第11話 きみは鈍感だね

 少し早めの梅雨明け宣言をテレビが高らかに謳う。本格的な夏が来るらしい。くそったれ。

 寒い冬も苦手だが、暑い夏はもっと嫌いだ。海だ祭りだと騒ぐリア充が鬱陶しいし、汗をかくのが大嫌いだ。何しろ、冬は着込めばどうにか寒さをやり過ごせるが夏は裸になっても暑さをやり過ごせないあたりに殺意を覚える。

 朝からすでにむわりと湿気むんむんのじっとりと汗ばむ陽気の中、窓を全開にして朝食を食べていると、ふみちゃんが上機嫌で二階から降りてきた。


「なんだ、機嫌いいね」

「いや~夏って感じだよね。目覚めが爽やか」

「……うわあ」


 我が妹ながら頭おかしい、と真剣に思う。

 目覚めが爽やか? 馬鹿を言え、汗だくで目覚めることの何が爽やかなんだ。


「だって寒いと、いつまでも布団から出たくないけど、夏の朝って、はあ、起きよう! みたいな気持ちになるじゃん?」

「ならない……」


 そんなやり取りをかわしたのちに、バス停で朝練がなかった様子の一華とばったり遭遇する。下校時間がかぶって一緒に帰ることは多いが、登校はそんなこともない。そして最近、俺はどうやら一華に避けられているような気がするので、下校もそんなにかぶらない。


「おはよう」


 なんとなく気まずい気持ちで挨拶すると、なんてことなさそうにおはようと返ってきて、もしかして気まずく感じているのは俺だけなんだろうか、と不安になる。俺だけが、過剰に意識しているのだろうか。それはちょっと恥ずかしい。


「今日朝練ないんだな」

「うん」


 会話が終わってしまう。普段なら、これで沈黙が訪れても、特に何か焦燥を覚えることはなかったのだけど、俺の今の心境ではそうはいかなかった。


「あのさ。おじさん最近元気?」

「さあ。……最近あまり見かけないから」


 放たれた言葉は刺々しい響きで、俺は話題の選択を間違えたことを悟った。最近一華がおじさんの話をしないことが本格的に危機感を募らせる。これ以上こじれたら、親子関係修復不能になる。

 とは言え、俺にできることなんて高が知れている。


「大丈夫かな……今度様子見に行こうか……」


 話題を間違えて、その上空気を読めないふりで続行してしまう俺はたぶんものすごく馬鹿なんだろうけど、一華にとってはあんな変なおじさんでもたったひとりの親なのだから、できることなら仲良くしていてほしい。そう独善的に考えて、言葉を重ねる。


「また事故起こしてたらたまったもんじゃ……」

「いいよ。呼ばれてないのにあんなところにわざわざ行かなくても、いい」


 そっと横顔をうかがうと、ぴりぴりとした空気が伝わってくるほどに強張っていて、もしかして、もうすでに修復不能なのでは、と感じる。

 俺の家は、と思う。俺の家は、厳しいながらもおおらかな母親と、仕事が忙しくてあまり会話をしない父親と、天真爛漫なリア充の妹がいて、そりゃあ反抗期には家族なんか嫌いだと思うことも多々あって、でもやっぱりなんだかんだ好きで。家に帰ればだいたい母親がいて、妹もいて、ちょっぴりにぎやかな、いわゆる絵に描いたような一般家庭なんだと思う。

 一華はそうじゃない。繊細な時期に母親を亡くして、それ以来頼れるはずの父親はちょっとおかしくなって、ひとりっこだから家に帰ってもおかえりと言ってくれる人はいなくて。

