第2話 ラドゥと旅路と獣狩り 中






 ラドゥは三人が来るのを待っていた。

 集合時刻は正午。場所は街の北にある街道沿い。目印はおんぼろの荷馬車。あらかじめ積み込んでおいたのだろう、荷台の隅にいくつかの背嚢が置かれていた。

 ラドゥはいつも通りの装備だ。身軽な布服、汚れたブーツ、使い古した水筒、首に巻きとめたマント、そしてマントの下に隠したガロの剣。

 空を見上げる。晴天。太陽は空の頂点よりやや斜め。少し早く来すぎたようだ。



 出発までには中一日あった。

 昨日、ラドゥは街の散策中に武器屋を見つけた。

 その必要はないかもしれないが、念のため剣の手入れをしておいてもいいかもしれない。

 ラドゥは店に入った。

「待ってくれ、こりゃ狩人の剣じゃねぇか」

 愛想の良かった武器屋のおやじは、差し出された剣を見て嫌悪に眉をひそめた。

 ケモノを狩るための武器には基本的にいくつかの共通点がある。まず刃が分厚い。強靱な獸の肉体を断つためにはそれなりの強度が必要になる。次に重い。特殊な合金から打ち出されたその刃は重厚であり、通常の刀剣の二、三倍の重量になる。最後に鋭い。その分厚さからは想像もできないほど、刃と切っ先は繊細な仕上がりをしている。

 刃物に詳しい者なら一目見ただけでこれが何を目的とした武器なのかわかる。

「悪いがこういうもんは扱ってねぇんだ、帰ってくれ」

 そう言われ、ラドゥは店から追い出された。

 彼は不思議そうにおやじの後ろ姿を眺めた。

『獸は忌み者だ』

 不意にガロの言葉を思い出した。

『そして獸を狩る俺達も、忌み者と呼ばれ蔑まれる。獸を殺す奴はいずれ自らも獸になる。まるで疫病にかかったみたいにな。まあ、くだらない迷信の類いだが、そういう馬鹿らしいことにこだわるのが人間だ。人の世は面倒なことが多すぎる』

 武器屋のおやじは汚物を見るようにラドゥと剣を見た。

 ガロが言っていたのはこのことなのだろう。



 ラドゥは少しひとりになりたかった。感傷からではない。不当に扱われたくらいで傷つく繊細さなど持ち合わせていない。

 単純に剣を振りたかった。外に出てきてからほとんど抜いていない。明日から獸狩りだ。自分の出番はないかもしれないが、動きの確認をしておくことにこしたことはない。

 街を出て少し行くと小さな森林が茂っていた。

 ラドゥはその中に踏み入った。

 木々はまばらだった。夜霧が溜まらないように草木を間引き、風通しを良くしてあるのだろう。

 人の姿はない。風が木の葉を揺する音が聞こえるだけだ。

 ラドゥは剣を引き抜いた。

 分厚い刃が木漏れ日にきらめく。

 確かめるように柄を握り、振る。

 右、左、上段、下段。ゆっくりと、徐々にはやく。縦横無尽に剣は空を切る。

 実のところ、ラドゥの筋力は並程度だ。もちろん同年代の青年に比べれば遙かに高水準の膂力りょりょくを持ち合わせてはいる。だがガロの剣は特別製だ。刃渡りはそれほどでもないが、通常の獸狩りの剣をさらに上回る重量を持ち、殺傷能力を飛躍的に高めた〈重剣ジュウケン〉と呼ばれる代物だ。

 そんな剣を、しかしラドゥは平然と操っている。

『お前はまるで傀儡師だ』

 かつてガロはラドゥをそう評したことがある。

 身体の使い方がうますぎる、と。

『お前には天稟てんりんがある。俺とはまた違った才がな。そいつはお前の一番の武器になるだろうよ。磨け。お前は強くなるぜ』

 ラドゥは力で剣を振り回しているのではない。

 重心、遠心力、筋肉、骨、技量、等々。彼は自身に備わったすべてをもちいて、ガロの剣を操っているのだ。

 一通り修練を終えると、ラドゥは剣を鞘に戻した。

 汗がうっすらと額に浮かぶ。

 身体が熱い。

 動きは悪くない。

 鈍ってはいない。

 明日の獸狩りは問題ない。

 もっとも、彼は荷物持ちだ。

 狩りはあの三人が行う。

 ラドゥはただ、荷物を運ぶだけだ。



 陽が頂点に達したとき、三人の狩人が現れた。

「よう、待ったか」

「少しだけ」

「そうか」ジャックは頷き、荷台に上がる。あとのふたりがそれに続き、最後にラドゥが乗り込む。各々好きな場所に腰を下ろしている。

 ラドゥは三人の前に座り、順繰り彼等を見やる。

 ジャック。黒い革鎧姿。腰に大ぶりの、両刃の剣をいている。剣の腕に自信のありそうな面構え。

 ベル。軽装。銀髪は後ろで縛っている。脇に立てかけられたボウガン。腰に矢筒に短めの太矢ボルト。遠距離からのサポートがメインか。

 ロルフ。茶色の外套。背に大斧。他には鉈や山刀など。隆々たる体躯。力に自信がありそうだ。

(よく使い込まれている)ラドゥは彼等の武器をそう評し、腰の剣に触れた。(筋、技、遠。メンバーのバランスもいい。よほどのことがない限り、俺がコイツを抜く必要はないな)

