ラドゥと旅路と獣狩り

あびすけ

第1話 ラドゥと旅路と獣狩り 上






 物騒な気配にラドゥは目を覚ました。

 眠るために深く被っていた外套マントを少しずらす。

 無垢な瞳と目が合った。蒼白な顔の母親に掻き抱かれた幼子が、彼を見つめていた。ほろの中を見回す。荷馬車に乗り合わせた人々はみな一様に怯え、嵐が過ぎ去るのを待つように身を寄せ合い、祈りを捧げている者さえあった。

「賊だ」

 隣の男がラドゥに囁いた。

「賊?」

 聞き返すと、

「野盗だよ」

 男は震える声で答えた。

 不安なのだろう、男はラドゥを相手に喋り始めたが、彼はその声を無視し、外の気配に集中する。

 荒々しい足音、革と布の衣擦れ、剣と剣を打ち鳴らす音、血の噴出音、野卑な笑い、乱暴な言葉遣い、それらから逆算できる敵の数とその配置。

(戦ってるな。十二、三人ってところか)

 ラドゥは被っていたマントを羽織直し、立ち上がった。

「おい若いの、何する気だ」

「何って、どうにかするんだよ」

「馬鹿、やめとけ、隊商はどこも護衛を雇ってる、そいつらに任せとけ」

 ラドゥは数刻前、この馬車に乗り込んだ時のことを思い出した。偶然出会った隊商は辻馬車のような商売もおこなっていた。銀貨一枚と銅貨数枚を支払い、ラドゥは荷台に上がった。

 銀子を受け取った隊商の人間は、

「ちょいと高いかもしれないが、用心棒代も徴収しなきゃならないんでね」

 そう言って申し訳なさそうに笑った。

 ラドゥに異論はなかった。

 三日前から道なき道を歩き続けていた。

 山道、荒地、草原。

 今朝、ようやく街道に出た。長い街道だった。道は地平線の彼方まで続いているように思えた。まだ日は高かったが、夜までに街や村に行き当たるとは思えない。

「また野宿か」

 そう呟くと同時にラドゥは笑った。〈外の世界〉に出てきてから数十日経つ。しかしいまだ一匹の〈ケモノ〉とも遭遇していない。どころか〈夜霧ヨギリ〉の気配さえない。〈内側ナカ〉に比べれば遙かに安全な世界に思えた。あの地で野宿をするのは命がけだ。いつ獸が〈発生〉するのかわからないのだから。

『寝るときは交代だ、それが此処ここでの鉄則だ』

 ガロはよくそう言っていた。

 凶暴に嗤いながらラドゥの前に座る。

『一瞬も気を緩めるな、オレが寝込みを襲われたらテメェの責任だ』

 逆も同じだった。ラドゥが寝込みを襲われれば、それはガロの責任。

 ガロは眠るとき横にならなかった。胡坐をかくか、立って眠るかだ。それはラドゥの癖にもなった。

 残酷な世界だった。それゆえに、ラドゥは強くなった。強くならなければ生き残れなかった。

「少し、緩んでるかもな」

 ラドゥは首を振る。

 いくら安全とはいえ、いくら夜霧が少ないとはいえ、人はいるのだ。人間は獸とは違う。善良な者が大半だ。だが中には凶暴で、邪悪で、奪い殺すことこそを至上としているはぐれ者たちがいる。だから、此処も安全ではないのだ。馬車の中で眠りこけているなど知られたら。

「ガロが生きてたら、ぶん殴られそうだ」

 苦笑し、ラドゥは幌から飛び出した。






 彼が地面に着地したのは、ちょうど最後の護衛が喉を裂かれ絶命した時だった。

 首に巻かれたマントが風にはためく。

 靴底が血を踏む。

 いたる所に血潮が飛び散っている。

 幼少の頃から嗅ぎ続けてきた、慣れ親しんだ臭い。

「なんだよ、まだいるのかよ」

 粗野な声が上がる。ラドゥの前後左右に男たちがいる。

「いい加減諦めろよな」

「さっき幌の隙間から女とガキが見えたぜ」

「ガキは俺がいただく」

「ハハッ、変態野郎め、ろくな死に方できねぇな」

「女なんか後にしろ、まず金だろうが」

「いいからさっさとっちまおうぜ」

 野盗たちは言葉を交わしながらラドゥに近づいてくる。

 彼は野盗たちをざっと一瞥いちべつした。

 向かってくるのが九人。血に塗れ倒れ伏しているのが三人。この三人が護衛だったのだろう。そして野盗たちから少し離れた場所にひとり、野蛮な顔つきの大男が泰然たいぜんと構えていた。

