第6話 死者は戻らない

 久しぶりに、あの地下室以外で彼に会う。バスを降りて住宅街に入るところで、ばったり出くわす。沈みかけた太陽光の下で見るおじさんは、五年前の記憶からずいぶん白く細くなったような気がする。


「あれ、こんにちは」

「ああ。こんにちは」


 そのまま、無言でどちらからともなく歩きだす。おじさんは、両手にたくさんの荷物を抱えていて、スーパーの袋のようなので駅前のでかいスーパーに行ってきたのだと分かった。


「買い物?」

「うん、研究の材料をね」

「……」


 気がふさぐ。この間の一華の激昂を見ていただけに、あれだけ娘が反対してもまだ研究を続けるというその姿勢や、まるで言葉が響いていないような態度に。

「そうだ、この間僕、ホムンクルスの生成に成功したじゃない?」

 いや、だから、あれは事故で、おじさんはホムンクルスのホの字も生成できてないんだってば。

 そう言いたかったものの、彼は続けざまに言葉を繰り出して、俺に反論する隙を与えなかった。よく動く口である。


「割れたビーカーのそばに赤い宝石みたいな石が残っていて……あれがいわゆる賢者の石ってやつなのかなあ」

「賢者の石……」


 はっきり言おう、おじさんは漫画の読みすぎアニメの見すぎ映画の見すぎ、ひいては小説の読みすぎである。


「人間のかたちをしたものはすぐに消えてしまったけど、あの石が残っていたというのは大きな希望だなあ、とてもきれいだから今度泰司くんにも見せてあげるよ、ルビーよりちょっと透明度が低くてでも丸くてきれいな石なんだ、まるで血を固めたみたいで何時間でも眺めていられるんだ……」


 血液を固めたような石ころを何時間でも眺めていられるって、頭がおかしいとしか思えない。

 それに、最近元気がない一華の様子を思い出して、俺もいい加減うんざりする。石ころを何時間も見つめている暇があるならば。


「おじさん、一華に悪いと思わないの」

「え?」

「こんなこと言いたくないけど、おばさんはいなくなってしまったけど、一華はまだここにいるんだから、一華のほうを優先してやるべきなんじゃないの」


 おじさんが歩みを止める。足に袋が当たってがさりと音を立てた。中身をほんのわずかに覗くと、焼きミョウバンの文字がうっすら透けて見えた。ミョウバンでミョウバン結晶以外に何ができるんだよ。と思いつつ、彼の動向を見守る。

 少し考えるように黙してから、彼は重たく見える口を割った。


「泰司くんには、分からないかな」


 かっとなった。一華よりも、死んだおばさんのほうが大事であるという感覚が分からないのか、そう言われたも同然だった。


「いい加減にしなよ!」


 俺みたいなモヤシ高校生が怒鳴りつけたって、曇ったビー玉のような瞳はぴくりとも揺らがない。俺の言葉くらいでは、彼を動かすことなんてできない。それでも、一華のために何かしたい、そんな思いはひるむわけもない。


「ミョウバンで人間なんかつくれっこないよ! ていうか、人間なんかどうやってもつくれないんだよ! 死んだ人間は蘇らないんだよ! もう、目を覚ましなよ!」


 声が、響いているんだかいないんだかまるで分からないガラス玉が不意に動いて俺の背後を見た。つられて振り返ると、そこに立っていたのは意外な人物だった。


「……瀬尾さん」


 立ち姿も凛と涼やかで、まるでそこだけ世界が違う場所であるかのようだった。瀬尾さんは小首を傾げて近づいてきた。


「怒鳴り声がしたから気になって」

「ご、ごめん」


 そこで初めて、近所迷惑だったかもしれない可能性に気づいて口元を押さえた。彼女は、またもあの笑顔を浮かべて突っ込んだ質問をぶつけてきた。


「死んだ人間を蘇らせたいんだ?」

「いや……」


 馬鹿にされる、と思って苦々しく表情を歪めると、意外にも瀬尾さんは真面目な顔で呟いた。


「蘇らせても、きっとずっと一緒にはいられない」

「え?」


 何を言われたのかよく分からず思わず目を見ると、黒々と濡れた瞳は、切実な表情を浮かべていた。まるで目の前の男が何をしようとしているのか仔細に知っているかのように、薄暗くて、冷たい色を。


「ミョウバンにも、賞味期限があるでしょ。せっかく人間をつくりだしたところで、その賞味期限以上は生きられないと思うけど」


 頭の中で、賞味期限を迎えたホムンクルスが、まだ動けるのにどんどん身体の先端から腐り落ちかびていく光景が再生される。どろどろの肉になってもまだうごめいているホムンクルスは、ゾンビみたいで気味が悪かった。


「きみは、泰司くんのお友達?」


 げっそりとこけた頬を持ち上げて、おじさんは薄い笑みを浮かべた。一応外面を取り繕うだけの社交性は失っていないようだ。瀬尾さんはにっこり笑って首を振る。


「いいえ。ただのクラスメイトです」


 ここでそういう訂正が入るあたり、女子集団相手に派手にぶちかました光景が思い出される。

 俺の怒鳴り声を聞いてやってきたということは、この近所に住んでいるのか、このあたりに用事があったのかは定かでないが、おそらく俺が乗った一本あとのバスに乗って同じバス停で降りたのだろう。場を持たせるために、そのままそれを口に出す。