「出発だ」

 ジャックが馭者に声をかける。

 馬車がゆっくりと動き出した。






「コーヒーを飲む奴は?」

 焚き火にかけていた薬罐ケトルを手に取り、ロルフが言った。

「もらう」

「私も」

 ジャックとベルのぶんをカップに注ぎながら「お前は?」とロルフがラドゥを見る。

「いただきます」

 そう答え、ラドゥは背後の岩にもたれかかった。

 すでに闇夜が周囲を満たしていた。雲に隠れ月も姿をみせない。焚き火だけが世界に取り残されているかのような、完璧な夜だ。

 一日、一行はひたすら西北に馬を進めた。

「馬車で行けるのは〈砦〉までだ」出発してすぐに、ジャックはラドゥにそう言った。「その先の無領地が俺たちの狩り場だ。背嚢背負いながら進むにはキツい場所だ、覚悟しとけよ」

 道中、三人は各々装備の手入れをし、荷台の中で行える程度の軽い運動をし、あとは黙って馬車に揺られていた。ほとんど言葉を交わさなかった。彼等の間には張り詰めたような空気が流れていた。無理もない、獸狩りとは命がけの殺し合いだ。一歩間違えれば、こちらが狩られる。三人の胸中にはいかような思いが渦巻いているのか。少なくとも楽しい感情ではないはずだ。ラドゥにはその気持ちが痛いほどわかった。だから口を閉じていた。

 やがて陽が落ちてきた。薄闇の中を全員で見回した。

「あそこはどうですか」

 ラドゥが指さした先には夜営におあつらえ向きな、ひさしのように頭が突き出た大岩があった。

 一行は岩の元で火を焚き、夜食を取り、そしてこうしてコーヒーを飲んでいる。

「この前の狩りは」コーヒーを啜りながら、ベルが口を開く。「散々だったよね」

肆號種ヨンゴウシュが三体だったからな」思い出したのだろう、ジャックは顔をしかめる。「応援が来なきゃ死んでたかもしれない。あんな狩りは金輪際願い下げだ」

「だが、報酬は良かった」ロルフが自分のぶんのコーヒーを注ぎながら呟く。「仕事三回分ほどの額が稼げた」

「だからって、またアレをやりたいと思うか?」

参號種サンゴウシュを相手にするよりはマシだろう」

「いえてるかも」

 三人の口が軽い。夕食を食べ、一時的に緊張がほぐれたのだろう。

 ラドゥは彼等の話に耳を傾けながらコーヒーを啜る。ガロもよくこの黒い液体を飲んでいた。〈澱底オリゾコ〉の至る所に群生するカラゴメという草、その実を煎り、砕き、お湯に溶かしていた。『コイツを飲むと意識が冴えるんだよ』そういってガロはラドゥにカップを差し出した。一口飲み、そのあまりの酷さに吐き出した。『不味いか。まあ確かに美味くはねぇな。外にはコイツに似たコーヒーって飲み物があるが、それはなかなか美味いぜ。まあコイツも、慣れりゃ悪くない』笑いながら、ガロはカラゴメの出汁を楽しんでいた。

「で、お前は獸を見たことあるのか」

 話を振られ、ラドゥはカップから視線をあげた。

「獸ですか?」

「ああ」ジャックは焚き火に薪をくべながら言う。「俺が思うに、お前は獸を見たことありそうだな」

「どうしてそう思うんですか」

「いやに落ち着いてるからだ」

「確かにね」ベルがラドゥを見る。「だいぶ前に雇った奴は前日から酷く怯えちゃってさ、仕事になりそうにないし馬車から放り出したんだよ。アイツに比べるとアンタはかなり静かだよ。ていうか私たちなみに落ち着いてる」

「獸のことは、知っています」ラドゥの脳裡に故郷の情景が浮かび上がる。常に漂う黒い霧。岩壁に反響する咆吼。闇に浮かぶ獰猛な眼光。獸臭。血臭。剣。刃。痛み。戦い。獸とのころし合い。「何回も見たことがあります。俺が住んでいた所はひどく物騒だったんです」

「どこから出てきたんだ」ジャックが聞く。

「田舎です」

「ここもかなり田舎だと思うけどね」とベル。

「頻繁に獸が発生する地域は限られている」ロルフが斧の手入れをしながら言う。「どこから来たんだ」

「ここからだと、南の方です」

「なるほどな」ジャックは納得したように腕を組んだ。「南部はかなり物騒だと聞くからな。あっちは地形的に霧が溜まりやすい。獸の脅威はこの地方の非じゃない。それに南部には、禁域がある」

「〈澱底〉ね」引きつぐようにベルが言う。「あそこから霧が漏れるから、南はヤバいんだってね」

「〈獸ノ棲〉とも呼ばれているんだったか」とロルフ。「中は酷いらしいな」

「獸がうようよしてるってね。噂じゃ一級クラスの腕前がなきゃ生きて行いけないらしいよ。考えただけでゾッとする」

「まあ、俺達にはほとんど関係ない場所だ。人が生きる場所じゃあない。しかし南部の田舎か」ジャックはラドゥを見る。「お前の肝が据わっている理由がわかったよ。だがな」鋭い視線をラドゥに向ける。「見るのと狩るのじゃ別物だ。獸に慣れているからといって油断するなよ」