 だからこそ俺は一華におじさんとのつながりを絶ち切ってほしくないのだ。

 こんなのはエゴだ。でも、おばさんがいた頃の棚田家を知っている身からすれば、そう思っても当然かもしれないという更なる身勝手さも顔を出す。


「い……」


 何か、言葉をかけるべく名前を呼ぼうとしたとき、通りの向こうからやってくるバスが見えた。一華の気がそちらに逸れる。俺の呼びかけは宙に浮いてしまった。

 停まったバスに乗り込んでから、俺は先ほど言いかけた何かを再び口にしようと思うのだけど、いかんせん駅に向かうバスなのでとても混んでいて、窮屈で、何か会話をするような空気ではなかった。一華は黙って、となりでぐいぐい身体を押し込んでくるおばさんをうっすら睨みつけている。

 結局、学校の最寄駅のロータリーに着くまで俺は一言も発せず、学校までの道のりもなんとなく、無言がちで、やっぱり一華の態度は前に比べてだいぶぎこちないというか、そっけないというか。


「あのさ」


 でも、下駄箱で靴を履き替えて階段を上り教室に向かう途中、俺はやっぱり勇気を出して呼びかける。ん、と首を傾げた一華に、教室のドアを開けながら呟く。


「おじさんは……」


 自分が何を言うつもりなのかもまとまっていないのに、話しだすものじゃない。そう後悔しながら、一華には母親が必要、と言っていたおじさんの顔を思い出して自分を鼓舞していると、背後からにゅっと瀬尾さんが顔を出した。


「おはよう」

「あ、おはよう……」


 今日はどこまでもタイミングが悪い。きっと、朝ふみちゃんが目覚めが爽やかとか変なことを言うからだ。そうに違いない。こんなに暑いのもふみちゃんのせいだ。

 そして、瀬尾さんに挨拶をすると一華はふっと俺から離れてしまった。あっ、と思ったが時すでに遅し、一華は教室ですでにくつろいでいた友人のもとへと行ってしまった。こうなると、特に女子とのコミュニケーションに自信のない俺にそこに入っていく勇気などないので、お手上げである。


「何を突っ立っているの?」

「あ、うん……」


 瀬尾さんが不審そうな目で、教室の入口に立っている俺を促す。

 とぼとぼと席につき、鞄を机に掛けて腕に顔をうずめてぐだぐだと反省会を開く。反省自体は悪いことではないと思うのだけど、俺のこの反省会はあまりよくない習慣だとは思っている。なぜなら、終わったことをうじうじといつまでもこねくり回して後悔し、その後悔したことをまた反省するという負のスパイラルに陥るだけのものだからだ。

 思考を断ち切るように深々とため息をついたところで、チャイムが鳴った。担任の先生が出席を取り始め、それが終わったら簡単に連絡事項を述べていく。


「夏休み前に部室の片づけをするように、顧問から言われてると思うけど、遅れてる部もあるみたいだから、まあ急げよ」


 生物部は、だいぶ片づいてきたものの、もう誰のものなのか誰も知らないような私物が置いてあって、それの処理に困っている。アニメのキャラグッズとかは怨念がこもっていそうで下手に捨てられない、と思うのは俺だけだろうか。

 そもそも、この私物が誰のものなのか分からない理由が、幽霊部員たちが滅多に部室に来ないからであるからで、もしかしたら現部員のものである可能性も捨てきれないのである。それを思えば、俺はまだ真面目に活動しているほうである。

 そして片づかない部室の現状を見て、バスケ部と兼部している例の顧問は鼻で笑い、瀬尾さんをねちっこく睨みつけるのである。

 言っておくけどバスケ部の部室にも、誰のものかも分からないシューズや使いかけの制汗剤の缶が大量に転がっていて、しかも奴らはそれにまだ手をつけていないことを、ちゃんと俺は知っているのである。

 とまあ、他部の事情は今はどうでもよくて、生物部の片づかない部室のことも、わりとどうでもいい。

 反省しながら、じゃあどうやっておじさんのことを切り出せばいいんだ、と思う。一華がかたくなに心を閉ざしている今の状況では何を言っても無駄なのは分かっているけど、それでも何かしたい。