「瀬尾さん、家このあたりなんだ」

「まあ、そうだね」


 曖昧な答えだが、朝の女子とのやり取りを見ていて、俺に簡単に家を教えてくれはしないだろうと納得してふうんと頷く。おじさんは、重たかったのか地面に下ろしていた荷物を提げ直し、家のほうに向かっていく。


「じゃあ、僕はこれで」

「あ、おじさん。俺の言うこと分かってくれたの」

「分かったよ。賞味期限がないような化学薬品でつくればいいんだろう」


 全然分かっていない。瀬尾さんの言ったことの、都合のいいところしか聞こえていないじゃないか。

 もう頭が痛くなって、その衝動に逆らわず額を押さえる。遠ざかっていくおじさんの背中に、瀬尾さんが呟く。


「あの人は、死者を蘇らせたいの?」

「ええと……」


 一華の家の事情を、話してしまってよいものか相当悩む。女子との応酬からも、彼女が誰かに告げ口するとは考えにくいが、今はそんなことは大した問題ではない。要は、一華が知られたいか知られたくないかということだ。とは言え、このあたり一帯の家々にはもう変人研究者としての印象が定着してしまって一華はだいぶ肩身の狭い思いをしているし、あまり変わらないかもしれない。いや、しかし。

 俺が言いあぐんでいるのをどう取ったか分からないが、瀬尾さんが少しだけ眉を寄せる。


「まあ、きっとデリケートな問題だろうし、深くは聞かないけど」


 そうしてくれると助かる。


「でも、ひとつだけ言っておく」


 なんでしょうか。


「賞味期限と、消費期限は別物だよ」

「は?」


 まるで意味の分からない、主婦のような忠告に思わず顔を上げた。彼女は至極真面目な顔をしている。


「そのままの意味だよ。賞味期限は、その食べ物を美味しく食べられる期限。消費期限は、衛生的に食べられなくなってしまう期限」

「そ、れが、何?」


 どもり気味に、口を挟む。なんとなく、瀬尾さんといると落ち着かない。朝のような心臓を煮え湯に突っ込まれる感覚はおさまったものの、一日となりであのハーブの香りを嗅いでいると、自分がまるで場違いな場所にいる、たとえば名前も知らない親戚の家のリビングでひとりでお菓子をもらっているような、そんな感覚に陥る。この気持ちがなんであるのか、俺にはよく分からないけど、とにかくなんだか、彼女に好意的な印象はどうも抱けなかった。


「つまり、人間を期限付きの材料でつくると、賞味期限がきて次に消費期限がきて、最終的にどうなると思う?」

「……すごいことになりそう?」

「うん。賞味期限が切れるとうつくしさを保っていられなくなるけど、消費期限が切れると……」

「……死ぬ?」

「そう」


 腐るのにも段階があるということか。しかし、それにしても瀬尾さんはなぜそんなことに詳しいのだろう。もちろん人間を生成するなど不可能なので、きっとこれも彼女の推測にすぎないのだろうが。


「今の人……、わたしのこと覚えていないのかな」

「え? 知り合い?」

「まあ、ちょっと。お父さんの仕事の関係で」

「……お父さん、何してる人なの?」


 聞いても無駄だと、なんとなく分かっていながら問いかける。案の定、彼女は例のミステリアスな笑みを浮かべただけで、答えてはくれなかった。

 彼はまともに仕事をしているわけではない(不動産の管理と言っても、外部にほとんど任せているらしい)ので、いったい瀬尾さんのお父さんがどんな仕事をしていて、どういうかかわりがあるのかはほんとうに不明だが、瀬尾さんには彼の記憶があるらしい。あまり他人に興味がなさそうだし、たぶん瀬尾さんでなくとも忘れられているとは思うが。


「……」

 そのまま、会話が続かなくなってしまい、なんとなくふたりで立ち尽くす。斜陽が伸びてきて、日が暮れかけていることを教えてくれる。痛々しい沈黙をどうしようかと持て余して、俺は余計なことを言った。


「な、なんか、錬金術に詳しいんだね」

「錬金術?」

「さっきの、おじさん」

「ああ、あれ錬金術なんだ」


 あっけらかんとそう言われ、肩透かしを食らった気持ちになる。


「知ってて話してたんじゃないの?」

「人間をつくるのは、……そうか、言われてみれば錬金術だね」


 一歩、瀬尾さんが歩き出す。それに続いてなんとなく足を動かしながら、バス停のほうに向かっているのが分かる。ぎくしゃくととなりを歩いていると、瀬尾さんは住宅街の路地の入口でこちらをくるりと振り向いた。


「じゃあ、錬金術師によろしく。また明日」

「あ、うん。またね」


 送って行くよ、と言えればよかったけど、家を知られたくなさそうだし断られるかも、と思うとどうしても言い出せなかった。俺は、対人関係についてとても臆病である。

 踵を返して家に向かう道すがら、俺は不意に思いつく。

 瀬尾さんといる時の居心地の悪さは、夢を語るおじさんとそれを諌める一華に板挟みにされた時の居心地の悪さに似ている。


 ◆

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