黄色い風船

篠宮りさ

黄色い風船

 風船をもらった。何年ぶりだろうか、子供に混じって風船を手にする自分の姿は、思っている以上に滑稽だろう。実際、すれ違う人のほとんどは私を振り返って見る。一人で来るんじゃなかった、誰か友達を連れていればまだ冗談だと思ってくれただろうに。私の顔は赤くなっているはずだ。私はぷかぷか浮かぶ風船を捕まえて小脇に抱える。これならまだ目立たないだろう、と。しかし当の風船はまるで知らん顔をして、その黄色いからだを窮屈そうに、ある意味楽しそうに、キュッキュと音を鳴らしている。手で持った紐は手持無沙汰そうに私の手に巻かれている。本当は鞄の中に入れたいのだがそれはできない。今日に限って学校でつくった粘土細工を持って帰ってきているのだ。私としては少し気に入っているので、むやみに触れて壊してしまいたくない。袋か何かを貰っておけばよかったと少し後悔しながら代替案を考えるが、浮かばないので結局今の状態でまた帰路に就く。今日の日記は少し長くなりそうである。

 予想に反し風船は一週間経っても割れなかった。いつまでたってもその若々しい艶めきをほしいままにしている。仕方がないので部屋の隅に浮かべているのだが、風船が放つ存在感は通常のそれではない。まるで上からこちらを見つめるように少しも動かない。反して、少し窓を開けると風に吹かれてすぐに反対側の角に飛ばされてしまう無力な一面もある。それでも僕は弱くはないぞとばかりにつやつや光る黄色い物体は一種の生き物のようである。下から紐をつんと引っ張ると風船もつんと動いて揺れる。私はそのまま紐を引いて風船を引き寄せる。少し考えてマジックで顔を書くことにした。風船に顔がないのを少し不憫に思ったからだ。しかし私には絵心がないので、へのへのもへじと文字を書く。すると左に目を寄せた表情が出来上がった。これではしかめっ面のままである、私は少し後悔して、風船にごめんと謝った。

 風船との生活が始まった、朝起きると左端に黄色い彼がおはようと言わんばかりに視界に飛び込んでくる。弾けるようなまっ黄色の風船を見るとゆっくり頭が冴えてくる。むくりと起き上がるとちょうど顔の前に紐があるので、私はつんつんと紐を軽く引っ張る。すると風船も少しだけ遅れてつんつんと返事をしてくれる。私は着替えて学校に行くが、風船は留守番だ。きっと退屈だろうとは思うが仕方がない。帰ってくるとまた、つんつんと紐を引っ張って知らせるようにしている。ただいま。お帰り、そのやりとりが日課になった。夕方五時頃は特に風船の輝く時間だった。夕日を浴びて濃いオレンジに照らされる風船は一日の中で一番楽しそうだった。まるでその瞬間のために毎日そのからだを光らせているようだった。私は紐を少し手に巻いて、風船が存分に日を浴びることができるよう手助けをした、風船は風に揺られてゆらゆらと揺れながらその陽を浴びることに集中していた。私と風船の無言の時間だった。日が沈むと私たちはそれぞれまた活動を開始した、私は晩ご飯を食べに行き、風船はいつもの角に戻る。私が風呂に入り歯を磨いて部屋に戻ると、風船は眠そうに私を出迎えるのだった。もう寝よう、つん、と風船とおやすみを交わすと、また私たちは今日を終える。

 その日私は悪い夢を見た。たくさんの大人が私を罵り、追いかける。私は必死になって逃げまわるが大人には敵わず、すぐに追いつかれ羽交い絞めにされる。捕まえたぞ、学校に来い。勉強するぞ。学校に行くとなぜか母が居て、私は疲れているのにどうして家事のひとつもできないの。出来損ない。塾の先生が後ろから私の頭を教科書で思いっきりはたき、こんな問題もできないなんて、お前、落ちるぞ。そんな様子をクラスメイトは席に着いたまま顔だけをこちらに向けて笑う、落ちこぼれ。落ちこぼれ。落ちこぼれ。落ちこぼれ。

 はっと目を開けた。背中が湿り、目からは涙がこぼれていた。暗闇の中で私は風船の紐を手で探った。しかしいつまで経っても私は空を掴むばかりだった。電気をつけると、部屋の隅に黄色い切れ端がタコ糸と共にいくつか落ちているのが見えた。拾い上げると、それは以前より少し色が濃くなっており、鮮やかな山吹色に見えた。

 君本当はこんな色だったんだね、と私は言った。落書きされたゴムの切れ端は、それに応えなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黄色い風船 篠宮りさ @risa0621

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