「何か悩み事?」


 結局悩みに悩んだわりにはいい答えは出ないまま放課後になり、一華はさっさと部活仲間と連れ立って部室に行ってしまった。

 のろのろと帰り支度をしていると、となりの席で同じく帰り支度をしていた瀬尾さんが、俺にそう問いかけてくる。


「悩み事っていうか……」


 ふつうに話をつなげようとして、はっと我に返る。

 瀬尾さんは一華の家の事情を知ってはいるものの、あまり突っ込んだ話をしては敵に塩を送るような真似になるのではないか。


「……大したことじゃないんだよ……」

「一華ちゃんのこと?」


 あまりの図星に、もんどりうって顔を覆い床をじたばたと転がり回りたい気持ちになる。俺はどれだけ分かりやすい顔をしているのだ。

 というか、瀬尾さんにばれていたということは、他の誰かにも同じようにばれていたのではないだろうか。そうだとしたら悶死する。


「何でそう思うの」

「だって、分かるの」


 いよいよ、俺の淡い苦悩が周囲にだだ漏れだった可能性が濃厚になってきて、いわゆる豆腐の角に頭をぶつけて死にたい、そんな気持ちになる。


「なんで分かるの……」

「えっと」


 瀬尾さんが言葉に詰まる。

 そのまま、しばらく沈黙が訪れて、俺は机に頬杖をついて言葉を待った。

 放課後、みんないつの間にか帰ってしまって、教室には俺と瀬尾さんしかいない。窓の外は、朝は降っていなかった雨模様だ。


「……だって、繁田くんって一華ちゃんのこと好きなんでしょう?」

「…………。は?」


 たっぷりの間を置いて降り落ちた言葉に、これまたたっぷりの間を置いて返事をする。

 話がつながらなさすぎてどうしたらいいのかまるで分からない。俺が、一華のことを好きかどうかは置いておいてだ、それとこれとはまったく関係がないだろう。


「質問の意味分かってる?」

「うん。どうして繁田くんが一華ちゃんのことを考えていると分かるのか、でしょう」

「うん、まあ、そう」


 言葉にされるとなんとまあ恥ずかしいことだ。しかし否定もできないので、どうしようもなく頷いた。


「うまく言えないというか、説明がしづらいんだけど、わたし、繁田くんのこと、わりと分かるんだ」


 それだけ、俺が分かりやすいということか。若干気まずいし、なんだかへこむ。

 こんな可愛い女の子に心のうちを見透かされている気恥ずかしさや、きまりの悪さ、それからちょっとだけ気味が悪いのもあり、俺はふてくされたようになってしまう。


「別に、好きじゃない」

「どうして嘘をつくの?」

「嘘じゃない」


 実際、これは嘘じゃない。俺は、一華のことを恋愛対象として、なんていう高潔な気持ちでは見ていない。恋愛がほんとうに高潔であるかどうかは議論の余地ありだが、エロい目で見るよりは恋愛というほわほわしたフィルターをかけているほうがまだ全然可愛いし高潔だと思う。要は、比べれば、というわけだ。


「俺は……」


 素直にそれを告げようとして、慌てて口を塞ぐ。

 瀬尾さんに俺は何を言おうとしていたんだ。

 まさか、俺にとって一華はエロい妄想の対象でまかり間違ってもそういう感情を恋と呼んではいけないのだと思う、ということを真剣に真面目に言おうとしていたんじゃあるまいな。

 危なすぎる。なんだか、瀬尾さんにはすごく自然に口を割ってしまいそうになる。


「……俺は、一華のことを好きなわけじゃないんだ」


 かろうじてそれだけ、呟いて、ため息をついて両手で顔を覆う。

 そもそも一華に抱く感謝の気持ちをいったん棚に上げてエロい気持ちを持て余していること自体、失礼すぎると思うのに、それを恋とかいうキラキラシールみたいな可愛いラベルを貼って他人に見せるなんてもってのほかである。


