6 お勉強しといてよ

 何日か経った。何十時間なんだろう。というか何日なんだろう。あまり正確に覚えていない。なんでだろう? とにかく、岸からわけのわからない宣告を受けてから何日かは経っているわけ。なんで私はこの間の日数を凄く曖昧にしか感じていないのだろう。なんで何でなんだろう、と考えるとひとつ理由が思い浮かぶ。たえ子がずっと塞ぎ込んでいるんだ。



 別にお互いあれから喋ったわけじゃないし、わたしもまだたこ焼き屋には行ってないけど、学校でちらちらとたえ子が視界に入ると、ずっと塞ぎ込んでいる。あの子は元々学校ではお喋りな感じではないし……いや、そもそも誰かと喋っているのをわたしは見たことないかもしれない。だからある意味ずっと黙っているのはそのまま、通常通り、たえ子のままなんだけれど、でもちょっと違う。わたしにはわかる。いやわたしにたえ子のなにがわかるんだ。



 それで、岸の方はなにかやたら浮かれて友達連中と喋っていて、どれ俺にはひとつとっておきの秘密があるんだ、と言う風に仄めかすようなことをこれ見よがしに言う。なんでわたしは岸とたえ子のことをこんなに気にしているのだろう。別にどうだっていいじゃないか。二人はお付き合いするらしい、それはそれで素敵なことでわたしには別に関係ないし、悔しいか悔しくないかで言ったら悔しい寄りの悔しくないなわけで、わたしが岸に告白したことなんかもまあ大分前の話だしわたしには別にもう関わりのないことなんだ、完璧にそんなことは忘れている、忘却、一昨日の朝食くらいにどうでもいい、けれども。


 やっぱりどうしても、たえ子がただただ塞ぎ込んでいることがどうしても引っかかる。


 人の男を取っておいてなんでそんな様子なんだ。いや、違うな。えぇと、男に告白されるのが嫌なのか、嫌みったらしいな。これも違う。アイドルってやつはやっぱりいけ好かない男狂いだ。違うな。……わたしはなにがどうして、こんなにたえ子の様子が気になるんだろう。


 非常にむず痒い。足に虫が這っているような感じ。自分がなにを感じているのかが掴めない、いや、たぶん、わかってるけど口にしたくないのかもしれない。どっちにしても、一度たえ子と話がしたい。なにを? なにをだろう……一言目になにを言うんだろう……


 …………たぶん、一言目には「どうした? なにかあったか?」って言う。くそ。





「……今日、ちょっと用事ある」

 放課後、今日は三人で図書室でだべろうって予定だった。図書室では静かにしなさい、わかっています、だから図書室ではだべりじゃなくて勉強会。たまにひそひそと二言ぐらいお喋り。わたしらだってもう受験生だから、勉強会したっておかしくない。真面目なんだわたしらは。そうやって場所毎にだべるときのルールがあって、例えば公園ならそれぞれ一人ずつ遊具に座るとか。場所を変えること自体も楽しみのひとつ。わたしは、このだべる予定をすっぽかしたことも、ドタキャンしたことも過去一度としてなかった。今日で始めて黒星がつく。


「ん。わかった、私らはしばらくいるよ」

「またね、みーちゃん」


 二人はなにもなさそうに返してくれたけれど、一瞬戸惑ったのか少し間が空いたことに否応なく気付いてしまった。それでわたしは二人を置いて、約束をすっぽかして、秘密裏にたこ焼き屋でたえ子と会おうとしている。なにをしているんだ。やっぱりやめようかな。ひどく悪いことをしている感じがする。でも、でもたえ子をこのまま放っておくことも同じくらい悪いことをしている感じがする。ああ、ちくしょう。嫌になる。誰のせいなんだ?


「……またラインして」

「ん」

「りょーかい」


 なぜだ。わたしはひどく、不必要なほどぶっきらぼうな口調になっていた。ただの不機嫌な人になっている。もっとうまくやれよ。将来詐欺とかするかどうかわからないが、もっと練習しないと人を騙すことはできそうにないな。後ろ髪を万力で固定されたまま引かれるような思いで教室を出て、ちょっと先の道路の舗装を見つめながら早足で歩いた。いつもなら空を見たり田んぼを見たりするんだけど、今日は綺麗なものを見るとなにかに責められている気がしてならない。オレオレ詐欺とかやった後ってこんな気分になるのかな。いや、こんな気分になる人はきっとオレオレ詐欺なんてやらない、とよく意味の分からない慰めを自分にしながら、わたしは道路の舗装具合を確認している。いい仕事だと思う。



 頭の中のぐるぐるを地道に辿りながら歩いていたら、たこ焼き屋に着いた。体感では五分くらいしか経っていない。実際はどのくらいかかったのだろうか。だいたい歩きだと三十分はかかる。


 今日もたえ子は店頭に立って店番をしていた。話によると、テレビやラジオの仕事は土日祝日だけやっているそうで、その他週三日ここにいるらしい。だから適当なときに行ってるのに毎回たえ子に会えているのは、割と運がいい。


「いらっしゃいませ」

「うん」


 店番にもわたしにも慣れたように声を出すたえ子。ここにいるときはテレビの時よりもだいぶ濃い化粧をしているから顔色があまりよくわからないが、声色がよくない。わたしはなんでそれがわかるのか。わかると思っているのか。


「あの……みおさん……」

「ん、待ってるよ」


 ん、じゃない。わたしは明らかに彼女がわたしに相談をするんだと決めてかかってる、でも違うかもしれない、実際なんにもないかもしれないだろ、くそ、なんでこんなことを考えてるんだ。


「──ありがとうございます」


 でもやっぱり勘違いじゃなくて、泣きそうな声でたえ子は返事をして、わたしのオーダーをおっさんに伝えた。ああちくしょう。ちくしょう、ちくしょう。わたしはなんて言えばいいんだ。


「今日二つ買う」

「はい」


 見栄っ張り。そんなにいい顔がしたいのか。お前はほんとにたえ子が心配なのか? ただ彼女の世話を焼いていることが気持ちいいだけじゃないのか?

