第15話 青春はなんの味
チャイムが鳴って、俺のとなりは空席で、細く開いた窓から生ぬるい風が吹き抜けてノートをいたずらにめくっていった。
宣言通り、夏休み明けの教室に瀬尾さんの姿はなかった。もちろん、理由は転校である。
ただ、俺は夏休みに入る前に瀬尾さんから受け取ったあるひとつの言葉がずっと気になっている。
「じゃあ、またどこかで」
「やっぱり消滅とか嘘なんでしょ」
「きっとまた会えるよ」
「会えるってことは、消えないんでしょ」
「ふふふ」
消えてしまうのなら、ほんとうにホムンクルスなのならもうどこかで出会うこともないはずが、そう言うのなら、やはり彼女はホムンクルスなんかじゃなく、親の都合で三ヶ月だけこの街にいた、少し妄想が激しいふつうの美少女だ。
「わたしは消えてしまうけど、案外簡単に再会できるかもしれないよ」
「はあ?」
くすくすと笑みをささめかせながら、瀬尾さんが不意に俺の顔に手を伸ばしてきた。防御する間もなく、眼鏡を奪われる。
「何するの」
取り返そうとするより一歩早く彼女は眼鏡を身につける。そして、度が強いのかすぐに外し、俺にはぼんやりとしか見えないが、にっこりと歯を見せて笑ったような気がした。そんな笑い方が珍しいと思っているうちに、眼鏡は手元に戻ってきて、かけた時にはすでに瀬尾さんは真面目な顔をしていた。
「たとえば朝起きて鏡を見るとき」
「え?」
「そこにわたしがいるような気がしない?」
「……?」
妄想が激しい上に、そんなロマンチックな思考まで持ち合わせていたのだろうか。どうにも解せないで彼女をじっと見つめる。すると、今更あることに気がついた。
「瀬尾さん、右目の下にほくろがあるね」
「うん」
「俺は左目の下」
「鏡だね」
「……そういう意味?」
「どうだろう」
普段、瀬尾さんとあまりじっくり目を合わせられないのもあるし、席の並びの関係で、観察していた横顔は左側だったから、気がつかなかった。
瀬尾さんの目が、きゅっと細く引き締まる。笑うのをこらえているような表情に、俺はますます訝しくなる。
「今度はどこに引っ越すの?」
「……繁田くん、あのね」
瀬尾さんは、にやりとその美貌に不釣り合いな下卑た笑みを浮かべた。初めて人間らしいと思うと同時に、まがまがしくてこの世のものではないように感じる。
「次に巡り合う時までに、わたしが誰だったのか、ちゃんと答えを出しておいて」
なぞなぞのような、こどもの戯言のような、それとも俺が馬鹿なだけでほんとうは深い意味があるのか分からないような、そんな言葉を最後に、俺の返事を聞かず瀬尾さんはにこっと微笑んで駆け出した。俺しかいなくなった生物部の部室、これからもっとうるさくなるのだろう蝉の合唱、じりじりと窓から忍び込む西日。
ふと、思い当たるものがあった。
おじさんを説得しようとしたあの日、自分が何を口走ったか。
たとえ蘇らせたところでそれはおばさんではなく、ただの化合物だ。
俺はたしかにそう言った。それはもしかして、自分をホムンクルスだと思い込んでいる瀬尾さんを傷つけたのではないだろうか。
そう思うといてもたってもいられず、部室を出て走り出す。彼女を追いかけて何を言うつもりなのか、よく分かっていないけど、それでも何か言わなくちゃならないような気がした。だって彼女はもう、今日限りでここを去る。二度と会えない。
でも、追いかけるのが遅かったのか、昇降口まで降りても瀬尾さんの姿はもうどこにもなくて、夏休みを満喫するために早々と生徒たちが下校した下駄箱は、がらんとしていた。
夏休みが明けてすぐ、テストがある。辟易しながら、俺と一華は学校の最寄駅にあるファミレスでノートと参考書を広げて唸っていた。
「分からん」
「駄目だ、数学は捨てよう」
ふたりとも馬鹿ではないけど、ほかの高校よりも若干レベルの高い我が校では下から数えたほうが早いので、捨てる教科というものが存在してしまう。
「……瀬尾さんは、なんか頭よかったよなあ」
一度ならず何度も、となりの席の瀬尾さんには助けられた記憶がある。瀬尾さんが、もしもここにずっと通っていてくれたなら、教師役として召喚したというのに。
そうぼやくと、一華が妙にもじもじしながら蚊の鳴くような声で呟いた。
「あたしさ、希ちゃんに嫉妬してた」
「なんて?」
聞こえなかったわけではなく、意味がよく理解できなかった。タイプは違えど、一華もじゅうぶん可愛いし、勉強ではまあ負けるけど運動では絶対に負けないし、何より一華が他人と自分を比べていたというのに驚いた。
「だって、泰司と妙に仲がいいし……その……」
ますます訳が分からない。たしかに、生物部に入部させたし、監視するために一緒にいたけど、それは一華のためだというのに。まあもちろん本人のあずかり知らぬところで俺が勝手に気張っていただけではあるのだが。
