助けないのが人助け

増田朋美

助けないのが人助け

助けないのが人助け

その日は寒い日だった。春が来たというのに寒い日だった。みんな春と言って置きながら、冬の着物や洋服を着て移動していた。電車の中では、寒い格好をした若い人が、お年寄りからバカにされるという事情が起きていた。そんな中今日も、岳南鉄道吉原駅で由紀子は働いていた。春なのに、ふゆの制服を着て、未だに白い手袋をはめていた。

そんな中。岳南江尾駅から、疲れた顔をして、一両の電車が吉原駅に到着した。電車は、五六人の乗客を吐き出して、また、新しい乗客を乗せて、岳南江尾駅に、向かって行った。


降車した規約の中に見覚えのある客がいた。あれ、あの人どこかで見たことがある。あれれ、あの人はたしか、あたしと、故郷で同級生だったはずだ、と由紀子が考えていると、その女性も誰だかわかったらしい。

「由紀子!」

と彼女は、明るい顔をして、にこやかに言った。

「あたしのこと覚えてる?」

「えーとたしか、竹島彩子さんだったわよねえ。」

由紀子は、名前を思い出しながら言った。

「ええ。でも、竹島は旧姓。いまは、森下彩子よ。」

という、彼女だが、由紀子は結婚前の名字が森下彩子であるということを知っていた。

「どうして森下なの?旦那さんと別れたの?」

まあ確かに、バツイチバツニは、今の時代珍しいことではない。

「ううん、追い出されたのよ。」

と、彩子は明るく言った。

「ほら、何年か前に、荒川で自殺未遂事件があったの知らない?」

と、いうが由紀子はそれを思い出せなかった。

「えーと確か、」

「まあ、忘れてくれた方が嬉しいわ。あたしがあのとき、夫と義母に、自殺をするように指示しちゃったから。」

森下彩子は明るく言うが、由紀子もその事件をなんとなく思い出した。確か、竹島彩子が、夫とその母を、荒川に飛び込ませて死なせたと言う事件だった。あのときは、生活苦のために、そういうことをやったと報道されたけれど、本当はどういうことなのかは、詳しく報道されなかった。竹島家に、何が起きていたのかは、永久に知られることはなくなってしまったのだ。

そして、その事件を起こした、森下彩子が、今ここに立っている。

「でも彩子さん、そういうことは、、、。」

それでも、事件が起きたことは報道で知っていた。だから、その通り何だということは、由紀子も知っている。

「そうなのね。」

と、由紀子は、大きなため息をついた。

「でも、どうして、ご主人とお母さんをそんな目に合わせて、、、。」

「ええ、もう、仕方なかったのよ。家には、お金がないし、生活保護とか受けようかと思っても、こんな若い子はダメとか、そういうことを言われて、困ってましたもの。そういうことをやって、もう、そうするしかないって思ったから、三人で死のうかと思ったの。本当は、三人で一緒に逝くつもりだった。でも、あたしだけ、中州に取り残されちゃった。ほかの人は、川を流されちゃって。」

と、彼女、竹島彩子こと、森下彩子は言った。

「だから、今あたしのしたことは、後悔してないの。あたしは、精いっぱいあの時、自分のやることをやったの。そりゃ、夫やお母さんを生かしておく方法はなかったかと、責められるのは何回もあったわよ。でも、それ以外に方法がなかったのも事実だしね。あたしだけ、生き残っても、しょうがないと、思うわ。あの二人が、死んでから、世の中が変わったって、あたしは変わっていないのよ。」

そういうことなのね。と由紀子は、なんとなく、彼女の気持ちがわからないわけでもなかった。確かに、自分だけでは、変えられないことは、いくらでもあると思う。

「そうか、それで、今、刑務所から出てきたのね。」

「ええ、懲役13年。長いようで、短い生活だった。」

という彩子は、それが本当のことなのか、にこやかに笑って、そういうのであった。

「それで、あんまり人の多くない、こっちに引っ越してきたってわけ。でも、由紀子と、こんなところで会うとは思わなかった。由紀子は、もっと大きなJRの駅で働いて、幸せにくらしているのかなと思ったわ。なんでまた、JRをやめて、こんな田舎電車に?誰かにいじめでもあった?」

と、彩子は、にこやかに聞いた。

「いいえ。JRに就職したけど、本当に田舎駅。山の奥の奥の、田舎駅だったわ。でも、あたし、今一番好きな人にその駅で出会ったの。だから、もうJR何て嫌になってね。その人が住んでいるところに行きたくて、こっちに来ちゃった。」

