第3話 肉食べたくない

 背もたれのない丸椅子にどっしりと腰掛けて、理科室の実験台みたいな素材のテーブルに腕を組み顎を乗せる。目の前には、ほかほかと湯気を立てる紅茶、が入ったビーカーと、美味しそうなクッキー、があけられたバット。


「おじさん、まだ?」


 答えはない。どこからともなく臭う、タンパク質が焦げたような異臭に鼻を曲げつつ、髪の毛に手を入れてがしがしと掻く。

 今頃この部屋の上の風呂場では一華が素っ裸になってシャワーを浴びている。着衣でシャワーを浴びる馬鹿がどこにいるのだという難癖はいらない、最重要項目は、一華が裸になっている、ということだった。こんなところで研究の成果とやらを見せびらかされている場合ではないのである。とっとと、バスルームのとなりのキッチンに用事があるふりでラッキースケベを狙いに行く好機だと言うのに、なぜ俺は。

 それにしても、と研究室兼実験室になっている地下室を見回す。錬金術と聞いて誰もが思い浮かべるような、かまどがあったり物を煮るための壺があったり、大量の書物があったり、何らかの物質が液体に浮いている瓶詰が棚に並んでいたり、ということはない。近代的な、刑事ドラマで見るような遺体を解剖して調べる部屋と言ったほうがしっくりくる、清潔そうで整然とした部屋である。

 なんせ、有り余る富をお持ちの彼は、こうした設備を充実化させることには金に糸目をつけなかったらしい。妻を蘇らせるためならこれくらいの先行投資痛くもかゆくもないわ、と言ったところか。

 そう、彼の研究は、十二世紀ごろにイスラム世界からヨーロッパに伝わった錬金術とは、少し違う。言ってしまえば、現代の錬金術、だ。

 もちろん株とか転売でお金を増やすことではない。

 最新の設備をととのえ、最先端の技術を揃え、死んだ人間を再生しようとしているのである。やっていることはもはや錬金術と言うより、クローンとか人工授精とかそういうふうなものに近い気がする。なんと言っても、錬金術には死者を蘇らせるという技術は含まれていないのだから。

 ただ彼がこれを錬金術と呼ぶので、俺もそう呼んでいるだけの話だ。漫画の読みすぎである。


「泰司くん」

「うわっ」


 何に使うのかよく分からない器具をふんわりと見つめていると、背後から不意に声をかけられてひっくり返りそうになる。慌てて振り向くと、どんよりとした瞳と目が合って背筋がすうと冷えた。

 一華の母親が亡くなる前から、彼は遊びに来ればだいたい家にいたし顔馴染みだったけども、どうも掴みどころのない飄々とした感じだけは苦手だった。それに奥さんを亡くしてからの曇ったビー玉のような瞳が追加され、不気味さは増す。どこを見ているんだかよく分からない、焦点が合っていないふうな瞳と何とか目を合わせ、首を傾げて見せる。


「なに?」

「ほら、見てくれ」


 彼の手元を見る。秒速で後悔する。見なきゃよかった。

 鶏の首を絞めたような悲鳴が喉から絞り出される。彼が持っていた金属製のバットの上に広げられていたのは、たぶんゴールデンタイムのテレビでは絶対にモザイクなしでは放送できない、いや深夜帯でも無理だろう、そんなおどろおどろしい肉塊だった。なんとなく人のかたちをしているところがこれまた悔しいくらいに気持ち悪いし、ところどころ赤い液体がこびりついているのは何なのか考えるのをやめたい。

 そして同時に、自分がさっきまでかじっていたクッキーが何に乗っていたのかを思い出して、吐き気もしてくる。もちろん毎回実験器具は煮沸消毒されているとは知りつつも、精神衛生上よいわけがない。


