第8話 ヒミツだもんね
一華自身が漏らしたのか独自に調べたのかさだかでないものの、瀬尾さんが一華の家の秘密を知ってしまったことは、揺るぎない事実だ。自分が人造人間であるという妄想に憑りつかれているような人間だ、誰かにうっかり喋ってしまったりしかねない。何せ、妄想だろうが何だろうが彼女にとって自分が人間でないことは大きな秘密で、秘密は人に言いたくなるものだからだ。
と言うわけで、俺は瀬尾さんを少なくとも学校にいる間は監視しようと決めた。
「ねえ、瀬尾さん」
朝、登校してきた瀬尾さんに声をかける。無表情で顔を上げた彼女に、ぎこちなく微笑みかける。
「この高校、部活に所属することが必須になってるんだ。三ヶ月で転校しちゃうけど、どこか入っておけば?」
「……でも、わたし身体が弱いから運動部には入れないし」
そのことは、数日観察してみて分かっていた。体育はジャージに着替えこそすれほぼ見学しているし、階段を上るのもやたら遅い。しょっちゅうどこかで息切れしているのを見る。運動部は無理だろうと当たりをつけた。
「文化部も、どうせ三ヶ月で消えてしまうのに集団の一員を構成するのは気が進まないから」
消えてしまう、という表現が少し、賞味期限の話をしているようで引っ掛かりを覚えるが、とりあえず無視して詰め寄った。
「生物部ってどうかな? 活動は週に一回のミーティングと、あとは自由に部室で思い思いのことをしていればいいし、ミーティングって言っても大したものじゃない。個人競技みたいな部活だから、ひとり入って抜けていくくらいどうってことないよ」
瀬尾さんは、生物部……、とおうむ返しに呟いて、きゅっと目を細めた。それから、口を開く。
「繁田くんって変わってるね。ホムンクルスを生物部に勧誘するなんて」
「その話、今はいいから」
教室の、ちらほらと人がいるところでその話題を俎上に上げるのはやめてほしくて、慌てて遮る。
俺は彼女がホムンクルスだなんて一ミリも信じていないのだから、生物部に誘ってもなんら不思議なことはない。ただ、孤立している転校生に手を差し伸べる、動機はまあまあ不純だが、そういう構図であるだけだ。
俺の慌てた声に、瀬尾さんは一瞬きょとんとしてから周囲を見回し、ああ、と相槌を打つ。
「ヒミツ、だもんね」
そう、言って、歯を見せずに微笑む。リップクリームの類でも塗っているのかてらりと光る唇が弧を描き、嫣然と俺を見ている。どうにも、この機械じみた笑顔が苦手だ、と思う。
たしかに、彼女はどこか人間離れしている雰囲気を持ち合わせているとは感じる。体温を感じさせない白すぎる肌や、まるで絵画の世界から抜け出してきたかのようなほんとうに絵に描いたような美少女ぶりも、何もかも。ただしそれでも、俺は彼女をホムンクルスだとは微塵も思っていない。
なぜならあの日実験は失敗したからだ。ミョウバンから人間は生成できない。
「そ、そう。秘密」
なぜかどぎまぎしながら、その笑みに笑顔を返す。すると、彼女は微笑んだまま、少し考えるふうに幾度かまばたきして、頷いた。
「分かった」
「え?」
「生物部、入るよ」
どうやら勧誘に成功した模様である。かくして、ここから俺の瀬尾希監視体制が始まる。
まずは今日の放課後にあるミーティングに顔を出してもらい、それから何だかんだと理由をつけて自宅を突き止める。家さえ分かれば何かあった時にすぐに対処できる可能性もある。何か、というのが何なのか、あまり考えたくはないが、たとえば彼女が誰かに一華の家の事情を漏らした際に、報復に嫌がらせをするためにとか、そういうことかもしれない。
とにかく敵の情報は多ければ多いほどいい。
「よかった。じゃあ、今日の放課後にミーティングがあるから、そこで入部届を」
「うん」
一華以外の女子とあまり言葉を交わしてこなかった俺は、この一連の会話ですでに相当量のメンタルを削られていた。女の子との会話というのがこんなに気を使う上に緊張するものであると忘れていた俺は、密かにこれからの身を案じた。
こんなことで、瀬尾さんの監視などできるのだろうか。
しかしそれはそれ、これはこれである。高校生男子には、やらねばならぬ時というものがある。一華のため、一華のため、と何度も何度も自分に言い聞かせ、となりの席でのんきに授業を受けている彼女を盗み見る。
見れば見るほど、吸い込まれそうな横顔だった。向こうの壁が透けて見えそうなくらいに薄い頬の色と、相反して赤い唇。伏し目がちにノートを見ている瞳は、黒々と黒曜石のように濡れ光っている。
