第4話 ママは死んだの

 長いようで短いゴールデンウィークが明ける。完全に休みに慣れ切った重たい身体を引きずって学校に向かうと、朝練で俺より早く出発していた一華が近寄ってきた。


「おはよう、泰司」

「おはよ」


 道中装着していたヘッドホンを外しながら応える。自分のクラスに向かうために階段に向かうのについてきながら、一華はこれみよがしにうめき声を上げた。


「なんだよ」

「パパがさあ」


 また錬金術師の話か。先日あんなものを見せられたばかりだったので気がふさぐ。眉を寄せて、どうせまた、研究の成果を見せたいからうちに来い、という話が始まるんだろう、と身構えたが一華が口にしたのは俺の予想とは少し内容が違った。


「ゴールデンウィーク中、たぶん一歩も研究室から出て来てなくて」

「え、マジ?」

「あたし部活とかあったからさだかではないけど。でも、たぶん」


 今までも、天岩戸よろしく地下室の扉を閉ざすことはよくあったが、八連休もあったゴールデンウィーク中となると最長記録を更新したのではないか。ほんの少しではあるが動揺し心配そうな様子を見せている一華に、同情の顔をつくって見せてから、俺も考える。

 一週間以上もあの部屋にこもるなんて正気の沙汰じゃない、俺だったら狂ってしまう。いや、もう、おじさんはだいぶ狂っている部類に入ると思うんだけども、今はそんなことをあげつらっている場合ではない。業務用冷蔵庫に実験用の材料と一緒に何らかの食料は入っていたのだろうとは思うが、一週間も地下室を出ないで何をやると言うのだ。


「あたし怖くて確認してないけど、まさか事故とか起こってないよねえ」


 大いにあり得る。と密かに思う。どうやって集めたのだか分からない最先端科学技術のかたまりのようなあの部屋は、危険なものなど掃いて捨てるほどあるだろう。薬品も、器具も、すべてが危ない気がする。もしあの密室でいわゆる混ぜるな危険的な物質同士を混ぜてしまっていたら。


「ちょっと、俺帰りに一華の家寄ってくよ」

「いいの?」

「うん、見に行く」

「ありがとう」


 ほっとしたように、一華がため息をつく。不安に思いつつも自分で確かめに行くのはどうしても気が引けたのだろう。


「心配だったんだけど、どうしても嫌で……」


 はにかんだ彼女は、父親が母親を蘇らせようとしていることに嫌悪感を覚えているのだ。以前告白してくれたのは、何をしたってママはもう戻ってこないのだから後ろばかり見てうじうじするパパを見たくない、というような内容だった。その気持ちは、なんとなく分かる。自分の父親がそうして現実逃避しているのなんか、見たくはない。俺だって、反抗期を抜けて、毎日家族のために働いたり家事をしている両親って偉大な存在だなと思うようになったし、一華にとって彼がどんな存在だったかはいざ知らず、やはり親のそういう情けない姿を見たくないと思うのはこどもとして当然の思いだ。

 とは言え、どうせ今日も彼は地下室で熱心にホムンクルスをつくっているのだろう。大したことはないに違いない、と九割がた楽観視しながら放課後を迎える。

 部活を休んで俺とともに帰宅する一華は、やはりどこか浮き足立っている。そんな彼女を励ますように、俺はどうでもいいような世間話を繰り出す。次第に、一華もぎこちないながらも話に乗ってきてくれて、乗車したバスは俺たちをバス停で吐き出した。バス停から俺たちの家がある区画までの道のりを、わずかに沈黙しながら歩く。九割、いや九割九分九厘大丈夫と思ってはいても、さすがに緊張してくる。いつものように呼び出されてしぶしぶ向かうのとは違う。


「……あれ?」

「どうした」


 門扉をくぐり、玄関の鍵を開けようとして一華が首を傾げる。


「朝、鍵を閉めて行ったはずなんだけど」


 ドアを開ける。広い室内に特に変わった様子はなく、泥棒とかではないことがうかがえて、なんだ、と思う。なんだやっぱりおじさんどうってことなかったんだよ、今日外に出たんだよ。