「わかってます。獸は危険な存在です」

 ラドゥは心の底からそう言った。

 なぜなら、この場で獸の本当の畏ろしさを知っているのは、彼なのだから。

「明日も早いし、そろそろ寝ない?」ベルがあくびをする。

「賛成だ」ロルフが荷物を枕に寝転がる。

「おい、何か忘れてることがあるんじゃないか?」とジャック。

 ふたりは顔を見合わせ、首をかしげる。

「お前等、とぼけるな」ジャックが少し苛立つ。「だれが見張りをするんだ」

「起きてる奴よ」

「当然そうだ。俺が聞いてるのは誰が起きて見張りをするのかだ」

「そんなふうには見えないかもしれないけど、私ってもう寝てるの」

「ふざけるな」

「おどろいた、私がふざけてるように見える?」

「なんだと」

「ジャック」ロルフが口を開く。「見張りは交代制だ。数刻後に俺かベルのどちらかを起こせばいい」

「その通りだ。問題はお前等が起きないことだ」ジャックはロルフに指を突きつける。「特にお前だぞロルフ、ベルはまだ寝起きが悪いだけだが、お前ときたら、そりゃもう」ジャックは首を振る。「この前決めたはずだ、まず最初に俺が寝る。いいか、俺が寝るんだ」

 ジャックのその言葉に、ふたりは寝息で答える。

「コイツらは」拳を握り、振り上げ、ため息とともに腕を下げる。すぐに抜けるように剣を脇に置く。「まったく、なんで俺はこんな奴等と猟団なんか組んじまったんだ」

 愚痴をこぼし、ジャックは闇を凝視する。

「仲がいいですね」ラドゥが言う。

「悪くはないがな。俺達が知り合ったのは新人の頃だ。そっからずるずると・・・まあ、腐れ縁みたいなもんだ」

「そうですか」

「お前ももう寝ろ。夜明けに出発すれば昼前には砦に着ける。そうなりゃ午後から狩り場に入ることになる。キツい仕事の始まりだ。体力を温存しておけ」

「はい」ラドゥはマントにくるまり、寝る前にひとつだけ、とジャックに聞く。「あなたたちが狩ろうとしているのは何號種なんですか」

伍號種ゴゴウシュだ。一番の雑魚だよ」

「数は」

「報告によれば二匹」

「そうですか」

「肝は据わっていても不安か」ジャックの笑い声が漏れる。「安心しろよ、俺達の猟団の総合評価は二級相当だ。伍號種など敵じゃない。お前はまだ若い、そんな奴を死なせちゃ、俺達としても夢見が悪い。生きて帰してやる。報酬もたっぷりだ。だから、安心しとけ」

「はい」

 ラドゥは眼を瞑った。

(この人たちはやっぱり優しい)

 焚き火の音を聞きながら睡魔が訪れる直前。

(あまり死んでほしくないな)

 めずらしくラドゥは、そんなことを思った。






 前方に砦が見えてきた。

「南部の物に比べるとかなり小さいだろ」砦を眺めていたラドゥにジャックが言った。「この辺は比較的安全だからな、デカい砦は必要ないんだ。それにここは地形がいい」ジャックの言うとおりだ。砦の左右には岩山がそびえている。

「天然の要塞なわけですね」ラドゥは呟いた。

 実のところ、ラドゥは砦を見るのがはじめてだった。澱底から出ていく際、ラドゥは西を選択した。澱底の中でもそちらは霧が薄く、ゆえに〈渡し屋〉はそこにしかいない。外に出たラドゥは南部を迂回するように歩いた。『南は獸も狩人も多い、もし外に出る機会があったら西にでも行け』そうガロに教わっていた。だからラドゥは南部も知らなければ砦も知らない。彼が知っているのは澱底だけだ。

「やっと来てくれたんですね」

 砦に到着すると、出迎えの男が安堵の表情を浮かべた。

「見捨てられてるのかと思いましたよ」

「〈協会は同胞はらからを見捨てない〉」ジャックが言う。

「狩人の標語ですね」

「違う、協会の掟だ。俺達は〈狩人〉だろうが〈走狗〉だろうがお前等〈監視者〉だろうが見捨てない。さて、無駄話は止めにして仕事に取りかかろう」

 砦の一室で、ラドゥたちは詳しい説明を受けた。

 十数日前、山を巡回中の監視者が姿を消した。獸発生の可能性を考え、砦付きの五級狩人二名が捜索に出た。が、彼等も帰らなかった。翌日、犬だけが戻った。砦外を見回る際に連れて行く伝令犬だ。犬の片足には文が縛り付けられていた。

『伍號種が三匹 一匹処理するも我々も重傷 狩りの続行は不可能 帰還は困難 応援を求む』

 文には獸と遭遇した場所を記した地図が添えられていた。

「それで協会に伝書鳩を送ったわけか」

「はい、この砦は小さい、人員は限られています。我々が捜索に出れば砦は無人になってしまう。それに砦付きの狩人は残りひとり、あとは私と同じ監視者です。伍號とはいえ二匹を処理するには、我々では力不足です」