由紀子は、正直に答える。彩子は、一つため息をついて、

「そうなのね。由紀子は、幸せねえ。そうやって愛する人のそばにいさせてもらってさ。あたしは、愛する人はいたけれど、結局、死なせて上げるしか、愛する人に愛してるって言えなかった。」

というのだった。そのセリフが、彩子のもっともな愛情表現なのかもしれなかった。

「でもあたしは、愛した人のそばにいたとしても、愛した人が心の病気になって、働けなくなってからは世界が変わったわ。あたしも、働こうと思ったけど、仕事が見つからなくて。母も、認知症になっちゃってね。それでどうしたらいいものかわからなくなっちゃって、結局、三人で川に飛び込むしかなかったのよ。それしかなかったの。それで、あたしだけが、結局、中州に取り残されて、警察に捕まって。あたしが、結局容疑者になっちゃってさ。それでは、あたしの人生はおしまいよ。あたしは、あの二人を助けるつもりで、川に飛び込んだだけなのに。」

と、彩子はつづけた。由紀子は、誰でも起こりうる話ではないかと、それを真剣に聞いていた。

「でも、由紀子は、そういうことしないでね。あたしは、もう前科者になっちゃったから、水商売とか、売春婦とか、そういうことをやって行くしかないでしょうからね。一度、道を外しちゃったら、もう元の世界には帰れないわよ。」

と、彩子は、ふっとため息をつく。それを聞いて、由紀子は、彩子がかわいそうになった。つまり働けそうな場所が彩子には何もないのだ。

「彩子さんそういうことはしないで、もっと、ちゃんと働けるところを探したら?」

「いいえ、あたしは、特技も何もないし、できることといったら、掃除や洗濯をすることくらいよ。普通の世界で生活していくなんて、ちょっとあたしには無理よ。」

彩子はそういうのであるが、由紀子は、にこやかに言って、

「そうじゃなくて、例えば、家政婦さんとかそういうことをすればいいのに。あたし、今家政婦さんを探しているところ知ってるわよ。教えてあげようか。」

と、言った。彩子は前科者に何でという顔をするが、

「でも、前科者であろうとなかろうと、働くことが、一番大切でしょうからね。それを教えることは悪いことじゃないと思うわ。」

由紀子は、そういうことを言ってあげた。

「あたし、彩子さんが、悪いことしたのは確かだけど、社会情勢からみたら、仕方なかったのかなっていう気持ちもあるわよ。そういうことだってあるんだなと思うわ。だから、あたしは、彩子さんのこと、手伝ってあげたいな。ねえ彩子さん、何か書くもの持ってない?」

彩子は、ああ、と言って、急いで手帳とボールペンを取り出した。由紀子は、それを受け取って、製鉄所の住所と電話番号を書いて、彩子に渡した。

「そう。ありがとう。でも、あたし、由紀子さんから聞いたってことは、言わないでおくわ。だって、前科者の私にかかわったら、ろくなことがないってことは知っているでしょ。」

「いいえ、みんないい人たちだから、あなたが、どんな人物であろうと、受け入れてくれるはずよ。」由紀子は、にこやかに言った。

「きっとよくしてくれると思うから、必ず行ってみてね。」

「ありがとう。」

彩子は、軽く一礼して、切符をカバンから取り出し、改札口のほうへ歩いて行った。

その数日後。製鉄所には、新しい家政婦さんというか、新しい雑用係が配属された。彼女はまだ若い女性であったが、いつもニコニコしていて、一生懸命仕事をこなしていた。でも、利用者たちは、彼女をどこかで見たことのある顔だと言って、ちょっと彼女を避けていた。それでも、新しい雑用係は、しっかり働いてくれていた。

製鉄所は、多くの女性たちが、利用していたが、その中でも、際立って人気のある、美しい男性がいた。彩子の前任の雑用係は、この男性という噂もあった。でも、前科者には絶対に、近づけないだろうな、と、彩子はその人に近づくのを、避けていた。

ある日、由紀子が、製鉄所を訪ねてきた。この時ばかりは、あの綺麗な人が、ずっと寝ていた布団から起きて、由紀子と何か話をしているのだった。時々その人は、せき込んで血を流した。それを介抱するのは由紀子であった。そうなると、彩子は、ちょっと悲しいなというか、そういう気持ちになったが、でも、前科者のあたしには、あの人に近づけるはずもないかと考え直して、我慢していた。


由紀子が、その美しい男性と一緒に縁側で何か話していると、ちょっとすみませんと言って、玄関から、広上鱗太郎と、もう一人の男が四畳半にやってきた。彩子は、雑役係として、落ち葉の落ちていた、庭を掃いていた。