『いいかラドゥ』

 ガロの声が耳朶によみがえる。

『ひとりで集団の相手をするときは、無駄な殺しをする必要はねぇ』

 幼いラドゥを見下ろす眼光が鋭く光る。

『とにかく敵の大将を見極めろ。そして迅速に、一瞬で潰せ。烏合の衆ならこれで簡単に瓦解する。わかるか? 雑魚どもを相手にする必要はねぇ、とにかく大将を殺れ。もちろん、中には頭を潰されたくらいじゃ動じない強者つわもの共もいる。そういう奴等は一筋縄じゃいかねぇ。まぁ、その辺は自分で判断しろ。だが時間はねえぞ、いいか、すべてを一瞬で行え』

 テメェの才能センスなら造作もねぇはずだ、そう言ってガロは乱暴にラドゥの頭を掻き撫でた。

「烏合の衆」

 呟き、大男を睨む。

 ラドゥはすでに判断を終えている。

「で、お前が大将だな」

「俺様にガンをくれるとは、なかなかいい度胸してるじゃねぇか」大男が口を開くと野盗たちの動きが止まった。みなこの男の言葉に耳を傾けている。やはりコイツがこの集団の親玉だ。ラドゥはゆっくりと左腕を首元にやり、右足に重心をかける。これですぐにマントを取り外し、駆け出せる。膝元まであるマントの内側は野盗たちには見えない。外套は便利だ。雨を防ぎ、砂塵から身を守り、返り血を弾いてくれる。そして何よりこちらの動きを悟らせない。相手に気づかれずに予備動作に入れる有利、その大きさを、野盗たちはわかっていない。だから大男は悠々と喋り始める。

「ほぅ、なかなか可愛らしい顔してるじゃねぇか」

 大男は嗤い、舌なめずりをする。

 確かにラドゥは端整な顔立ちをしている。美丈夫といって差し支えないだろう。だが可愛らしいと表現される顔立ちかといえば疑問が残る。薄い唇から覗く狼のような八重歯。乱雑な髪に隠れて見えないが、額から鼻筋にかけて走る獸の爪痕。そして猛禽のように獰猛な光を宿したその眼。見る者が見れば、ラドゥが修羅場をくぐり抜けてきた歴戦の戦士だと見抜けるだろう。

 だから、ラドゥは可愛らしくなどない。

 もし大男がそう感じているのだとすれば、それは男の性的嗜好によるところが大きいだろう。

「どうだ、俺様の女になるってんなら、命は助けてやるぜ」

 のっそりのっそりと、野盗たちを掻き分け、大男がラドゥに近づく。

「やっぱり別嬪だぜ。なぁ、こっちに来いよ。悪いようにはしねぇぜ」

「諦めるしかねぇぜ、お頭は男でも女でもどっちもイケる口だからよ」

「それにお頭は欲しいものは絶対に手に入れるお人だ」

「そうだ。俺様は欲しいものはすべて奪うことにしてるんだよ。だから盗賊稼業やってるのさ」

 大男はゲラゲラ嗤い「捕らえろ」と手下に命じる。

 ラドゥの左右から二人の男が迫る。

 そんな状況だというのにラドゥの表情は一切かわらない。

「お前馬鹿だな」

 ラドゥは大男に冷たく言い放った。

「あ?」

「聞こえなかったか? 馬鹿だと言ったんだ。まさかそっちから近づいて来てくれるとはな」

 瞬間、ラドゥのマントが空中に放られた。

 大男の視界が薄暗い色の布に塞がれる。

 悲鳴が上がった。

 大男はマントを振り払う。

 ラドゥを捕らえようとしていた二人の男が地面で呻いていた。

 ひとりは右肩の関節を外され、もうひとりは左足を折られていた。

 ラドゥの姿はなかった。

「どこ行きやがったッ!」

「吠えるなよ」冷徹な声が下方から聞こえた。「俺は逃げたりしない」

 男の頭に血が昇る。

「おめぇ等何してやがる! さっさとこのガキを」

 ぶち殺せ、という言葉は下方から放たれたラドゥの強烈な掌底に塞がれる。自分よりひとまわりは図体の小さい若者が繰り出したとは到底思えない、とてつもない一撃。歯が折れる。腔内が裂ける。顎が砕ける。頭が揺れる。視界が捻れる。


