第16話 戻ってきた日常
九月を迎えてもうだるような暑さは変わらない。カレンダーをめくったからといって突然秋めくわけじゃない。
アスファルトは人を焼くための鉄板である。バイ、繁田泰司。
制服のスラックスの裾を折り曲げて涼を取りながら、太陽の暑さでだるくて思うように動かない足を引きずりつつ帰路を急ぐ。帰りがけ、一華と喋っていると思いがけず先生に呼び止められて先日のテストの点数についてお小言を食らっていたせいで、遅くなった。
一華だって俺とどんぐりの背比べみたいな点数だったのに、俺だけがお咎めを食らうのは割に合わない。そりゃあ、一華に比べて俺は友達も少ないし先生とも打ち解けてないし、何より快活さのかけらもないけど。そういうのでえこひいきするのは教師としてどうなんだ。
歩きながらぶつぶつと恨み言を小さな小さな声で吐く。そして、自分の家の前を素通りして棚田家の門扉の横のインターホンを押した。
「はいはい」
部活でまだ学校にいる一華が目的ではない。俺の目的は、おじさんだ。
いそいそとドアを開け、俺を招き入れたおじさんは、数週間前に実の娘を拉致監禁し実験体にしようとしていた男と同一人物とは思えぬほど、目から狂気の色が消えている。
そう、あの時、というよりか五年前からずっと、おじさんの目は狂っていた。どんよりと曇ったガラス玉のような瞳は、真弓おばさんという亡霊に囚われていた。
日の当たるリビングで、紅茶とお菓子をごちそうになる。ちょっと薄いアールグレイと、近所のケーキ屋で人気のフィナンシェ。間違っても、紅茶はビーカーには入っていないし、お菓子がバットの上にあけられることもない。
「ごめんね、忙しいのに手伝わせてしまって」
「いや、全然」
軽く肩を回すように腕を振ると、頼もしいなと笑われた。
ひとしきり、紅茶とお菓子を堪能し、立ち上がる。
「よし、やろう」
地下室に続く階段を下りるこざっぱりしたストライプのシャツの後ろ姿を見つめ、やはり白衣というのは胡散臭さが増すよな、と思う。医者などでない限り、今日みたいにシャツ一枚でいるほうがよほど清潔感があるし、ふつうの人、みたいで安心する。
地下室に入り、さて、と深呼吸する。腕まくりしようとして、俺は半袖のシャツを着ていることに気づく。その空振りをごまかすようにおじさんをちらりと見ると、こちらのことはまるで気にかけていないようで、ぼんやりしていた。
「どこから片づける?」
「そうだなあ……機械は業者に回収してもらうから、割れ物からかな」
こういう専門の機器を回収する業者ってどんな業者なんだろう、と思うも、そもそもいったいどういうコネでここにこんな最新鋭の機械が揃っていたのかも謎なのだ、もう深くは追及しない。
軍手をはめ、紙袋にひたすらビーカーや試験管といったガラス製品を捨てていく。かちゃかちゃと袋の中で擦れ合って音を立てるのを、俺はなんとなく納得いかない気持ちで聞いていた。
「ねえ、おじさん」
気づいたら、声に出していた。
「ん?」
「ほんとうにこれでいいの?」
「……」
もったいないおばけ、とか言うんじゃないけど、ここまで設備を整えた場所をそう簡単におじさんに手放せるものだろうか、狂気に満ちた五年間を、こうもあっさりと捨ててしまえるのだろうか。
書類を集めて袋に入れていたおじさんが、手を止めてこちらを見た。そして、眩しそうに目を細める。
「泰司くんが、言ったんじゃないか。前を向けって、一華を見ろって」
「……そうだけど」
「まあ、これだけの設備を手放すのは惜しくもあるけど、こんな場所が残っていたらいつかまた僕は道を踏み外してしまうだろうし、いつか真弓のところへ行ったときに顔向けできないどころかビンタされるだろうし、僕いいこと考えたんだけどこの部屋、地下だし防音だし改装してスタジオっぽくドラムセットとか持ちこんじゃうのどうかなって思うんだよね……。あと泰司くん一華とこないだ手つないで帰ってきてたけどなんでキスしなかったの?」