「だろうな」

 三人の狩人は部屋を出る。ラドゥも続く。

 地図を開き、位置を確認する。

「少し遠いね」ベルが言う。

「ああ、一日はかかりそうだ」ジャックが頷く。

「このあたりは木々が密集していそうだ。迂回するべきだろう」ロルフが地図を指さす。

 三人は色々と話し合った結果、ルートを決める。

「ここから半日ほど北に進むと川に出る。その川伝いに沿って歩いて行けば獸の遭遇地点に着く。それでいいか?」

 ジャックの言葉にベルとロルフは黙って頷く。道中のふざけた雰囲気はすでに霧散している。ふたりの面差しはすでに狩人のそれだ。

 三人は各々の装備を身につける。

 ラドゥも背嚢を背負う。水、食料、救急用具などが詰まっている。

「ラドゥ」砦の出口の前で待機をしていると、ジャックが近づいてきた。

「重さはどうだ」

「平気です」

「怖いか」

「皆さんが守ってくれるんですよね」

「そうだ」ジャックは懐からナイフを取り出し、ラドゥに差し出す。

「これは?」鞘から抜き、ナイフをためつすがめつする。厚い刃。獸用だ。

「何があるかわからない、念のため持っとけ。ないよりはマシだろ」

「そうですね」ラドゥは小さく頭を下げる。「ありがとうございます」

「気にするな。もう少ししたら出発する。準備しておけ」

 そう言って、ジャックはふたりのもとに戻る。

 ラドゥは手の中でナイフをくるくる回す。普通に柄を握り、一瞬で逆手に持ち変え、次の瞬間には投擲しやすいようにナイフの切っ先を指で挟んでいる。

「結構使いやすそうだな」

 ナイフを懐に入れ、ラドゥは三人を待つ。



 四人は山の前に立つ。

 背後で砦の扉が閉まる。

 鬱蒼たる木々。青い空。野鳥の鳴き声。

「いくぞ」

 ジャックを先頭にベル、ラドゥ、ロルフの順に山に踏み入っていく。

 ラドゥはさっと周囲を一瞥する。

(妙だな)

 空気を嗅ぐ。

 夜霧の臭いがまったくしない。

(こんなに澄んでいるというのに獸が出たのか? 伍號とはいえ、こんな濃度で発生するとは思えないが)

 遭遇場所はまだ先だ。もう少し奥に行けば霧が濃くなっているのかもしれない。

 だが、澱底で育ったラドゥの本能は、何かいいようのない違和感を感じていた。

(すこし警戒しておくか)

 先ほどもらったナイフを、ラドゥはそっと手に忍ばせた。






 一行は順調に進行していた。

 何匹か野生動物を見かけただけで、獸の気配はどこにもなかった。

 夕暮れまで歩き続け、川の流れが聞こえるあたりまで来ていた。完全に陽が没するまえに、四人は夜営の準備に取りかかった。ジャックが周囲を警戒し、ベルが薪を集め、ロルフが火をおこした。ラドゥは食料と水を全員に配った。夕食の干し肉を食べている頃には、森林は闇よりも濃い夜に包まれていた。昨夜の夜営のような楽しげな雰囲気はかけらもない。

 無言。

 全員が闇の向こう側に最大限の警戒のまなざしを向けていた。

 ジャックが懐からペンダントを取り出した。特に装飾などはない簡素なモノだ。チェーンの先で親指ほどの石が揺れている。

「俺の〈発光石〉をここにかけておく。色に気をつけろ」

 木の幹の引っかかりにそれを吊す。

 ラドゥは白く濁ったその石を知っている。発光石、あるいは〈夜耀ヨビカリ〉と呼ばれる鉱石だ。理屈は知らないが、夜霧に反応し光る性質を持つ。霧の濃さによって発光石はその色合いを変え、その色で獸の號数が判断できる。みどりなら伍、蒼ならヨン、紫なら参、というように。ラドゥも持っていたが、澱底では使い物にならず捨ててしまった。あの場所はつねに夜霧が立ちこめている。石はたえずその色合いを変え、鬱陶しく光り続ける。獸の判別などできようはずもない。