『徹底的にやれ』

 模擬戦の最中の師の言葉。ガロが放った拳は防御の上からラドゥを吹き飛ばした。腕が痺れる。膝がいうことをきかない。立ち上がろうとして倒れ、地べたに這いつくばる。そんな彼の頭を平然と踏みつけ、ガロは凶暴に言い放つ。

『いいかラドゥ、てめぇを本気で殺しに来た野郎には手加減は無用だ。全力で屠り、徹底的に殺せ。周りにそいつの仲間がいるようなら見せつけてやれ。おめぇの危険性をもって敵の戦意を折るんだ』


 ラドゥは大男の膝に片足を乗せる。

 同時に、男が腰にいていた山刀を引き抜く。

 男の膝を起点に片足だけで軽々と跳躍する。

 冷たい風が吹き抜けたような感覚が男の喉をすり抜ける。

 刹那、冷たさは溢れ出る熱さに変わる。

 裂かれた喉から噴水のように血潮が噴く。

 空中で男の頭髪を鷲掴み、ラドゥは一気に男の背後に着地する。

 男の首が反れる。頸椎が折れる。傷口が広がる。

 血はさらに噴き出す。

 いつの間に拾っていたのか、ラドゥはマントを傘がわりに、返り血を防ぐ。

 この間、時間にして二、三秒。

「おい」ラドゥの冷酷な声が野盗たちの間に響く。驟雨のように降り注ぐ血の中に佇むラドゥの姿、マントの下から覗くその顔は氷のような無表情。この顔つきが野盗たちに及ぼす効果を、彼は熟知している。

 ゾッとするような声でラドゥは言い放つ。

「お前等、俺とるか?」

 野盗たちは蛇に睨まれたように動けない。

 その手と膝は震えている。

 一泊の間を置き、

「全員消えろ」

 その言葉と同時に、野盗たちははじかれたように逃げ出す。






 日が暮れる前に、隊商は街に到着した。

 幌の内側にいても、外の喧噪は手に取るように伝わってくる。

 じきに馬車は止まった。ラドゥは荷台から降りた。

 市場なのだろう、いくつもの露店が軒を連ねた円形の広場の隅にラドゥは立っていた。

 数刻もすれば夜だというのに多くの人間が行き交っている。ラドゥは驚きに目を見開き、しばらくの間往来を眺めていた。ガロに聞いてはいたが、外の世界は文字通り内側とは別物だった。こちらに出てきてから小さな集落や農村などには立ち寄っていたが、この規模の街を訪れるのは初めてだ。

 これほど人が多く、夜霧の気配がかけらもない。

「ここは俺が知るどこよりも安全だな」

 感慨深そうに独りごちる。

「あなたが私の隊商を救ってくださった御方ですか」

 不意に背後からの声をかけられ、ラドゥは振り返る。

 白い口髭を生やした初老の男性が佇んでいた。

 上品な身なりに柔らかな顔つき。まさに貴顕紳士といった雰囲気を纏っている。

「隊長に聞いたんです」紳士の後方に旅装の男が控えていた。隊商の先頭の馬車で見かけた男だ。隊長はラドゥに深々と頭を下げる。

 その顔に一瞬、怯えの気配が広がるのをラドゥは見逃さなかった。

 だが、無理もないだろう。恩人とはいえ、ラドゥは猛牛のような大男を軽々と、それも残酷に殺したのだ。あんな光景を見せられては、平然としてられるはずがない。むしろ彼は恐怖をよく隠している。