「かなり、ホムンクルスに近づいていると思うんだ」

「そ、そうだね……」

「でも、ホムンクルスはまだスタート地点だからね、そこから真弓まゆみを再生する技術を確立しないと」

「そう、だね……」


 真弓とは言わずもがな、彼の亡き奥方である。

 ああ、とため息をつき天を仰ぎたくなる。一歩違えれば俺は今上階の風呂場でラッキースケベの可能性とニアミスだったというのに、どうしてこんな肉塊相手にクッキーをつまんでいるのだ。

 だいたい、こんなぽっと出の研究者の風上にも置けないようなおじさんが簡単に人体を生成できちゃったら、世の研究者たちはとんだ赤っ恥である。羊のクローンに四苦八苦しているのに、こんな変で駄目なおじさんがあっさりと死んだ人間を蘇らせてしまったら、とてもじゃないが恥ずかしくて、俺なら翌日からマスクとサングラスとウィッグなしでは外を歩けない。

 そう、死者を蘇らせるなど、どだい無理な話なのである。こんな、最新技術の粋を集めた科捜研もびっくりの施設で研究しようとも、無理なものは無理なのだ。だいたい、揃っているものが最先端なくせにやっていることが十二世紀すぎて、こういうのをまさしく宝の持ち腐れと言うのではないか。


「真弓はほんとうに、僕にはもったいないくらいによくできた人間でね、あれを再生しないというのは人として何かがおかしいと思うよ、そもそもあんな道半ばで倒れていい人じゃなかったんだ、彼女を亡くしたこの世界の損失は計り知れない、あんなにうつくしくて繊細でそれでいて妙に大胆な造形の人間はそういないね、さらには優しく聡明で料理上手ときた、それに一華にもまだまだ母親が必要だ、男親というのはどうもいけない、配慮ができないし距離も測りかねるんだ、そういえば泰司くん一華ともうキスした? 真弓がいない世界なんてパイナップルの入ってない酢豚みたいなもの、ミントが添えられていないジェラートみたいなもの!」


 どっちも大して重要性が分からん上に俺は酢豚にパイナップルを入れるのは邪道だと思っている。

 とうとうと聞かされるのろけ話の途中で何だか不穏な問いかけがあったことはあえて無視して、立ち上がる。


「とりあえず……もうすぐ夕飯の時間だし、俺帰るね」

「ついでだ、うちで食べて行きなよ」


 何のついでだ、俺はもう一刻も早くここを出たいのだが。

 実験室を出る俺について歩きながら、彼は上機嫌に小躍りしながら話しだす。


「研究も一区切りついたし、久しぶりに一華とごはんを食べよう」

「……最近はどこで食べてたの?」

「三日ほど実験室にこもりきりだったよ」


 何を食べていたのかは聞かないでおこう、と言うより怖くて聞けない。地上につながる階段を上ってドアを開ける。リビングに続く広い廊下に出た。


「一華、いるんだろう、今日は泰司くんも一緒に夕飯を食べるから」

「え?」


 リビングのドアが開き、一華が顔だけ出した。水泳教室帰りの小学生がかぶっているようなタオルキャップをかぶっている。


「そうなの? 泰司、何食べたい?」

「……野菜」

「肉は?」

「いや、そういう気分じゃない」


 あんなものを見せられたあとで肉、特に牛などの赤身肉を食べられる人間はそうそういない。


「僕は馬刺しが食べたいなあ」


 となりで信じられないリクエストをしている男を睨みつけ、リビングに滑り込む。詰めていた息を一気に吐き出して、俺は一華のほうを見た。


「肉にするならよく火を通したやつを…………」

「何?」


 一華は、そのほっそりとしたしなやかな身体にぴたりと貼りつくような、タンクトップと短パン姿だった。すらりと伸びた足もさることながら、バストからウエストにかけてのS字のくびれが大変にうつくしい。


「と、とにかく生肉はいやだ」

「生肉がいいと言われてもそんなものは最初から用意してないけどね」


 アイランドキッチンの冷蔵庫に顔を突っ込みながら、一華は唸っていろいろと材料を引っ張り出す。基本的に、棚田たなだ家の家事は真弓おばさんが亡くなってから一華が引き受けている。もちろん、小学五年生の女の子が、掃除洗濯はまだしも料理をマスターするのには時間がかかる。つい最近ようやくなんとなくそれらしくなった、というふうな感じだ。