「おーい水穂。ちょっと起きてくれるか。」

と、鱗太郎は、そのきれいな人の隣に座った。もう一人の男性は、なんだか変な雰囲気があった。鱗太郎さんは、普通の男性という感じだったが、もう一人の人は、そうではないような気がする。

「こいつは、後藤孝明と言ってな。音楽事務所をやっていて、今所属者を探しているんだ。ちょっとお前に話があるっていって、それで、連れてきたんだよ。」

と、鱗太郎は、その男性を紹介した。

「はい、後藤孝明です。よろしくお願いします。」

と、その人は言った。なんで、部屋の中にいるのに、サングラスをかけたままなのだろうか?それが、ちょっと、彩子は変だと思った。後藤孝明は、名刺を水穂さんに渡した。

「はい、磯野水穂です。」

水穂さんは、そういうが、軽く頭を下げて、少しせき込んでしまった。

「まあ、勿体ぶらないで、要件を言ってみてくれ。」

と、鱗太郎が言うと、後藤孝明は、サングラスをかけたまま、こういうのだった。

「実はですね。今度うちの企画で、癒しの音楽を集めたCDを製作しようという話がまとまりました。それでですね。ぜひ、磯野さんにも、参加していただけないでしょうか?」

その口調が、どこか変だと、彩子は思った。あの、生活保護とか、そういうのを頼みに行くときの、役人の態度とどこか似ているような気がしてしまったのである。

「待ってください。水穂さんは、体が、」

由紀子がそういうと、後藤孝明は、はははと馬鹿笑いするような笑い声をあげた。

「そんなことはわかっております。でも、体を治せないということはないでしょう。今の医療であれば、きっとよくしてくれますよ。まだ、がんや生活習慣病を患う年齢でもないんだし。少し療養すれば、すぐに良くなるでしょう。どうですか、磯野さん、もう一回ピアニストとして、レコーディングに参加してもらえないでしょうかね。あ、もちろん、ゴドフスキーなんて、そんな大変な曲ではなくてもいいですよ。そんなものではなくて、そうだなあ、グラナドスの、演奏会用アレグロとか、そういうものはどうですか?」

と、後藤孝明は、得意げな顔で言った。水穂さんは困った顔をしている。どうしたらいいものか多分悩んでいるんだろう。彩子は、庭を掃いている箒の手を止めて、四畳半で行われている話を聞き入ってしまった。

「でも、僕はそういうことはもうできません。演奏は、もうこれ以上やる気にはなれなくて。」

水穂さんがそういうと、

「そんなことはないさ。まだまだ、やることはいっぱいありますし、その顔ですから、ピアニストとしても高く売れますよ!」

と、後藤孝明は、得意げにそういうことを言った。彩子も、由紀子も、そういうことはいやだという顔をする。水穂さんは、またせき込んでしまう。なんだかひどくせき込んで苦しそうだ。由紀子が急いで、口元にタオルをあてがってやると、タオルは、赤く染まってしまうのであった。それを由紀子は、背中をさすったりたたいたりして、吐かせようとしているのだった。

きっと由紀子が本当に好きな人って、彼のことなんだ。と、彩子は確信した。そうなると、彼女は、とてもとても悲しい気持ちになってしまうのであるが、それでも、由紀子のために、耐えようと思った。だって前科者の自分に水穂さんが振り向いてくれるはずはないじゃないか。それはそれで当たり前のことじゃないかと。

「はあ、まるで、正岡子規見たいですな。でも大丈夫、今の時代なら、絶対治ることができますよ。だから、また、ピアニストとして、ぜひ、グラナドスの演奏会用アレグロ、録音することはできないでしょうかな。」

と、後藤孝明はそういうことを言っている。

「だから、無理なんです。もう帰ってもらえませんか。長時間座っていることだって、大変なんですから。お願いします。」

由紀子は、ちょっと強く、二人にそういうことを言った。その間にも、水穂さんは、せき込んむことを繰り返している。

「本当におかしなものですな。今の時代、そこまでひどくなることはあり得ない話なんですがね。あ、それとも、演奏旅行で、海外の最貧国にでも行ってきたんですかねえ。そこでもらってきてしまいましたか。うんうん、それも、考慮に入れておこう。そうすれば、海外の貧しい人たちにも、優しかったピアニストとして、もっと売込みできるぞ。」