たぶん、さっきの会話で緊張したのは美少女だったからというのも理由のひとつだ。一億円のダイヤモンドを前に人が緊張するのと同じ理論に違いない。
あがり症は、観客を野菜と思えばどうにかなる、とよく言う。そんな簡単なものじゃないことはもちろん分かっているが、俺はとりあえず瀬尾さんをじゃがいもだと思い込むことにした。
じゃがいも、じゃがいも、じゃがいも。
「じゃあこの問一を繁田」
「じゃがいも」
「は?」
先生に指されたのだと気づくのに時間がかかる。
はっとして前を見ると、きょとんとした先生と、俺を振り向いて不思議そうな顔をしているクラスメイトたち。ややあって、先生は咳払いして渋い顔をつくった。
「お母さんと呼び間違えられることはままあるが……」
「すみませんっ、寝惚けてました」
「素直でよろしい。授業は真面目に受けるように」
居心地の悪い思いをしながらすごすごと、指名をやり過ごしてふと横を見ると、瀬尾さんもきょとんと俺を見ている。寝惚けていたにしても、じゃがいもとは何事かと言ったところだな。
それから何を思ったか、彼女は俺にノートを寄せてきた。とりあえず覗き込むと、そこには俺が指された問一の式の解が乗っていた。思わず顔を上げると、囁く。
「これはこっちの公式を使うと楽に解けるよ」
「……」
もう一度数式に目を落とす。たしかに、整然としたうつくしい解答だった。何度も計算ミスをして、まだるっこしい回り道をして、消しゴムで幾度も幾度もやり直した跡のない、きちんと片づけられたあの研究室のような……。
「すごいね、瀬尾さん」
「え? ふつうだと思う」
思わず想像してしまったおじさんの研究室の静謐な様子を、慌てて掻き消す。彼女はそんな俺の内心の狼狽に気づいた様子もなく、そして褒められたことに照れたり衒う様子もなく、淡々と、ふつうだと思う、と言う。
「いや、俺この単元つまづいちゃって、よく分からなくてさ」
自分の無知っぷりを披露してしまうのは少々照れくさいが、素直に褒める。自分にとってのふつうは、誰かにとってふつうではないこと、勉強ができることは誇ってもいいことだと思うからだ。何より、言っておくべきことがある。
「それに、きれいな字だよね」
淡々と並んでいる数式に、日本語はひとつもないものの、きっとひらがなや漢字を書いてもきれいなのだろうと分かるととのった字面に、やはりどこか人間離れしたものを感じる。まるでコンピュータの腕がプログラム通りに線を引いたような。
しかしよく考えてみればホムンクルスは人造人間と言っても、AIだとかそういった近未来的な存在ではない。むしろ時代に逆行している。いや、人間をもしほんとうに人間の手からつくれてしまうのならそれはある意味最先端技術ではあるだろうが、少なくともコンピュータは関係していない、生身に近い人間だと思うので、瀬尾さんの字がじょうずであることがイコール彼女がホムンクルスであるという流れにはならない。
「いいな、俺汚いから」
「そうだね」
ひょいと俺のノートを覗き込み、瀬尾さんは何もためらわずに同意した。
「瀬尾さん、もう少しオブラートに包んでものを言ったほうが」
俺の周囲はオブラートを知らない人々ばかりだ。もしかして、オブラートという粉薬を飲みやすくする発明品自体が死語なのだろうか。瀬尾さんは、オブラート、とわずか語尾を上げて疑問形で呟いたあと、うん、と頷く。
「個性的な字だね」
たしかにそれはすごく四重くらいに包まれているけども。
手遅れという言葉を、彼女はご存じないらしい。
このように、よくよく観察してみると、瀬尾さんは英語の発音もきれいだし英文もよどみなく、例のよく通る声ではっきりと自信に満ちた態度で凛と立って読み上げる。古文も、俺にとってはちんぷんかんぷんの活用系をきちんと理解している。
どうやら、壊滅的に体力がなく体育をまともにやらない以外は、絵に描いたような秀才であるようだった。
こうなってくれば、女子たちのもくろみもさらさらと粉になってくる。一華によると、初日に生意気な態度をとった彼女を仲間外れにしてやろうとか、少しいじめてやろうとか考えていた不届き者もいたらしいが、あまりにも颯爽とした美少女ぶりとその秀才ぶり、そして実際ちょっと体操服を隠した女子がいたらしいのだが、その際一切臆することもなく、なんの迷いもなくそれを隠してあった戸棚を開けて何事もなかったかのように着替えを始めたその姿に、恐れをなしたらしい。そもそも、最初に皆を突き放したのは彼女なので、仲間外れに、という魂胆はあまり意味がない気がする。
