして」
サクラの事を話すツバキは、風になびく藤の花のように愉快そうだった。そんな娘をケンジロウも誇らしそうに眺めている。
「あの子は才能は相変わらず、だな」
「なのに、私はあさっての方向に飛んで行っちゃって……」
「的には当たったんだろう?」
「でも端っこだった」
しょげてしまった娘の頭をケンジロウは微笑を湛えつつ撫でてくれる。陽だまりのような暖かさが伝わってきて萎れた心を慰めてくれる。
「そうか。でもツバキだって練習すればきっとうまくなるさ」
「……頑張る」
「そうさ。お前は狼牙隊になりたいんだろ」
「でも……」
――本当になれるだろうか?
花一華ユウキまでとは行かなくても、それに近い水準の人間が付く地位だ。
サクラならともかく、今のツバキにとっては雲の上。
翼のない小鳥が、努力すればいつか辿り着けるなんて夢を抱くだけ無駄だ。
「私、なれるかな……」
「ツバキならなれるさ。お父さんより才能ある」
「そう?」
「そうさ。成績もいいじゃないか」
――重たい。
「座学は。だけど実践は全然……」
希望を持たせることが。
「大丈夫。ツバキなら必ず狼牙隊に入れる。父さんが保証する」
期待に応えられないことが。
「今日はもう帰りなさい。遅くなると母さんが心配する」
「うん」
無駄な投資と分かっていても親はそれを止められない。夢があると言ったら無条件に応援してしまう。自分の子供が無能であるとは信じたくないから。だけど無駄な努力だったとしたら?
「あのね。父さん」
親に現実を教えるのも子供の務めだ。
「あの、えっと私……」
あなたの子供は、大層な夢を叶えられる原石なんかじゃない。その辺に転がっている石ころなんだと。
「あの、その学校を――」
そこから先をケンジロウは言わせなかった。
「授業料の心配はいらないさ。もうすぐ父さんも内勤の仕事に復帰出来るからね」
「でも。私にお金出す価値は――」
「ツバキ」
穏やかだった語気が、ほんの僅かに強くなった。
「私の自慢の娘をお前が貶めないでおくれ。お願いだから」
どうして優しくするの?
出来の悪い娘だって罵ってくれたらどれだけ楽か。
期待されてるから諦められない。
ずるずると無意味な努力を続けている。
結果が出せない努力には何の意味もないのに。
「もうすぐ寮の門限だから、父さんまたね」
ケンジロウから逃げるように病室から廊下に飛び出ると、
「ツバキ!」
「……サクラ」
サクラは、太陽のような大輪を咲かせたハナビシソウの花束を持っていた。
「これさ。おじさんのお見舞いに」
サクラは、にっこりと笑顔を作って花束を差し出してくる。
受け取ろうと手を伸ばしたが、
――出来ない方のサクラ。
すぐに引っ込めて、踵を返した。
「ありがとう。それじゃ」
もうこれ以上話したくない。
だって、いつもみたいになるから――。
「あのさ!」
「……なに?」
背を向けたまま尋ねると、サクラから嬉々とした声が上げた。
「今日のツバキ凄かった! 蒼牙閃すごい軌道で的に当たってたじゃん!! あれめっちゃすごいよ! ツバキって誘導魔法の才能あったの知らなかったなぁ。あれか? もしかして隠してたとか? 秘密兵器っしょ!?」
サクラは、いつだって真っ直ぐだ。紡いだ言葉に裏はない。いい意味でも悪い意味でも。
純粋な賛辞だと分かっている。出来の悪いツバキを馬鹿にしているわけではないことも。
それでも思い知らされるのだ。自分とサクラの才覚の差を。
「……嫌味?」
「ち、違うってば! ほんとにそう思って――」
「的を切り裂く蒼牙閃を撃てるサクラと、的にも当たらない私。ほんとに出来ない方のサクラだ」
「やめなよ! あれはみんなふざけて言ってるだけじゃん! あんなの気にしなくても――」
「それをサクラに言われても嫌味にしか聞こえない」
「……ごめんってば」
「どうして謝るの?」
「だってさ……」
どうして言い返さないの? どうして自分を悪者にするの?