「鶏もも肉と豚のロースだったらどっちがいい?」

「……ロースで」


 ロースはだいたいの確率で豚カツになるだろう、あれを目の当たりにしたあとで鶏もも肉のソテーだとかを食べるのは気が引ける。衣がついているほうがまだなんだか嫌悪感は薄らぐような気はする。あくまで気持ちの問題で、どちらも大差はないのだが。というか肉料理必須なのか、肉を食べないという選択肢はないのか。

 そうして、おじさんが豚カツを食べながら真っ赤なワインを口に運ぶという狂気の沙汰としか言いようのない絵面を見せられた俺は、喉を通る豚の肉の食感を必要以上に意識して全身に鳥肌を立てながら、どうにかこうにか食事を終えた。

 たぶん一華は、おじさんが地下でいったいどんなことをやっているのかまったく知らないから、平気なのだろう。もし知ったらたぶん、彼女は俺以上に肉料理に拒否反応を示す気がする。なんせ、水族館で優雅に泳ぐ魚たちを見た日の夕飯にサンマの塩焼きが出てきて悲しくて泣くようなこどもだったのだから。

 水族館によっては食育も兼ねて、自分で釣った魚を調理してしまうアクティビティもあるらしいが、少なくとも一華と俺が連れて行ってもらったところではそんなことはやっていなかった。

 それにしたって水族館に出かけた日の夕飯が魚料理というのも、おばさんはおばさんでけっこうな変わり者だったかもしれない。

 あの頃、小学校低学年から中学年にかけて、おばさんにはよく、一華とともにいろんなところへ連れて行ってもらった。水族館や動物園、こども向けアニメの映画やテーマパーク。それは当然俺の母親や妹のふみちゃんも一緒に、だったはずなのだが、なぜかおばさんが微笑んで俺の頬についたソフトクリームを拭うようなことばかり、思い出す。

 望まない満腹を抱え、俺は帰宅する。ふみちゃんがリビングのソファに沈み込んでスマホをいじくりまわしている。そのフリック入力の速さと言ったら、ほんとうに人間の指の動きなのかと問い詰めたくなるくらいに高速だ。そんなに早くメッセージを入力して、何を伝え合っているのやらである。


「あ、お兄ちゃん」


 気分がすぐれないのでとっとと部屋で横になろうとしているところに声をかけられる。振り向くと、スマホの画面から一切目を離さず指の動きも止めないままに喋り出す。お前の脳みその処理能力はどうなっているのだ。


「お兄ちゃんの部屋の漫画何冊か借りて私の部屋にあるから」

「おう……」

「てか本棚新しく増やしたほうがよくない? 今にも溢れそうじゃん」

「うん、そうだな……」


 女は一度に複数のことができる、とかいう迷信のようなほんとうのようなことをよく聞くが、少なくともふみちゃんに関してはそれが当てはまる。俺に言葉を投げつけながらほかの友達と仲良く文字でやり取りできる。お前は聖徳太子なのか。

 とぼとぼと階段を上って自室に戻ると、明らかに「何冊か借りて」いる状態じゃないくらいに本棚にぽっかりと穴が開いている。ごっそり持っていかれている。なくなっている漫画が何であるか、チェックしながらため息をつく。

 何て言うか、あの物体は脳裏にべったりと貼りつく。人間、自分に都合の悪いことはなかなか忘れられないものなのかもしれない。そして、少し記憶が薄れた頃に再び記憶を掻き混ぜて引っ張り上げて、そのうち強固な記憶にしてしまうのだ。絶対に忘れられない状態に持っていってしまうのだ。俺の頭の中には、今までに見せられた肉片たちがところ狭しと並んでいる。ああ、忘れたい。忘れたいのに忘れられない。


 ◆

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