マシンガントークは相変わらずで、痛いところを突いてくる。思わず黙りこくった俺に、おじさんは期待に潤んだ目を向けてきた。
「どう? 泰司くん、ドラムセット設置したら遊びに来てくれる?」
「…………どうだろ」
おじさんの一華に関するジャブは、あくまで挨拶代わりらしい。あまり真剣に取り合うと馬鹿を見るというものだ。
「あのさ、おじさん」
「うん」
「俺が連れてきた、髪の長い可愛い女の子、覚えてる?」
「僕をとっちめようとした子?」
「そう」
「彼女がどうかした?」
ほら見ろ、やっぱり。おじさんが覚えていないんだから、瀬尾さんがおじさんの手によってつくられたホムンクルスなんて嘘に決まっているのだ。続けざまに何か言おうと口を開くもそれより一呼吸早く、おじさんが口にした。
「生みの親をとっちめようとは、まあなんとも気概のある子だよねえ」
「…………えっ?」
「えっ?」
ふたりして、きょとんとする。たぶん、何にきょとんとしているのかはお互い違うんだろうけど、ちょっと待ってくれ。
「おじさん、何言ってるの?」
「何って、あの子僕が生成に成功したホムンクルスだろ?」
まずい、瀬尾さんの妄想が俄然真実味を帯びだした。一華がこんな入れ知恵をするとは考えにくい、ということはおじさんは独自にこの解釈にたどりついたというわけで、こんなアホな妄想をする人間が一気にふたりも出てくるとも考えにくい。
いや、考えにくい、と言うか似たような妄想をまったくの別人が考えるより、人間を生成しちゃうほうが考えにくいんだけども。だけども。
「な、なんでそう思うの」
「なんでって、ううん、なんとなくかなあ。なんとなく、そんな気がするんだ」
なんとなく、ですべてが解決するなら、俺は国語の試験でこの時の作者の気持ち、を聞かれた時に迷いなくなんとなくと書くぞ。なんとなくで世の中のすべてが済んでしまうなら警察も医者もいらない。
「あの日さ、なんとなく落ちていた泰司くんの髪の毛を入れてみたんだ。泰司くんは癖毛だから分かりやすいんだよね。そう、それでだから、もしかしてあの子は泰司くんの妹的な存在かもね。あ、ふみちゃんに失礼かな」
絶句する。ここまで話のつじつまが合うなんて、おかしい。もうこれは一華がぽろっと入れ知恵したに違いない。
「おじさん、一華と何か話した?」
「何かって?」
「ホムンクルスのことについて……」
「まさか。一華は僕の研究を大嫌いだったじゃない」
そうだ、一華がおじさんとこの手の話をするなんてありえない。一華から情報が流出した可能性を潰され、いよいよ俺は疑心暗鬼になる。まさか、瀬尾さんが俺のDNAから生まれたホムンクルスだなんて、信じない、絶対に信じたくないのに。
おじさんは、そこで満足してしまったのか片づけ作業を再開させる。
瀬尾さんと言い、一華と言い、おじさんと言い。俺を置いてけぼりにして自己完結しやがって。許さん、許さんぞ。
そう思って歯ぎしりしていると、開けっ放しにしていた地下室に続くドアのほうから、声が届いた。
「ただいま。泰司来てるの?」
階段を上り、顔を見せる。部活帰りで髪の毛が汗で少ししんなりしている一華は、にっこり笑った。
「シャワー浴びてくるから、そのあと休憩しない? コーヒーいれてあげる」
女の子に、シャワー浴びてくる、と言われてぐっとこない男はいない。ご多分に漏れず俺もあらぬ緊張を身体に走らせた。一気にぎこちない様子になった俺に、一華はにたりと笑う。
「エッチ」
何も言えなくなっている俺を放って、一華は鼻歌まじりに洗面所のほうへ消えた。
よっぽど覗いてやろうかと思っていると、今度はおじさんに戻ってくるよう呼ばれる。
結局瀬尾さんの正体は何なのか、ただの妄想たくましい美少女なのか、それともこの冴えないおじさんの手によってつくられたホムンクルスなのか、そして生成に利用された遺伝子は俺のものであったのかそうでないのか。俺にだけ真実が分からないまま、瀬尾さんのことは記憶の一端として風化していってしまうのだろうか。