 一華もそう思ったらしく、ほんのりと表情がやわらいだ。


「とりあえず、様子だけ見てくるな」

「うん」


 地下室へ続く扉は開け放たれていた。いつもならこんなことはない、と若干不審に思いつつ、それを一華には言わずに階段を下りていく。一段一段下がっていくごとに、鼻の辺りを掠める焦げ臭さ。嫌な予感を背中にしょいつつ、階段を下り切って、絶句した。

 まるで何かが爆発したように、ものが散乱している。割れたビーカーの破片を踏まないように、すり足で少し進む。そして、部屋の中央で、おじさんがあおむけになって倒れているのを見つけた。


「おじさん!」


 慌てて駆け寄る。レポート用紙を踏んで滑りそうになった。おじさんの傍らに膝をついて様子をうかがう。曇ったガラス玉のような目は閉じられていて、表情は穏やかだ。白衣が煤けて汚れているが、どうやら目立った外傷はなさそうである。肩を揺さぶる。


「おじさん、おじさん」

「う、ううん」


 うめいて、ふと目が開いた。ほっとして抱え起こすと、訳も分からぬままに座り込んだ様子だった彼の意識がだんだんと明瞭になっていっているのが手に取るように分かった。そして、はっと目を見開いた。


「泰司くん、ホムンクルスは?」

「へ?」

「完成したんだ、ついに僕はホムンクルスを」

「おじさん、落ち着いてよ、そんなものどこにもないから」

「なんだって?」


 室内を見回しながら、おじさんは唖然としている。そんなことより。


「何があったの? どうしてこんな散らかってるの? おじさん、体調は大丈夫?」

「ま、待ってくれ……僕はたしかにホムンクルスと……」


 ひとしきり室内を見回し、いつもの肉片がないことにようやく気がついたのか、おじさんはがっくりと肩を落とした。とにかく、彼が落ち着いたら詳しく事情を聞いて、このひどい有り様の部屋も片づけなければ。ガラス片も散乱していて、危ない。

 ゆっくりと、呆然としているおじさんを抱えて助け上げ、地下室の階段を上る。俺の叫び声が聞こえていたのか、一華がドアの隙間から揺れる瞳で様子をうかがっていた。


「なんか、たぶん実験の途中で事故があったみたいで、気絶してたんだ。大丈夫だとは思うけど、病院で検査を受けたほうがいいかも」

「そうなの」


 俺の肩を借りてまだぼんやりとしているおじさんを見て、一華は痛ましげに眉をひそめた。が、すぐに表情を引き締めて怒ったようなものにすり替える。


「パパ、いい加減にして。泰司にも迷惑かけて、恥ずかしくないの?」

「ホムンクルスはどこへ行ったんだ……?」


 まだ言っている。一華は、ほむんくるす、と完全にひらがなで発音したのちに、かっとそのはつらつと日焼けした頬でも分かるくらいに顔を赤く染めた。


「いい加減にしてよ! いつまでそんな馬鹿みたいなことしてるの? ママは死んだの!」


 ママは死んだの。その一言が、廊下に重たい空気を立ち込めさせた。重苦しい沈黙を破ったのは、おじさんだった。


「でもこの研究が成功すれば、真弓は帰ってくるよ」


 一華の目元に力がこもる。俺はどうにも居心地が悪くなって、うつむいた。

 一華がかたくなに地下室から目を逸らすのは、何も父親の無様な姿を見たくないからだけが理由ではない。真弓おばさんの死と向き合わないおじさんを見ていると、たぶんほんとうに、母親がいつか帰ってくるのではないかと錯覚してしまうからなのだ。

 生きている人間は、そんな甘い錯覚を起こしてはならない。

 ここでおじさんに一喝くらいできれば格好よかったかも分からないが、結局俺は、気まずい凍りついた空気に耐え切れず、まだ身体に力の入り切っていないおじさんを地下室の入口に放置して、そそくさと棚田家をあとにした。とんだ腰抜けである。

 こわばった表情のままの一華に曖昧に挨拶をして門扉まで出たところで、ふと疑問が胸を掠めた。

 おじさんがあそこでずっと気絶していたというのなら、いったい誰が家のドアの鍵を開錠し、地下室のドアを開け放っていたのだろう。

 しかし、そんな疑問はすぐに解決する。彼が外出のあとで何らかの事故に巻き込まれた可能性だって、じゅうぶんにあるじゃないか。


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