 だが外の世界でなら、確かに有用だ。視覚で獸の気配を知れるのはありがたい、特に夜は。

「交代で眠る。昨日みたいなお遊びはなしだ」

「当然ね」

「わかっている」

 三人は短い眠りを交互に繰り返しながら、見張りをした。

 ラドゥは浅く眠った。

 意識は夢を漂っているが、五感は外のすべてをていた。

 そうして夜が更け、やがて明けていった。

 ラドゥの側面で、何かが動いた。

 眼が醒める前に、すでにラドゥの右手は動いていた。

 ナイフの刃が深々と食い込む感覚、わずかに血の臭い。

 ラドゥは眼を開け、無意識に仕留めた獲物を見た。

 蛇の頭部が木の幹に縫いつけられていた。

 なかなかに大きな蛇だ。外見から毒はないと判断する。

 ナイフを引き抜く。蛇は力なくラドゥの脇に落下する。

 すばやく頭を切り落とし、皮を剥ぐ。草叢から大きな葉をちぎり、それで蛇の表面のぬめりを拭き取る。

 綺麗なピンク色の身の臭いを嗅ぐ。少し生臭いが、水で洗うほどではない。

「よう、もう起きてたのか」

 木々の間から、ジャックが現れる。すでに空は瑠璃色だ。周囲を警邏けいらでもしていたのだろう。

「おい、それはなんだ」

「蛇です。仕留めました」

「ほお、うまそうだな」

「うまいですよ。これを朝食にしましょう」

 ラドゥは蛇を四つに切り分け、手頃な枝を串代わりに突き刺す。

 熾火にあらたな薪をくべ、炎を大きくし、蛇を串焼きにする。

 香ばしい匂いに、ベルとロルフが眼を醒ます。

「蛇か」とロルフが唾を飲み込む。「うまそうだ」

「ちょっとマジでいってんの?」ベルが信じられないというようにロルフを凝視する。「あんな気持ち悪そうなモノがうまそう?」

「うまそうだ」

「嘘でしょ? 蛇よ? あの長くてうねうねしてネズミとかカエルとかを丸呑みにするわけのわからない爬虫類、それが蛇よ? ねえジャック、こんなモノ食えるわけないよね」

「いや」とジャック。「普通にうまそうだろ」

「冗談キツいわ。ねえラドゥ、蛇なんて食べ物じゃないと思わない?」

「俺がさばきました」

「あっそ」ベルはやれやれと肩をすくめ、宣言する。「私は食べない」






「なかなかおいしかったわ」

「あれだけ食わないと騒いでおいて、よくもまあそこまで見事に掌を返せるものだな」

「私は新しいモノに寛容なのよ、ジャック」

「ベルはいつも調子だけはいい」

「それは違うよロルフ。容姿も性格もすべてイイのが私よ」

「少し黙った方がいいなベル。見ろ、ラドゥがあきれたようにお前を見てるぞ」

「まさか、私に見惚れてるだけでしょ」

「ベルは確かに美人だが、それは自惚れだ」

「ロルフ、アンタはときどき口が悪くなるよね」

「お喋りはおしまいだ。じきに狩り場だ、荷物をまとめろ。まったく、すぐに緩んじまうのが俺達の悪い癖だな。見苦しいところを見せたな、ラドゥ」

「いえ。しかし本当に皆さんは仲がいいですね」





 一行は荷物をまとめ歩き出した。

 険しい斜面を下り、草叢を掻きわけ、川岸に出る。

 流れの速い大きな川だった。三人は顔を洗う。

 ラドゥも川に近づく。水しぶきが肌を濡らす。水をすくい上げ、水を飲む。清涼な空気が吹き抜ける。

 微かに、夜霧の臭いがする。

 ジャックが首にかけた発光石は反応していない。

 霧の臭いも薄い。だが、確実に獸に近づいている。

 ラドゥの眼が鋭い光を湛える。

「目的地までもう少しだ。急ぐぞ」

 発破をかけるようにジャックが言い、一行は歩みを再開する。






 数刻ほど歩いた時だろうか。

 川音、風音、木々のざわめき。

 不意に周囲の音が、途切れた。

 空間にぽっかり空いた穴に落ちてしまったかのよう。

 四人にそんな錯覚を起こさせるほど異質な気配が、彼等の周辺を包み込んだ。

 ジャックの発光石が、みどりの光を放つ。

「来たぞ」ジャックは腰から両刃の剣を引き抜く。「伍號種だ」

「もう奴等の縄張りに入ってたなんてね」ベルがボウガンを構える。

「どこから来るかわからない、気をつけろ」大斧を両手で持ち、ロルフが周囲を見回す。

「ラドゥ、もう少し下がってろ」

 ジャックに追いやられ、ラドゥは森林の方に身を引く。

 三人の狩人の周囲が緊張に張り詰めている。

 眼を皿のようにして、何一つ見逃すまいと獲物の気配を探している。

 そんな彼等の背後で、すでにラドゥは獸を視ていた。

(右の草むらと対岸の森林)

 臭い、空気の流れ、葉の揺れ方、等々。

 様々な痕跡を俯瞰しているかのように捉え、正確に位置を割り出し、その動きを予測する。

(同時に来る)

 そう断定をくだした瞬間、ラドゥの考えていた通りの位置から、二匹の獸が飛び出してきた。

 全身を覆う黒い体毛。

 長い腕、鋭い爪。

 丸まった背筋、ナックルウォークのように地面をこする指先。

 その体型だけをみれば大型の霊長類のようにも見えなくもない。が、首から上に乗ったその頭部は、まさしく異形。猿と狼を混ぜ合わせたかのような、まさに〈獸〉としか表現のしようのない、獰猛なかおが牙を剥く。

 二匹の獸の視線が三人の狩人に注がれる。

 乱杭歯からよだれがしたたる。

 肉、餌、獲物。

 人を喰らうのが獸のさが

 二匹は身をかがめ、瞬間、すさまじい勢いで走り出す。

「前方の獸は俺が相手をする。お前等は対岸の奴をれ」

「まかせて」

「了解」

 ジャック、ベル、ロルフが狩りを開始する。







 ジャックたちの戦いが始まってすぐに、ラドゥはそれに気づいた。

 背後の森林から、魔が忍び寄る。

 先ほどの二匹よりも気配の隠し方がうまい。

 殺意も敵意もよく抑えられている。

 だが獸臭までは隠せていない。もっとも、澱底を生き抜いてきたラドゥの嗅覚をあざむくことなど不可能ではあるが。

 慎重に、だが素早く獸はラドゥとの距離を縮めていく。動きのしなやかさからいって、先の二匹とは運動性能が違う。ひとり離れたラドゥに奇襲をかける程度の頭脳もある。伍號種ではない。おそらくワンランク上、肆號種ヨンゴウシュ

 ラドゥの頭に、再度疑問が浮かぶ。

 山に入った時からおかしかった。そしていまだ疑問は消えていない。どころか、深まっている。

(やはりこの地は霧が薄すぎる。なぜ伍號が二匹も、そして肆號まで発生している?)