とわずかセンチメンタルな気持ちになっているうちに、風呂から上がった一華がコーヒーミルを稼働させている音が聞こえてくる。コーヒー豆を挽くいい匂いが地下室まで漂ってくる中、一華の声が響く。
「休憩しようよ、コーヒーいれてるよ」
おじさんと、階段を上りリビングに向かう。お茶請けに一華が用意したのは、近所のケーキ屋のマドレーヌ。チョイスがおじさんと似通っているのか、それとも買い置きしてあったのか。
「今日の豆、何?」
「なんだっけ……あ、キリマンジャロだって。あたし、豆の産地とか銘柄とかわりとどうでもいいや」
「僕もどうでもいいんだけどね」
「じゃあ聞かないで」
瀬尾さんが、妄想美少女だろうが俺のDNAを使用したホムンクルスであろうが、どちらでもいい、と不意に思った。
だって一華がおじさんと喋っていて、こんなに楽しそうなんだ。五年前、おばさんがいた頃だって、きっとこんなに楽しげじゃなかった。
熱々のコーヒーに口をつけてすぐに離す。まだ飲めた温度でないことを察して、親子のお喋りを背景に、地下室の有効活用法を考える。
「このマドレーヌ美味しいね、どこの?」
「そこの角曲がったところのケーキ屋さんの」
「あれ? さっき僕が泰司くんに出したフィナンシェと同じ店だ」
「だろうね。パパが買い置きしてたの、勝手に出しちゃっただけだもん」
「そうなの。あれ来客用だからあんまり不用意に食べちゃ駄目だよ」
「……泰司は来客でしょ?」
「まあ、そうだね」
たしかに、ドラムセットやグランドピアノを置いてスタジオとして使うのは妙案かもしれない。物置にしてしまうのはもったいない広さだ。そろそろコーヒーも飲めそうだ。
「でもよく考えてみれば泰司くんは未来の息子というわけで、そうするとお客様というのも何か違う気がするんだ」
「何言ってるの!」
飲みかけていたコーヒーを思わずカップの中に吐き戻す。咳き込まなかっただけ自分を褒めたい、と気の早いおじさんを一華とともに睨みつける。何が未来の息子、だ。
「そういえば、僕の賢者の石、どこにいったんだろう……」
もう一度コーヒーを口に含みながら、視線を明後日の方向に向ける。
賢者の石は、ティッシュでぐるぐる巻きにしてポリ袋に入れ、その上からアクセサリーを入れるような小さな布袋に入れて、机の引き出しの一番奥に保管してある。まず俺は、あんな不吉なものは粉々に砕いてふつうゴミに出そうと思ったのであるが、どれほどの硬度を誇るのか、カナヅチで叩いてみたのだがカナヅチが負けそうだったので、仕方なく保管している。
そのままの姿で捨てることも考えたものの、それはさすがに何だか忍びなくてやめた。
いわくとかついていてたたられたら嫌だし。
「知らないけど……もういらないでしょ?」
「まあ、いらないけど、僕の研究をまとめてしかるべきところに出せば、いいところまでいくんじゃないかって思って」
しかるべきところとは、いいところとは、という感じだが、言いたいことはなんとなく分かる。人体を生成できる技術って、そうとう革新的だしたぶん最先端だし、医療の現場でも人体をつくることができれば内臓の再生とかの分野で役立ちそうだし、そう、しかるべきところに出せばかなりいいところまでいってしまうとは思う。
ただ、おじさんの曖昧ななんとなくで行われていたゆるい研究に、まとめるところがあるのだろうか。きちんと、人造人間の生成過程をレシピ化できるのだろうか。
答えは否。
「おじさん、そういうのも全部捨てるのが、今日の作業でしょ?」
「……うん、そうだね」
穏やかに微笑んだおじさんが、カップに残っていたコーヒーを飲み干して、膝を叩く。
「よし、やろうか」
◆
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