「彼で間違いないのですね」

「はい、この御仁が野盗の襲撃から我らを守ってくれたのです」

「そうですか」頷くと、紳士も深々と頭を下げた。「我が隊商の隊員たちには皆妻子がおります。今日野盗に殺されていれば、残された者たちは路頭に迷っていたでしょう。乗り合わせた旅人の中には幼い娘を抱えた母親もいたと聞いています。もしあなた様がいなければ、女子供は犯され、人買いに売り払われていたでしょう。あなたのおかげで多くの人が救われました。皆を代表して、などと言えばおこがましいかもしれませんが、本当にありがとうございました」

 もう一度、紳士は深く頭を下げる。

「別に俺は」

 俺のために殺しただけだ。

 そう続けようとして、しかしラドゥは口を噤んだ。

 こちらに出てきてから一つ学んだことがある。

 無闇矢鱈に本音を口にすると諍いが起きる。絡まれ、脅され、暴力を振るわれる。そういった争いにいちいち対処していてはきりがない。

「俺は、やるべきことをしたまでです」

 もう一つ、敬語を学んだ。丁寧な言葉遣いをしていれば難癖をつけられる機会が減る。臨戦態勢に入るとどうしても地が出てしまうが、それ以外の時間は極力本性を隠していこうとラドゥは決めていた。

『考え無しに人前で腕前を披露するなよ、ラドゥ。力は人を引きつける。無駄な争いは避けろ』

 ガロからも、そう教わっていた。

「やるべきことをしたまで、ですか。まだお若いのにしっかりとした御仁だ」

 にこりと笑い、紳士は隊長に目配せをする。

 隊長は頷き前に出ると、ラドゥに小さな布袋を差し出した。

 受け取り中をあらためる。金貨が三枚。

「護衛の三人に支払うつもりの報奨金でしたが、あなたに差し上げます。どうぞ役立ててください」

「いいんですか」

「もちろんです。むしろ、あなたに貰ってほしい」

 ラドゥは紳士と隊長の顔を順に眺め、少し考えたあと、納得したように小袋を懐にしまった。

「それじゃ、遠慮なくいただきます」

 そうして踵を返し、ラドゥは夜の街に踏み入った。

 紳士と隊長は彼の姿が雑踏に消えて見えなくなるまで手を振っていた。

 ラドゥはそれに軽く手を上げることで応えた。

 実は隊商の馬車に乗り込むときに支払った銀貨が、ラドゥの全所持金だった。せっかく街に着いたというのにまた野宿かと諦めていたが、なんとかなりそうだ。いいことはしてみる物だな、と思ったところで、思わずラドゥは苦笑した。

「まあ、人ひとりらすのがいいことなのかどうかは、わからないけどな」

 皮肉げに、そうこぼした。






 マントを外套掛けコートハンガーに掛け、ラドゥはベッドに腰掛けた。

 佩いていた剣はすぐ手に取れるように脇に置く。

 緩やかに湾曲した幅広の刃。斧刀コピッシュ呉鉤ゴゴウのようなその曲剣は、牙を剥く狼が彫刻された鞘に収められている。ガロの形見、魂と呼んでもいい。彫られた豺狼さいろうの横顔は自身の兇暴性を誇示するためのものか、あるいは戒めなのか。もはや確かめるすべはない。

 野盗どもには使わなかった。使う必要がなかった。

 強者と相対した時だけ抜けばいい。

 有象無象の血を流すために鍛えられた剣ではない。

 獸をころすための刃だ。

 寝転がる。

 天井の木目模様をぼんやりと眺める。

 ここ数日は歩き通しだった。大立ち回りとはいえないが、いくつかの争いも経験した。今日は人も殺した。疲労困憊、というわけではないにしろ、疲れが蓄積しているのは事実だ。市街を探索していると宿屋に行き合ったので、部屋を取った。久しぶりに屋根の下で眠ることができる。ありがたい。

 ラドゥは眼を瞑る。

 金は手に入った。金貨三枚といえばそこそこの額だろう。だがあてのないラドゥの旅路の路銀としては、少々心許ない。〈内側〉と違い、こちらでは貨幣の役割が大きい。何をするにも金がかかる。少なくとも、多く持っていて困るということはないだろう。この街を出る前に、もう少し手持ちを増やしておいて損はないはずだ。