 ラドゥは考える。が、すぐにその疑問を振り払う。

 思考するのはあとだ。

 今はやるべきことがある。

 彼は荷物持ち。よほどのことがない限り、剣を抜く気はなかった。だが、自分が狙われたとなれば話は別だ。

 頭の中のスイッチが切り替わる。

 対人戦ではない。これは対獸戦。一切の手加減は不要。

「俺を狙ったのが運の尽きだな」

 そう呟き、ラドゥは音もなく森林の中に消える。






 ジャックの剣が獸の腕を切り落とす。

 噴き出す血。返り血が彼の革鎧を汚す。

 痛みに呻き、狂ったように獸は腕を振り回す。

 身を反らし、かわ)す

 触れればたやすく肉を断つ爪が、ジャックの鼻先を掠める。

 前髪がはらりと落ちる。

 額から血が一筋流れ落ちる。

 ジャックの背筋を冷や汗が伝う。心臓が激しく鼓動する。だが、身体の反応とは裏腹に、心は冷静だ。伍號種の相手なら慣れている。

「俺も伊達に三級じゃない」

 連続して振るわれた爪を剣で防ぎ、ジャックは敵の懐に飛び込む。

 肩で獸の胴体を思い切り押す。

 本来であればこの程度で体勢を崩す相手ではない。だが片腕を欠き重心が安定していない。攻撃を防がれ体幹がぐらついている。

 ジャックは安定を欠いた獸の脚を全力で蹴り払う。

 獸が仰向けに倒れる。

 好機。

 獸を完璧に殺すなら首をねるか、心臓を穿つか。

 心臓は難しい。強靱な獣皮と筋骨に守られた胸部を破壊するにはロルフのような大斧や戦鎚のような大得物が必要になる。ジャックのような剣士が狙うべき急所はただひとつ。

「終わりだ」

 ジャックは剣を振り上げ、渾身の一撃を魔物の首に叩き込む。

 潰し斬るように、分厚い刃が異形の頭部を刎ね飛ばす。

 勢いよく噴き出した血潮が地面を塗りつぶしていく。

 黒い身体が痙攣する。

 川縁に転がった獸の頭部の双眸そうぼうから、生気が抜けていく。

 痙攣が、止む。

 瞳が、白く濁る。

 獸の黒い身体が、崩れていく。

 この魔物は、本来この世界に存在するはずのない生き物。

 獸の肉体は死後、すぐに消滅する。

 毛先から、爪先から、ほどけるように消えていく。

 獸とはなんなのか。この光景を見るたびに、ジャックはいつも疑問に思う。

 獸とは、夜霧とはなんなのか。

 黒い霧が異界の門を開き、ソレを喚ぶのか。それとも夜霧を媒体に魔が受肉しているのか。正確なことは何一つわかっていない。これから先も解明されることはないのかもしれない。

 わかっているのは獸が人間を喰らうということ。

 そして人間は、奴等を殺せるということ。

「今は、それだけわかってれば十分だ」

 そう呟き、ジャックは仲間の方を向く。

 ボウガンの矢が獸の首を射貫くところだった。

 苦しげに、伍號種は喉を掻き毟る。

 すでに獸の身体にはベルの射った矢が何本も突き刺さっている。

 多くの血が流れている。

 だが致命傷には、一歩およばない。

 あと少し、ドデカい一撃がいる。

 そのためにロルフがいる。

 雄叫びとともに、ロルフが走り出す。

 獸は腕を振るい、斧を持った大男を迎え撃つ。

 爪がロルフの肩口を裂いた。

 だが彼は止まらない。

 大斧を振りかぶり、全力で獸の胸に叩きつける。

 骨の砕ける音、肉の裂ける感触。だが、まだだ、まだ心臓に届いていない。

 再度大斧を振りかぶり、とどめの一撃。

 獸が吹き飛ぶ。

 血と肉片が飛び散る。

 地面に達したと同時に、伍號種の身体が消えていく。

 わずかに、黒い霧だけを残して。

「とりあえず終わったね」ボウガンを担ぎ上げたベルが笑う。

「ああ、片付いた」ジャックは剣を腰に戻す。

「他愛もない」斧の血を振り払いながらロルフがいう。

「血を流しといて、よくいうよ」ベルがロルフの肩を見る。「アンタが勇敢なのは知ってるけど、避けられる攻撃は避けなさいよ」

「喰らう前に片付けるつもりだった」

「勇敢じゃなくて馬鹿なだけかもね。ほら、こっち来て。見てあげる」

「どうだ」

「ああ、たいしたことない傷ね。薬塗って包帯してれば大丈夫そう」

「報告にあった二匹は片付けたが、用心にこしたことはない」手近な岩に腰を下ろしながらジャックは言う。「ロルフの手当が終わったら周囲を探索する。もし獸の痕跡があり、俺達でどうにかできるようなら追加で狩りを行う。何もなければ帰る。異論は?」

「なにも」

「了解」

「よし。おいラドゥ、待たせて悪か」

 そこまで言って、ジャックはラドゥの姿が見えないことに気づいた。






「思った通り、使いやすいな」

 ラドゥは軽やかにナイフを操りながら呟く。

 短い刃はべっとりと血に濡れている。

 ラドゥの足下に獸が倒れている。

 先ほどジャックたちが衝突した伍號種より、さらにひとまわりは大きい獸。肆號種ヨンゴウシュ。その危険度は伍號種三体分とも、五体分ともいわれる。

 うつ伏せに倒れる獸に外傷はみられない。

 ただ、血だけが地面に広がっていく。

「こういう小回りの利く刃物は、俺の性に合っているのかもしれない」掌でナイフを踊らせながら、ラドゥは獸に背を向け歩き出す。ジャックたちの狩りはもう終わっているかもしれない。もし彼の姿がなかったら心配するだろう。

