2020年8月23日19:30 藤原夫妻宅 縁側
日が沈むと、昼までのうだるような暑さがじわじわと引いていった。
「ねえ見て、海水で髪の毛ガビガビー」とはしゃぎながら香苗が浴室に消えた。約束どおりとうもろこしを茹でるために、鍋に火をかける。
スマートフォンをチェックすると、来週こっちに遊びに来るという母からのラインに加え、かつての先輩と同僚からラインが届いていた。先輩は夏季休暇で彼女とモルディブへ。部屋から見える見事なオーシャンビューの写真が送られてきている。小鳥遊もどこか旅行に行ったのだろうか。トーク画面を開いた途端、吹き出してしまった。
あんなに控えめで、出張で飛行機に乗るのも怖がっていたあいつが、なんと満面の笑みでラクダに乗っている!遠目にピラミッドが見えるということは、鳥取砂丘ではなくエジプトだろう。人生最後のバケーションを皆楽しんでいるのだ。
渡り廊下を素足でぺたぺた歩く音が聞こえたので、振り返って「先縁側行ってていいよ」とだけ言った。香苗が作った大皿にとうもろこしをあけ、冷蔵庫から缶ビールを2本取り出した。
「おまたせー」
「ありがと。こうやって月を見ながら晩酌なんて、ほんと贅沢だよね。お殿様みたい」けらけら笑いながら缶のプルタブを引いている。乾杯、と軽く缶をあわせてあおる。苦味とともにほのかな炭酸がしゅわしゅわと喉を通ったところに、とうもろこしに手を伸ばしてかぶりつく。
8月もそろそろ終わる。一足早いこおろぎが、密やかに鳴いていた。
「ね、ほんとに火星に行くのかな、お金持ちの人たち。絶対楽しくないと思うんだよね。だって海もないし、青空も見えないでしょ?きっとゴキブリホイホイみたいに面白味のない狭い箱で、空気が無くならないようにじっとしてるしかないのよ」彼女のすねたような口調に、思わず笑ってしまった。
「そこでは、こんなちっちゃなしなびた芽キャベツみたいなのを栽培してるの。で、ブルドックみたいにほっぺたの垂れた専門家がね、「この火星キャベツたった1つで1日分のカロリーが摂取できる。実に合理的な食べ物だ」なんて言うんだわ」
香苗の火星妄想が面白くて、「じゃあ電子コオロギが欠かせないね」とのっかった。
「電子コオロギ?」
「うん。共用スペースはお庭になってて、そこには造花やらアクリル板をはめ込んだ池があるんだ。で、LEDのホタルが飛び、電子コオロギの鳴き声が聞こえる。ふるさとに想いを馳せましょう、ってね」
「んふ、それは悪くないかも」小さく笑うと、香苗は身体をよせ、僕の右肩に頭をのせた。
「でもやっぱり、秀くんとここで見る月が1番だよ」そっと香苗の頭をなでて、三日月を眺めた。
僕らの人生はあと3週間で途切れる。
僕らは火星に行けないし、電子コオロギの声を聞くこともない。
だけど。
結婚して初めての、そして最後の夏。
今、僕は最高に幸せだ。
電子コウロギと三日月の夜 みおつくしのしずく @PedroSanchez
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