 頭の中でぐるぐるがぐるぐると、ぐるぐるぐるぐる回っている。どんなに辿っても終わりがない。また最初の線に戻ってやり直し。永遠にわたしの指先は白線をなぞっている。





 たこ焼きをつまみながらたえ子を待っている。今何時だろう。落ち着き払ったふりをしているけれど、心臓がうるさい。わたしの心臓。なにを言われるのかわからない。だから緊張しているのだろう。たぶん。


 目の前の国道を、車がぶんぶん通っていく。軽自動車が多い。みんなお金がないに違いない。お金がない悩みは重大だと聞く。だから、それに比べたらたえ子の悩みなんてちっぽけに違いない。そう言って聞かせようかな。


 今日も二個残そうかと思ったが、もう一パック買っているのだった。全部食べよう。でも普段から二個残してるもんだから、その二個を追加で食べることが胃に重い。だけど大丈夫、おいしいものは別腹だから。大丈夫、大丈夫。そう、なにもかも最終的には大丈夫になる。世の中きっとそうできている。


 二個のたこ焼きを食べようか悩んでいたら、知らぬ間にたえ子が隣にいた。本当に気づかなかったので、驚いて「うわっ」と小声で叫んでしまった。マヌケ。


「すみません、何か考え事をされてたみたいなので」

 たえ子が小声で謝った。

「いや、いいよ、それよりも、ええと」

 どうしたの? なにかあった?


「……たこ焼き食べない?」

 間抜け!


「ありがとうございます」

 たえ子は残った二個を受け取ろうとしたが、わたしが制止して一パック丸々渡す。一瞬目を丸くしたが、いただきます、と呟いて彼女は手にとった。


 食べ終わるのを待ってもいいが……たえ子が喋りやすいように場を慣らしておこう、と思った。



「あのさ、何日かまえに岸と屋上階段にいたじゃんか」

「……」もっきゅもっきゅ。


「岸が、なんだかわけのわからんことをオレに言ってさ……」

「……」もっきゅもっきゅ。


「その……それからずっと、あんたの顔色が、なんというか悪いのが気になって……いや、別にずっと見てたわけじゃないし、あんたのことそんなに知らないし、あれなんだけど、ただ、その……ええと……」

 これは、わたしちゃんと場を慣らせてるのか?


 果たして自分が今きちんと言葉を喋っているのかさえ不安になってきた頃に、たえ子がすっとスマートフォンの画面を見せてきた。


 そこには、このたこ焼き屋の店先に立つたえ子──たぶん知らない人が見れば、同一人物だとは思えないくらい化粧で変わっているが──の姿が写っている。


「…………なにこれ?」

「……」

 目に見えない何かを、それこそ憎々しげに食いちぎるように、たこを噛み切ろうとしているたえ子は、そのうち目頭にじんわりと涙を浮かべ始めた。


「……いいよ、全部食べ終わってから話しなよ」

「きひさんふぁ……」

 それだけ言って口を激しく動かし、彼女は口の中のものを飲み込んだ。

「岸さんが、あの日ぼくを呼び出して、これを見せてきたんです。これはたえ子ちゃんだろうって」

「────」


「違うって、顔が違うでしょう、人違いだって、何度も言いましたけど、岸さんは絶対そうだって引かないんです、それで、これをバラされたくなかったら、言うことをひとつ聞いて欲しいって……」



 そんなことを話しているうちに、たえ子はほんとうに泣き出してしまった。ただ、すぐそこにおっさんがいるからか、必死に嗚咽を耐えてはいた。いたけれど、涙は止まらない。



「なにをされるのか、言われるのかずっと不安で、心配で……それに、それに」

「うん」

「ぼく、もうここで働けないのかと、思って、まだお金溜まってないのに、それに、」

「うん」

「それに、それに、みおさんとも、やっと、お友達になれたのに、ここじゃなかったら、ぼくたち、喋れないから、それで、いやで、」

「……うん」



 たぶん、岸は別にあれこれ脅そうとか、そういうのじゃないだろう。ただわたしたちみたいなバカな子供の分別のなさで、まあせいぜいバラされたくなかったら付き合ってくれとか、それぐらいのこと。



「この写真も、無理矢理ライン聞かれて、とりあえず送るからって──」

「うん」



 実際バラすかどうかもわからない、岸の方が立場が悪くなりそうだし、大体たえ子はもうアイドルっていう労働活動をやっているわけで、今更たこ焼き屋で働いていてそこまで大ごとになることもない。たぶんね。



「たえ子さ」

「はい──」



 大体迂闊なんだ。自業自得な面もあると思う。バレるのが嫌だったら、親族の手伝いとかでお金を貰ってよかったと思うし、そもそもいくらギャラが安いとは言えアイドルの給料で服ぐらい買えないこともないと思う。



 だから、そういうことも総合的に考えて、



「オレに化粧教えてくれる?」

「へ?」



 岸は許せない。


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