悪いのはこっちなのに。愚かなのはこっちなのに。
頭を渦巻く自嘲と自己嫌悪がサクラへの罵声に姿を変える。
「サクラは、思ってること、ちゃんと言えばいい! 才能ないくせに粋がるなぐらい言えばいい!」
「なっ!? どうしてあんたは、いつもそうやって自分を卑下すんの!?」
「そんなの!!」
これを言えばきっと傷つけてしまう。絶対に言っちゃいけない言葉。だけど確実にサクラを傷つけて口論に勝てる言葉。
口喧嘩で勝っても何の意味もないと理解しているのに、どんな小さな勝利でもいい。サクラに勝ちたいと魂が欲しっていた。
「サクラが……いつも隣に居たからだ」
「っ!?」
サクラの瞳が潤み、涙がこぼれそうになった瞬間――。
「ツバキ!」
理不尽な罵倒を見かねたケンジロウの怒声が廊下まで響き渡る。
しかしツバキは応じることなく、サクラに背を向けたまま走り去った。
「ツバキ! こっちに来なさい!」
「おじさん! いいんだってば! 大丈夫だから!」
サクラが庇うように病室の扉を開けると、ケンジロウは謝意を剥き出しにした。
「サクラ、ほんとうにすまないね。あの子ときたらまったく……」
落ち込んだケンジロウの姿が痛々しくてサクラは目を背ける。視線の先には萎れたハナビシソウの活けられた花瓶が置いてあり、サクラは持ってきた新しい花束と交換した。
「あたしがいけないんだってば。ちゃんと仲直りするからさ」
「君のせいじゃない。まったくあの子は……君が居ないと褒めちぎるのに、君の前でだけ対抗意識を燃やしてしまう。付き合い辛い子ですまない」
「そんな風に思ってないってば」
サクラとケンジロウのやり取りは、気の置けない家族そのものだった。毎日のように訪れ、週に一度は新しい花を飾る。赤の他人が見たら、実の親子と勘違いするだろう。
「あのさ、おじさん。そろそろ言うべきじゃない?」
「何をだい?」
はぐらかそうとするケンジロウに、サクラははっきりとした声で詰め寄った。
「ツバキに真実をさ」
「……それだけは出来ない」
「でもさ!」
「サクラ……分かってほしい」
「分かってるってば。でもさ、自分が何者かを知らないってことは、すっごく残酷じゃん……あたしは自分のことを知れてよかったって思ってる。あの子だってきっと!」
「その先に待つ運命が過酷ならば、あの子の親として、そんな道を歩ませたくはない。例えこの沈黙が罪だとしてもね」
「……ユウキ先生は、多分今日気付いたよ。ツバキの蒼牙閃を見て」
ケンジロウの柔和な面立ちが忌々しそうに歪んだ。
「さすがに桃木ロウゼン唯一の弟子、狼牙隊花一華ユウキか。彼が教師になるとは……鬼灯学院長の差し金だな」
「学院長が、あたしたち一年一組にユウキ先生を付けたのは偶然じゃない。狼牙隊の元分隊長、そんな人がなんで教師になったのか。狙いは恐らく……」
一年一組が存在する意味。
サクラとツバキとサザンカが一緒にいる理由。
そこに花一華ユウキを加えるなら答えは一つ。
「サクラ。そんな状況だからこそ、ツバキは真実を知るべきじゃない」
「いずればれるってば。ユウキ先生って正直ネガティブだし、訳分かんないし、この人がなんで狼牙隊? そもそも本物? とか思ったけど……あれは本物だった。蒼牙閃一発で分かった。未熟なあたしでも思い知らされた。格が違うって」
「サクラ……君は、花一華ユウキを信頼するかい?」
「分かんない。でもいずればれるにしても、あたしは何も言うつもりはないから。おじさん、安心して」
過酷な運命か。残酷な沈黙か。そのどちらがツバキにとって幸福なのか。自分ならばどちらを望むのだろうか。サクラは自問しながら病室を後にした。
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