「何を我慢しているのかはよく分からないけど、じゃあ、一華ちゃんのことについて悩んでいたのはどうして?」

「だから一華の父親が……」


 何度目になるのか、口をつぐむ。

 俺はたぶん、スパイとかになって敵に捕まって尋問されたら、ちょろっと味方の情報を喋ってしまうタイプだと思うんだよな。


「言いにくいことだというのは、なんとなく察したし、帰る?」

「あ、うん、そうだね」


 今日はミーティングの日でもないので、部室に寄らなくてもいい。連れ立って廊下を歩き階段を下りて、靴を履き替えて、さて、となる。


「俺傘持ってない……」

「朝、天気予報を見てこなかったの?」

「だって梅雨明け宣言したばっかりじゃん」


 まさか梅雨明け直後にさめざめと泣くように小雨に遭うとか思わない。

 ただ、小雨なので、がんばればバス停まで耐えられそうではある。そう思って腹をくくりかけると、となりで傘を広げている。


「入っていく? バス停までだけど」

「いいの?」

「うん、もちろん」


 小雨とは言えども、濡れるよりは濡れないほうがいいに決まっている。俺はいそいそと、瀬尾さんの広げた傘の中に入る。

 俺のほうが、瀬尾さんよりは背が高いので傘を持ってやる。そのときふと傘に遮られていた視界が開けて、グラウンドで部活をやっていた面々が引き上げてくるのが見えた。

 その中には陸上部のユニフォームを着た一華の姿もあって、俺はどうしようか少し悩んで手を振ろうとする。


「駄目だよ」

「え?」


 瀬尾さんが歩き出す。慌てて、それに合わせて俺も歩き出すしかない。結局一華と目も合わないまま、きっと向こうは俺に気づきさえしないまま、校門のほうまで出てきてしまう。


「何が駄目なの?」

「繁田くんはけっこう鈍感」

「は?」


 何を言われているのかまるで分からないが、それがつまり鈍感だということなのだろうか。

 駅まで、大して会話も弾まないまま、俺たちはとぼとぼと歩く。ローファーが水たまりを蹴って靴下が軽く濡れる。瀬尾さんの身体が濡れないように、なるべく傘を彼女のほうに傾けながら歩いている。

 バス停の屋根のあるところまでやってきて傘を閉じ、瀬尾さんに手渡した。


「じゃ、また明日」

「うん」


 もう瀬尾さんにはどうせ撒かれてしまうので、自宅を突き止めようとは思わない。今日は雨だし。

 なので、彼女に素直に背を向けてバスを待つことにする。

 列に並んで振り返ると、やっぱり瀬尾さんの姿はどこにもなくて。

 ちょうどやってきたバスに乗り込み、座れない車内でため息をつく。

 俺は別に、一華のことを恋愛感情で好きなわけじゃないんだ。ふつうに、いい友達だと思っているし、好きだけど、そういう好きじゃない。

 デートがしたいとか、手をつなぎたいとか、あまり思ったことはないし、どちらかと言うと入浴シーンが見たかったり走っている姿がきれいだと思ったりすることのほうが多いし。

 一華にはほんとうに感謝しているし、大事な幼馴染だと思っている。

 そもそもそういう相手を対象にラッキースケベがどうたらこうたら言うのはほんとうに最低なんだけど、そこは健全な高校生男子なのでどうにか見逃していただきたくて。

 話がだいぶ横道に逸れたけども、とにかく俺が心配しているのは、一華とおじさんのことであり、決して好きだから悩んでいたわけじゃないのだ。

 バス停でバスを降りると少し濡れるけど、すぐに家に着く。


「ただいま」

「あら、傘持っていかなかったの?」


 玄関先にタオルを持ってきてくれた母親に首だけで頷き、頭を拭きながら靴下を脱いで家に上がる。

 リビングを覗くと、ほかほかと頬から湯気を出している、いかにも風呂上がりらしいふみちゃんを見つけた。


「お前も降られたのか」

「最悪。もうほんと最悪」

「夏は目覚めがいいとか変なこと言うから」

「えっ、それ関係なくない?」


 まったくもってその通りではあるものの、俺はその価値観を根に持っているぞ。


 ◆

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