それに、彼女の妄想を半分信じている一華が、今は仲良くというかそばにいるようだし、彼女を窓口にして女子たちともある程度打ち解けているような感じは見受けられる。
昼休み、自席で弁当を広げながらちらと窓際を見ると、一華と瀬尾さんがコンビニのパンを口にしている。そこへ、一華の友人数名が近寄ってきて、あっという間に机を寄せて椅子に腰かけた。そして、瀬尾さんへの質問攻撃が始まる。
「瀬尾さん、最近一華と仲いいよね」
「あたしたちとも友達になろうよ」
また瀬尾さんが何らかの失言、あなたたちと友達になる気なんかない、とかそういうことを言ってしまうのではないかとびくびくしながら、勝手に保護者気分で見守っていると、彼女は意外なことを口走った。
「わたし、今まで友達がいたことがないから、友達がどういうものなのかは気になっている」
えー、と女子の黄色い叫び声が耳をやわくつんざいた。どうして、女というものは、すぐに叫びたがるものなのか。どうして女は何事にも大げさなのか。
「どうして友達いなかったの?」
見りゃ分かるだろ性格に難がありすぎるんだよ。
たぶん彼女たちも薄々そうだろうとは思っているものの、さすがにそれを本人にぶつけることはしない。しかし、どうして、というかたちで言葉を引き出そうとする様はなかなかに陰湿である。
「いろいろあって、ひとつの街にあまり長くいなかったからかな」
しかし、瀬尾さんの口から零れ出たのは、意外な答えで、俺はつい拍子抜けしておかずを喉につまらせかける。
「そうなんだ。お父さん、転勤多い人?」
そういえば、この街にも三ヶ月しかいないと言っていた。父親は転勤族なのかもしれない。いつの間にか、全神経を耳に集中させながら食事をおろそかにしていると、右肩を叩かれた。
「わっ」
「何が、わっ、だよ」
あまりにも不意を突かれすぎて、俺は情けなくもお尻を一センチほど椅子から浮かせてしまった。呆れたような声のほうを振り返ると、同じ生物部の友人がやはり呆れたような顔をしてとなり、現在は空いている瀬尾さんの席に座るところだった。
「何だよ」
「ていうか、女子の会話を盗み聞きとはおぬし不届きだな」
にたにたと気味の悪い笑みを顔に浮かべながら、
「何の用だってば」
「何って、友達に声をかけるのに用事が必要なのか。せちがらい繁田だな」
「……」
瓶の底みたいな分厚い眼鏡を押し上げて、彼はスマホを取り出して揺らした。
「お前が言ったんだろ、生物部に転入生を勧誘したって」
「あ」
そうだ。瀬尾さんを勧誘したあと、俺は生物部のグループトークに、その旨を送信したのだった。いきなり連れて行っても皆驚くかと思い先がけて言っておいたのである。
「そうだった」
「で、どいつ?」
後藤の視線が、教室の前のほうで固まって黒板に落書きをしている男子のほうに流れる。ああ、男だと勘違いしているのか。俺は、ちょっと鼻を高くしながら、こっそりと、親指で瀬尾さんのほうを示す。
「あの子」
レンズの奥の瞳が訝しげに窓際に移動して、それから固まる。数秒黙ってから、彼は俺のむこうずねを軽く蹴り飛ばした。
「いてっ」
「男じゃねえのかよ」
「瀬尾希。正真正銘女子だよ」
「お前馬鹿かよ! 俺たちが女の子の扱いに慣れてないオタク集団であることを忘れたか? しかもあんな可愛い女の子を…………可愛い……」
文句が途中で感嘆になる。
うちのクラスにやってきた転入生のことは、学年内でもわりと話題になっていると、一華が教えてくれたが、やはりスクールカースト下位にいる情報に疎い俺の友人は、転入生の詳細にはたどりつけていなかったようだ。
ほう、と瀬尾さんに見とれている後藤のむこうずねを、今度は俺が蹴飛ばす。
「あんまり見るなよ、お前みたいな見た目にも地味なガリガリくんがあんまり見てると、気味悪がられるぞ」
「悪口はもっとまろやかに言え」
俺に負けず劣らず、地味な外見で細い身体つきの後藤は、むこうずねをさすりながら恨めしげに言う。
まろやかに、と考えているうちに、彼が立ち上がり、俺の額に人差し指を突きつけた。
「掃き溜めに鶴」
「は?」
「じゃあな。今日のミーティングばっくれるなよ」
後藤が教室を去ってからしばらく考える。掃き溜めに鶴ってなんだっけ、と。
その言葉が、オタク集団である生物部に入部する瀬尾さんのことをまろやかに示しているのだと気づく頃には、弁当を食べきらないまま午後の授業の予鈴が鳴っていた。
食べ損ねた弁当をすごすごと巾着にしまいながら、俺は空腹を抱えつつ午後の授業中ずっと後藤を呪っていた。
◆
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