第12話 穏やかじゃない

 そうっと門扉を押し開ける。周囲を見渡して誰もいないことを確認し、庭に続く細い道を通り家の裏に向かう。窓から様子を見てみるも、きっちりと遮光カーテンが引かれていて室内がどうなっているのかはうかがい知れない。もどかしくなり、窓に耳たぶをへばりつけるようにして音を聞く。てらてらと容赦ない梅雨の合間の太陽が首筋を焼いた。

 俺は今、棚田家に不法侵入しようとしている。

 なぜそんなことになっているのかと言うと、話は昨日の朝までさかのぼる。


「棚田は休みか」


 担任の先生が出席簿にメモをとりながら怪訝そうに言う。一華から、欠席の連絡が入っていないからゆえのことのようだった。

 珍しい、と思う。一華はそもそも健康優良児で、体調不良になることが少なく俺は彼女が休んでいるのをほとんど見たことがない。真面目な彼女のことだ、サボりでもないだろう。しかしそうなると、学校に連絡がいっていないというのが奇妙なのだ。

 おばさんが亡くなってからおじさんはああなので、一華自身が欠席連絡をするしかない。もちろん、休むときに彼女はそれを欠かしたことはない。

 高校生にもなると欠席のひとつふたつで小うるさく言われることはないが、先生も心配になったらしい、一華の友人たちに、知らないか、と問いかけて芳しい答えが返ってこなかったのち、俺に視線を向けてきた。


「繁田、何か聞いてないか」

「いや、何も」

「そうか」


 腑に落ちないと言わんばかりの表情で、それでもそんな一華の不在くらいで進行を滞らせるわけにはいかない。先生は連絡事項をきっちり述べてホームルームを終えた。

 その日の帰りのホームルームが終わり放課後、先生は俺のところへやってきた。


「昼休みに電話したんだがつながらないんだ。悪いけど、このプリントを渡すついでに様子を見てきてあげてくれないか?」

「分かりました」


 プリントを受け取る。今日は部活のミーティングももちろん友達と遊ぶ予定も特にないのでまっすぐ帰ることにする。バスに揺られている途中、俺も一華にメッセージを送ってみる。が、返信はおろか既読すらつかない。

 スマホをチェックできないほどに、欠席連絡ができないくらいに体調が悪いのだろうか。

 にわかに心配になってきて、バスを降りて少し足早に棚田家の門扉の横のインターホンを押す。

 薄々予想してはいたものの、しばらく待ってみても応答がない。なんせ、ここで応答があるならば一華は担任に休むという連絡を入れるなり、俺のメッセージに既読をつけるなりしているはずだからだ。

 結局、俺は三回インターホンを鳴らして、心配ではあったものの諦めてプリントをポストに投函してすごすごと帰宅した。

 おかしいと思ったのは、その翌日、今日のことだ。

 やはり無断欠席した一華に、担任も俺も不安を募らせた。家で倒れてそのまま動けなくなっているのでは、とかいろいろ考えたあげく、先生は俺に、何が何でも様子を見てこいというミッションを課した。もちろん心配なので、頷いた。

 そしてお約束と言うかなんと言うかインターホンに応答がないので、俺は棚田家に忍び込んでいるのである。

 あまりにも静かで、人の気配を感じない家のどこから侵入しようか考えて、窓を割るのはさすがにまずいと思い至り、やはり正面突破しかないと思う。

 とは言え俺は泥棒でも鍵屋さんでもないので、鍵がかかっていたらアウトである。

 どうしよう、と思いつつ、開いている窓がないか偵察しがてら家の周りを一周し、玄関に戻ってくる。ドアノブに手をかけて、力を込めて引く。


「……開いた」


 幸運と言うべきか何と言うべきか、ドアは開いた。入ってもいいのか、どうしようか、数秒迷っていると、背後から突如冷や水のように冷たい声がかけられた。


「何してるの?」


 ものすごく肩が浮く。そして、よくよく考えれば聞き覚えのある声に、おもむろに振り返る。


「…………瀬尾さん」


 学校帰りだろうか、きれいな黒髪を風に揺らし、門扉の外に立っている。きりっと濡れたような黒い瞳が、俺の手元にそそがれていて、慌ててドアノブを離した。ドアが閉まる音が、妙に大きく響いて、慌ててしまう。昼下がりの住宅街は、通りをいくつか挟んだ大通りを車が走っていく音以外は、ほとんど無音である。