そこで気がつく。一華の浅黒い頬がわずかに火照っている様子なのに。
「泰司には分かんないかな……」
最近どこかで、そんな感じの言い回しを聞いたような……と思いを巡らせながら、頬を掻く。そのまま頬杖をつき、ドリンクバーから持って来たジュースのストローをもう片方の手の指でいじくりながら、一華の顔を見ることができないでいる。
冷静なふりをして、心臓が地団駄を踏む勢いで拍動する。テーブルの木目をじっと追いながら歯を食い縛った。どう反応するのが正解なんだ、俺はいったいどうすればいいんだ。
「……分かんないよね」
さびしそうな声に、顔を上げる。唇を真一文字に引き結び、目元に力を込め、眉を垂らした今にも泣き出しそうな顔をした一華をはっきりと視界に収め、ぎくりと頬が強張った。
「俺は」
一歩間違えればひっくり返っただろう硬い声で、言葉を発する。俺は、まで言って喉がからからに渇いていることに気づいた。午後のファミレスの喧騒が一瞬遠ざかって、すぐに戻ってくる。
「……俺はそんなふうに思ってもらえる奴じゃない」
かろうじて、掠れた声でそれだけ絞り出した。
「泰司、そういうのやめなって言ったじゃん」
悲しげな表情から一転し、顔をしかめた一華がいつものオブラートなしの説教に突入しかけるのを遮る。
「分かってるよ、自分を卑下するなとか言うんでしょ。でも、俺はそういう奴なんだから、一華がいくら言っても結局そういう奴なんだから」
青春が泥水みたいな味がするのは自分のせいだなんてことは、けっこう昔に気づいていた。楽しもうと貪欲な人たちにとってはサイダーみたいに美味しいのかもしれないこともちゃんと知っていた。
乗り遅れたせいで、波を楽しむ人たちを指を咥えて見ているしかできない。
羨ましいと思いつつ、今更波の乗り方も分からなくて、やってみたくても乗ってみたくても滑稽で無様なさまをさらすのが嫌で。
そんな気持ちを卑屈に育てて、結局楽しんでいる人たちを馬鹿にしてバリケードをつくって、あいつら頭空っぽなんだぜ、と虚勢を張って。
そんな自分にはうんざりで、一華がそんな俺を気にかけるのも、忍びなくて。
「……そういう頑固なところが希ちゃんだよね」
「…………」
は?
「もう吹っ切れたから言うね。あたしは泰司のそういう頑固で卑屈でアホみたいにプライドが高いところも含めて、小さな頃から大好き。それに、昔は泰司のほうが、とろくさいあたしを守ってくれてたじゃない。あたしが陸上を始めたのだって、泰司があたしのせいで男子に馬鹿にされるのが嫌だったからなんだからね。足が速くなれば、馬鹿にされずに済むと思ったの」
ほんとうに吹っ切れたらしい、一華は羞恥心をどこにかなぐり捨てたのか、恥ずかしいことをぺらぺらと喋り出す。
「泰司がオタクっぽくなってもあたしには変わらず接してくれてたし、女子と目を合わせられなくなってもあたしとだけはちゃんと喋ってくれてたから特別だってうぬぼれてた……ううん」
今度は俺の頬が熱くなる番のようだった。
「今もうぬぼれてる。駄目かな?」
俺は一華を好きなわけじゃないんだ。ただ、中学に入ってから面倒なタイプのオタクになってしまった俺に態度を変えずに接してくれたことへの感謝の気持ちだけだった。ラッキースケベとか失礼なことも考えたし、グラウンドで練習している一華の脚にばかり目が行っていた。そういうのを、恋と呼んでしまうのは駄目だと思うんだ。駄目だと、思うんだ。
「……駄目じゃないと思う……」
意志が弱いのだと思う。ラッキースケベを狙っていた女の子にこんなあけすけに好意を示されて頷いてしまうくらいには。でもほかにどうすればいいのか、対人関係の引き出しが少なすぎる俺には浮かばない。
「へへ」
勝ち誇ったはにかみで、一華のまとう雰囲気がふわりと色を変える。
健康的な生命力の強い面影が、気だるげであどけない、愛らしさに。
「ところで……」
どうにも居心地が悪くなり、ちょっと前の話題を引っ張り出してくることにする。
「そういうところが瀬尾さん、ってどういう意味?」
すると、ドリンクに挿したストローに口をつけようとしていた一華は目を丸くして、小首を傾げた。中身を吸い上げる気配はない。
「希ちゃんから聞かなかったの?」
「何を?」
途端に渋い顔をつくり、眉を寄せ唇をへの字に曲げて、どこから説明するべきか、ともごもご口の中で呟いている。
「まさか一華、瀬尾さんがホムンクルスだって信じてる?」
「信じてるも何も……」
寄せていた眉を開いて、両手で頬杖をついて俺をじっと見つめ、言い放つ。
「希ちゃんは、泰司のDNAから生まれたんだよ」
◆
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