第266話

 煮込みの美味しそうな匂いが鼻につく。せっかくの料理が、こんな状態になったのにムッとしたと同時に。


「ぎゃぁぁっ!?」


 甲高い声がフロアに響き、その声を発した相手に慌てて目を向ける。

 従者の私が料理を取ろうとしているのが気に入らなかったのだろうか。私の肩をつかんだのは、年のころは十三、四歳くらいの立派な服を着た、少しばかり肉付きのいい男の子だった。格好からして、貴族なのだろう。

 その男の子の右手が……燃え上がっている。


「やめて」


 状況をすぐに理解した私は、押し殺した声でそう言うと、炎はすぐに治まった。護衛の火の精霊王様、やりすぎですよ。

 相手は子供。殺意のない、悪意……ともいえない、単に偉そうに権威を振りかざしただけなのだろう。でも、護衛たる精霊王様にしてみれば、安易に私が転ばされたわけで、許せなかったのかもしれない。それでも、だいぶ手加減してくれてると思う。普通なら全身丸焼け、骨すら残らないだろうに、私をつかんだ右手だけ、それも皮膚の火傷程度なのだから。

 赤く焼け爛れた皮膚の匂いが、せっかくの美味しそうな匂いを完全に打ち消している。子供のぎゃぁぎゃぁと泣き叫ぶ声は止まらない。

 周囲の目が私を突き刺すように見つめるけど、悪いのは私じゃないし。

 ゆっくりと立ち上がってから、自分の胸元と床に目を向ける。『クリーン』の魔法をかければ染みが残らないだろうけど、気持ちの方は、げんなりしてしまうのは否めない。


「どうしたというのだっ」


 いきなり別の怒鳴り声が聞こえてきた。人ごみをかきわけて現れたのは、見るからにアレの親だとわかる、同じように肉付きのいい(いや、むしろブタ)中年の貴族の男。


「パパァ!!!」


 男が十三、四にもなって、パパ呼びかい。

 泣き喚く男の子を抱きしめ、私を睨みつける男に、私の方も冷ややかな目を向ける。


「これは、お前がやったのか」

「いいえ」


 やったのは火の精霊王様だから嘘は言っていない。その精霊王様は光の玉になって、浮かんでる。ちょっとお怒り気味。周囲には、その光の玉に気付いている者は誰もいないようだし、その怒りにも気付くわけもない。ニコラス兄様あたりがいたら、真っ青になってるかもしれないけど、その姿はここからは目に入らない。


「こいつが、こいつがぁっ」


 自分が人のことを転ばしたことを棚に上げて、私を指差す馬鹿。その途端、ブタが憤怒の表情で私の方にやってきて、太いソーセージみたいな指をした大きな手を振りかざした。

 自分の子供の言葉しか聞かずに、(見た目は)子供相手にいきなり暴力に訴えるのか。

 こんな人目があるところで結界など張れない。私はブタを睨みつながら、殴られる衝撃を覚悟する。


『美佐江!』


 火の精霊王様の光の玉が怒りで膨張するけど、私の視線に、それ以上に動かないでいてくれる。

 

「生意気な奴めっ……ぐぁっ!?」


 ブタが怒鳴り声とともに、手を振り下ろそうとした時、その手首が誰かに掴まれた。


「うちの子が何か」


 そこには凄い笑顔のニコラス兄様と、激おこのパメラ姉様が、仁王立ちしていた。

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