「入らないの?」

「え?」


 瀬尾さんが門扉を押して中に入ってきた。そして、俺が離したドアノブをその真っ白な手で握る。


「なんで?」


 何してるの、という言葉の意味が、何勝手に人の家に入ろうとしてるの、ではなく、なぜ入らないの、というニュアンスであることに気づく。なんでここにいるの、とか、入っていいんだろうか、というふうなつもりで、なんで、と発すると、瀬尾さんは目を丸くして俺を見た。


「繁田くん、知っていたんじゃないの?」

「……何を?」

「一華ちゃんがいけにえになりそうだっていうことを」


 素早くまばたきを繰り返す。いけにえ、という単語を脳内で変換しようとして、にえで引っかかる。にえってどんな字だっけ。にえ、にえ。


「いけにえ?」

「だって材料は揃ってしまった」


 さっきから彼女が何を言っているのか、俺にはとんと理解が及ばない。そもそも、単語と単語の間が離れすぎている。こちらが理解している体で話しているから相互不理解が生じるのだ。


「どういうこと? 何の話? いけにえって、穏やかじゃないよね……」


 ドアノブを引く。再びドアが開いて、いつもの棚田家の玄関が俺たちを迎えてくれる。向かって右側にある靴箱の上にはレースのクロスが敷かれていて、バランスよく透き通った青と緑の飾り瓶が置いてある。

 瀬尾さんは躊躇なく室内に押し入り、俺を手招きした。


「早く。説明はあと。今はきっと時間がない」

「何、どういうこと?」


 靴を脱いで揃えている。時間がないと言ったわりには仕事が丁寧だ。

 勝手に入ってしまってよいものか、俺はドアを身体で支えて開きながら数秒悩み、やはり一華が心配なのに勝てず、そもそも不法侵入するつもりであったことや担任の先生のミッションを思い出し、諦めて中に入った。ぱたん、ドアが閉まる。

 靴を脱いで、俺も揃えて、上がり込む。しん、と静まり返った室内に、一華やおじさんの存在感はないに等しく、誰もいない他人の家に勝手に入っているという感覚が、嫌な心臓の鼓動を連れてくる。

 でも待てよ、一華は欠席の連絡もできず俺からのメッセージに既読すらつけられない状況なのに、家にいないなんてことがあるのか?

 いけにえ。

 その言葉が何を意味するのか分からず、俺はさっさと廊下を進み始めた瀬尾さんの背中に、どうしても小さくなってしまう声で質問を投げた。


「ねえ、どういうこと? 材料は揃ったって、何の? 一華がどうなってるって?」


 振り返った瀬尾さんが、しっとでも言うふうに唇に人差し指を立てた。口元を手で抑えて、こくこくと小刻みに首を縦に振る。

 瀬尾さんは、俺の顔に顔を近づけてきた。どこか懐かしい、けれど違和感の強いハーブの香りが濃くなる。急に近くなった美少女の顔にどぎまぎしていると、彼女はひそひそと喋りながら、俺についてくるように指で促し、再び廊下を進み始める。


「繁田くんは信じてないけど、わたしはこの家の錬金術師の手によってつくられた、ホムンクルスで」


 まだその設定を引きずっているのか。

 呆れてものも言えなくなる。


「繁田くんが聞いたかどうかはさだかじゃないけど、わたしが生まれたとき、彼は副産物を生みだした」

「副産物?」

「賢者の石。卑金属を貴金属に変える触媒、と言われているけど」


 どこかで聞いた……、ああ、おじさんと外で偶然出くわした時に、そういえば赤いきれいな宝石が、という話をしていたような。


「実は賢者の石は、人体を生成するのに必要な触媒なの」

「……と言うと?」

「あの石があったからわたしは生まれた。副産物と言ったけど、実はわたしのほうがおまけだったということ。彼が賢者の石の生成に成功したついでに、それを触媒としてわたしが生成されたという寸法」


 触媒という難しい単語を使っているが、要は反応の前後で自分自身は変化せずに物質の化学反応を速めるものだ。たとえば、酵素を使って食品の発酵する速度を速めることが可能である。食品は、発酵前と発酵後で姿かたちが変わるが、酵素は変わらずそこに存在している、というわけだ。

 つまり……。

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