 ラドゥと獸の距離が離れる。

 肆號種の指先がピクリと動く。

 ゆっくりと、異形の魔物は上体を起こす。

 わずかな物音さえ立てていない。

 胸から流れ出る血液が、止まる。

 両腕が地面につく。上体をかがめる。

 四脚獸しそくじゅう。野生の捕食者が獲物に狙いをさだめ、飛びかかる前の姿勢。

 ラドゥの歩みが止まる。

 不気味な沈黙が場を支配する。

「そうか、少し浅かったか」

 ラドゥが独りごちたその数瞬前に、すでに獸は跳躍している。

 一瞬でふたりの距離がゼロになる。

 恐るべき脚力。

 鋭い鉤爪が振り抜かれる。

 ラドゥの首を狙った一撃は、しかし虚しく空を切る。

 すでにラドゥはそこにはいない。

「安心しろ。次は確実に殺してやる」

 下方から冷酷な声がする。

 ラドゥは身を沈め、獸の攻撃を躱していた。

 半身をひねっている。

 右手で刃が冷たく光る。

 溜めていた力を一気に解き放ち、ラドゥは上半身を回転させる。猛禽のような眼は頭上を通り過ぎる獸の急所を捉えている。遠心力を得たナイフが、吸い込まれるように肆號種の胸に滑り込む。強靱な筋骨に守られた胸部は、しかし先ほどラドゥに穿たれている。筋肉の薄い箇所を狙い、肋骨の隙間を通し、ラドゥは心臓を抉った。だが、どうやら浅かった。背後を取られ、奇襲を赦した。

 だからこそ、今度は深く、強く、刺し貫く。

 手応え。

 刃越しに伝わる鼓動。

 ラドゥはナイフから手を離す。

 獸は地面に落下する。

 立ち上がれない。

 もがき苦しむ。

 胸から突き出したナイフの柄に、ラドゥのブーツが置かれる。

「しぶといな」ラドゥは獸を見下ろす。「さすがは肆號種だ」

 そそがれる冷たい殺意。

 獸の胸中に、戦慄が走る。

 はじめての経験、はじめての感情。

 絶対的捕食者がはじめて感じた、恐怖。

 だが獸にはその恐怖を咀嚼するだけの時間は残されていない。

 渾身の力を込め、ラドゥはナイフを踏み込む。

 刃がさらに深く、沈む。

 獸は呻き、瞳から光が消える。

 死骸が霧散する。

 黒い粒子が消え去る様を、ラドゥは見つめる。

 森は静寂に包まれる。

 ナイフを拾い上げ、歩き出す。

 その時。

「だ……だれか……いるの、か……?」

 弱々しい声が、ラドゥの耳に届いた。






 三人は武器を構え、険しい表情であたりを見回した。

 数秒前、ジャックの発光石が反応を示した。

 蒼。肆號種を意味する色。

 その輝きは、しかし一瞬で消えた。誤反応かもしれない。

 だが、ラドゥの姿が無い。

 三人の背筋に冷たいモノが走る。

「クソッ、アイツから眼を離しすぎた」ジャックが苦々しげに吐き捨てる。「アイツがいるのに、目の前の敵に集中しすぎた」

「まだ死んだと決まったわけじゃないよ」ベルがボウガンに矢を装填しながら呟く。「それに肆號の反応は一瞬だった。間違いの可能性だってある。探そう」

「ベルの言うとおりだ」ロルフが大斧を担ぎ、歩き出す。「ここで警戒していてもしかたがない。行こう」

 ふたりの言葉にジャックは「そうだな」と頷き、一拍の間を置き、苦笑する。「まさかお前等に励まされる日がくるとはな」

「まるで自分が励ます側みたいな言い方ね」

「げんにそうだろ」

「思い返してみたんだけど、アンタに励まされたことなんか一回もないよ」

「お前は忘れっぽいからな」

「よく言うよ」

 ふたりは軽口をたたき合う。いつもと変わらぬ風を装いながら、過剰な緊張をほぐそうとしているのだ。

 協会の外の人間を雇い入れたのは今回が初めてではない。これまで何度も使ってきた。そしてそのすべてで、彼等は雇い人を無事に帰してきた。素人を連れて行く以上、それがプロの鉄則だと彼等は考えていた。

 それが崩れるかもしれない。

 予想以上の衝撃を、三人は味わっていた。

 ラドゥの背嚢が落ちている。

 その目の前には薄暗い森林が口を開けている。

 三人は立ち止まる。

「ここから探す」

 ジャックの提案に、ベルとロルフは頷く。

「さっきの反応のこともある。絶対に距離をあけるなよ」

 そう言って、ジャックは剣を構えながら森林に踏み入る。

 すこしも行かないうちに、ガサガサッ、と前方の草叢が騒ぐ。

 三人の顔に緊張が走る。

 だが、どうも様子が違う。

 獸にしては揺れが小さい。

 発光石も無反応だ。

「みなさん、どうしたんですか」

 間の抜けた声に、ジャックは身体から力を抜く。

 草叢を掻き分け現れたのは、ラドゥだった。

「どうしたって、お前なぁ」

 あきれたように、あるいは少し怒ったようにジャックが口を開き、すぐに言葉を止める。

 ベルとロルフもそれに気づく。

 ラドゥは怪我人を背負っていた。






 川辺に戻るとラドゥは怪我人を地面に下ろした。

「コイツは狩人だ」怪我人の懐を探っていたジャックは掌に収まるほどの金属プレートを取り出し、皆に見せた。剣と鎌が交差した簡素な紋章、その下に〈五級〉の文字。「協会の発行する狩人証だ。おそらく砦付きの狩人だろう。まさか生きていたとはな。ラドゥ、どこでコイツを?」