後藤孝明がそういうことを言うと、

「違います!あり得ない話なんかじゃありません。苦しんでいるんですから、今日は帰っていただけませんか!」

由紀子は、声をあげて、そういった。

「でもねえ、お姉ちゃん。この病気は明治とか大正くらいなら、不治の病の一つだったかもしれないけど、今は、抗生物質があるから、すぐに治るんだよ。それよりも、今はやっている、発疹熱のほうが、怖いって聞くんだよ。」

後藤孝明は、バカにしたように言った。

「それよりも、すぐに治療に行かない彼のほうが、悪いんじゃありませんか。こんな発疹熱が流行っているときに、放置しているから、悪いということですよ。まあ、すぐに薬を投与すれば、よいだけのことです。」

「そうそう。俺は、水穂に元気になってもらいたくて、この人を連れてきたんだ。」

後藤孝明の後に、鱗太郎も続けていった。

「なあ水穂、グラナドスの演奏会用アレグロ、録音してもらえないかな。俺も、この人と一緒に、やってみるからさあ。」

「いいえ、水穂さんは苦しんでいるんです!もう今日のところは帰ってください!」

と、由紀子は、大きな声で、そういうことを言った。由紀子は、一生懸命水穂さんの背をさすって、ほら、薬よ。と、口元に、吸い飲みをもっていった。この中身を何とか飲ませると、やっとせき込むのが止まってくれて、静かに息をし始めた。

「はあ、まったく、おかしなもんですなあ。明治時代の文豪が描くような、そういう世界にタイムスリップしたようです。」

後藤孝明がバカにしたように言った。

「いいえ、それは昔のやったことではありません。今ここでやっているです!」

由紀子は、声をあげていった。そういっているうちに、水穂さんは、布団に倒れるように横になった。薬が回って眠ってしまったのである。

「変な人だなあ。明治時代の人じゃないんですから、こんなものでぶっ倒れるなんて、甘ったれているしか言いようがないですなあ。」

と、後藤孝明が、そういうことを言って、いやそうな顔をした。まあ、とりあえず、帰ろうか、と鱗太郎が、彼を促し、二人は、じゃあまた来ますから、と、いやそうな顔をして、四畳半を出ていった。

由紀子が、眠ってしまった水穂さんの体に、掛け布団をかけてやっていると、彩子が箒を持ったまま、彼女のそばに近づいてきた。

「何?どうしたの、彩子さん。」

と由紀子が聞くと、

「やろう。あの人。やってしまいましょう。」

と、彩子は言った。

「それってまさか、、、。」

「ええ。だって、あの後藤孝明って人、水穂さんの音楽を欲しがっているわけではないのよ。ただ、商品として売りに出したいだけなの。それくらいしか、人間を見ていないのよ。あたし、前科者だから、そういう人のことはわかる。前科者になると、本当に、誠意を持っている人は少ないって、よくわかるから。それに、こういう形でしか、役に立てないことだって知っているわ。」

彩子は、由紀子にそういうことを言った。

「きっと水穂さんだけじゃないわ。ほかの音楽家でも、あの人はああしてバカにした発言をすると思うわよ。ほかの被害者を作らないためにも、今、あたしがやってしまうほうがいいわ。人間を人間としてみない人は、生きている価値がないから。」

「彩子さん、、、やめて!再犯なんかしないで!」

由紀子は、彩子に言った。

「いいえ、私は、そういうことしなきゃ、役に立たないのよ。前科者は、いくら何を言っても聞いてもらえないのがおちだから。それなら、再犯だってしたっていいわ。それで、私が、役に立つのなら。少なくとも、ああいう人たちから、水穂さんを守ることだってできるはずよ。だから私が、あの人を処分してあげる。やり方だって、いくらでも知ってる。水穂さんのことは、あたしだって、好きだもの!」

彩子は、由紀子にそういうことを言うのだ。そんな、彩子さんはやっと更生して、刑務所を出ることができたばかりなのに、と、言いかけたその時、

「やめてください。」

と、細い細い声がした。

「たとえ悪質な人でも、人のことあやめることはやってはいけないんです。あの人だって、生活のためにああいうことを言ったに違いありませんから。」

と、言ったのは水穂さんだった。

「水穂さん、なんでそんなに、敵をかばうようなこと、、、。」

彩子は、水穂さんに向かってそういうことを言うと、

「敵じゃありません。やむを得ず、そういうことを言ったんです。」

と、水穂さんは言った。

「この世の中に、処分されていい人間なんて、いるわけではないのですから。」

由紀子は、水穂さんに、自分にもそういう風に優しくなってと思ったが、同時に、彩子さんが、そういう風に考え直してくれたなら、彩子さんは、前科者にならないでも済んだかなと、ふっと思うのであった。


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助けないのが人助け 増田朋美 @masubuchi4996

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