「森林の奥です」

 ラドゥは何があったのかを簡単に説明した。

 三人が五號種と戦闘を開始してすぐ、背後の森林から声が聞こえた。その声に耳を澄ましていると、どうやらそれが助けを呼ぶ声だと気づいた。

 危険なことはわかっていたが、あまりにも悲痛なその声音にいてもたってもいられず、彼は森林に入った。

 声を辿り歩いて行くと、朽ちた巨木に行き当たった。その巨木はこれまた巨大な岩にもたれかかるようにして倒れていた。ラドゥが周囲を捜索すると、ついに声の主を発見した。

 巨木と大岩の隙間に、大きめのスペースがあいていた。

 のぞき込むと、その中で人が倒れていた。

「入り口は相当狭いです。人ひとりならなんとか通れますが、獸ではおそらく無理です」

「なるほど、そこに逃げ込んだってわけか」

 ジャックは怪我人を精査する。

 右脚が折れている。全身に切り傷。気絶し、そして衰弱している。下手をすれば十日以上その場所に隠れていたことになる。生き延びたということは食料と水は持っていたのだろう。だが十日を生き延びるほどの量はなかったはずだ。少しずつ食べたのか、あるいは雨水を飲んだのか、蟲を口にしたのか・・・とにかくこの男は生き延びた。

「呼吸は結構しっかりしてる」男の口元に耳を当てていたベルがそう言う。「砦まで運べば助かるかもしれない」

 確かに、とジャックは頷く。

 このままここに残り新たな獸の痕跡を探すより、生き延びた狩人を助ける方が先決だ。だがその反面、ここに残って調査を続行すべきではないか、とする考えも、またジャックの中にはある。先ほどの蒼い反応が気になる。もし肆號種が発生していれば危険だ。狩人として見過ごすことはできない。

 だが、同じ協会員を救うのも、また狩人の使命。

 ジャックは唸る。

 そんな彼の逡巡を嗅ぎ取り、ラドゥは口を開いた。

「あの、ひとついいですか」

 三人が一斉に彼を見る。

 彼は臆することなく「この地はおかしいです」そう言った。

「おかしい?」

「はい。最初からおかしいと思ってました。山も森林も、夜霧の臭いがほとんどしません」

「霧の臭いがわかるの?」すこし驚いたようにベルがラドゥを見る。

「わかります」とラドゥ。「幼い頃からずっと嗅ぎ続けていたので鼻が覚えています」

「なるほど、南部の出身だったな」ロルフが頷く。

「それで」ジャックが促す。「何がおかしいんだ?」

 ラドゥは自分の疑問を口にする。

 獸が発生するほどの濃度だとは思えない、と。

 その言葉に、三人は押し黙る。おそらく彼等もどこかで違和感を感じていたのだろう。その違和感の正体がラドゥの言葉によって、明瞭に浮かび上がったのだ。

「確かに、な」

 ジャックはそう言って考える。

 二匹の伍號種、肆號の反応、怪我人、ラドゥの言葉。

「よし」ジャックは決める。「怪我人を連れて、一度砦に帰るぞ。あとのことはその時考える」

 彼の決断にベルとロルフはどこかほっとしたように従う。

「背嚢は俺達で持つ。お前は負傷者を背負ってくれ」

 ジャックの要請に、ラドゥは快く頷く。

 男を担ぐため、彼はしゃがむ。

「その前に」いくぶん厳しい口調で、釘を刺すようにジャックがラドゥを睨む。「帰り着くまで単独行動はやめろ。いいな」

「わかりました」

 ラドゥは頷き、男を背負いあげた。






(あまり詮索されなくて助かったな)

 前を行くベルの背を眺めながらラドゥは思った。

 先ほど彼は嘘をついた。怪我人の男を発見した状況は本当だったが、そこにいたる経緯はまったくのでたらめだ。

 肆號種を殺したことは伏せておきたかった。

『考え無しに人前で腕前を披露するなよ、ラドゥ』

 ガロの教え。

 ジャック、ベル、ロルフの三人は良い人間だ。知られたからといって、何か面倒が起こるとは限らない。

 だが、だからといってむやみに力を誇示する必要はない。脅威にさらされた時にだけ、剣を抜けばいい。

『能ある鷹は爪を隠すって奴だ』そう言ってガロはよく馬鹿笑いしていた。『まあ、オレの場合はすぐにバレて争いに巻き込まれてたがな』

「俺はうまくやるさ」

 そう呟いたところでラドゥは思い出す。この数日のうちにすでに、自分は二度も絡まれていたということに。

 彼は小さくため息をつく。どうやら教わらなくていい部分までガロから教わってしまったらしい。

(まあ、自分の問題はどうでもいい)

 ずり落ちてきた怪我人の位置をなおしながら、ラドゥは歩き続ける。

(とりあえず帰還できる)

 ラドゥは三人をできるだけ早く砦に帰してやりたかった。

 何か、嫌な予感がしていた。

 偶然見つけた怪我人だったが、彼を連れ帰ったことで物事が良い方向に運んだ気がする。

 ジャックたちは帰還し、負傷者は助かる。ラドゥも報酬をもらえる。

(あとは、何も起きないのを祈るだけだな)

 ラドゥは空を見る。

 少し、陽が傾いている。



         *****



 その亀裂は、山の奥の奥の、さらに奥にある岩肌にあった。


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