「明日、仕事の口でも探すか」

 そう呟き、ラドゥは眠りに落ちる。

 静かな寝息。

 微動だにしない肢体したい

 そうして数秒が過ぎた。

 ガバリとラドゥは起き上がる。

 ぐるりと室内を見渡す。

 剣を手に立ち上がり、マントを剥ぎ取るように引っ掴み、部屋の隅で胡坐をかく。右手側に窓が見える。左手側に扉が位置している。この場所ならどちらからの襲撃にも即座に対応できる。剣を抱き、マントを深く羽織り、壁に背を預ける。二階の角部屋だ。壁越しの強襲はないだろう。もっとも、襲撃されてとしても避けられる自信はあるが。

 過剰な警戒だということはわかっている。街の中だ。襲われるはずがない。そもそも誰かに狙われているわけではない。

 それでも、こうしなければ落ち着かなかった。

「今日の馬車では鈍っていたからな」

『研ぎ澄ましてろ』

 呟きに、ガロの声が重なった。

『たえずな』

「ああ、わかってる」ラドゥは眼を瞑り、今度こそ眠りに落ちる寸前、記憶に向かって語りかける。「なにせ俺は、あんたの弟子だからな」






 翌日、ラドゥはその酒場を訪れた。


 仕事はどこで見つかるのか、宿屋の主人にそう聞くと、

「それなら街外れにあるビンスの店に行くといい」

 主人は気前よく教えてくれた。

 剣をき、マントを羽織り、ラドゥは宿を出た。

 今朝方早起きして井戸で血を洗い落としたマントはまだ湿っていたが、空は抜けるような青空だ。風も心地よい。着ていればすぐに乾くだろう。

 昼日中の街中は昨夜同様賑やかだった。

 商店、住宅、役所。

 男、女、老人、子供。

 さらには犬や猫まで。

 往来は人の臭いに満ち満ちていた。

「これでも地方都市だから小さい方だよ」

 宿の主人と話している際にラドゥが感想をこぼすと、主人は肩をすくめながらそう言った。

「首都はもっとデカいし、この何倍も人間が生活している。この街で驚いてたら心臓が持たんよ。お客さん、相当な田舎から出てきたようだね」

 そのようです、とラドゥは応えた。確かに田舎だ。辺境といってもいい。あるいは〈内側〉。外の呼び方でいうなら〈ケモノ〉。〈澱底オリゾコ〉ともいう。



 ラドゥは人混みを掻き分けるように歩き続けた。

 やがて閑散とした通りに出た。陋巷ろうこうというほど寂れてはいないが、どことなく退廃の気配漂う裏町だった。

 軒を連ねているのは酒場、木賃宿、それから娼館。うらぶれて見えるのは当然だ。ここは夜の街、日が沈んでからこそ輝く場所なのだ。

「ハアイ」

 ビンスの店を探して歩いていると、声をかけられた。

 酒場の壁にもたれかかるように、女が立っていた。

「お兄さん、私と遊んでかない?」

 ラドゥよりいくらか年上であろう女は艶然と微笑み、彼を差し招く。胸元の大きく開いた服装を着、下衣のスリットから生足を晒している。街娼かなにかだろうか。

 ラドゥは彼女に近づく。

「あら、なにお兄さん、いい男じゃない」女はわざとらしく嬌声を上げるが、まんざらでもなさそうに眼を細める。昨日の野盗が「可愛い」と称したように、ラドゥの顔立ちは整っている。さらに幼少からの絶え間ない鍛錬と激戦がその面差しに何か、一種凄絶な翳のようなモノをくわえている。ラドゥに漂うそうした気配は、良かれ悪しかれ魅力的だ。そこに男女の別はない。

「いい男にはサービスするわよ」

「いや、今日は遠慮しておきます」それより、とラドゥは通りに眼をやり「ビンスの店がどこにあるのか知っていますか」

「ビンスの店?」

 自分を買う気がないラドゥに落胆し、いささか声のトーンを落とした女だったが、すぐになにか閃いたように笑い、ラドゥを見つめる。「ああ、ビンスの店ね、あの店なら確か・・・うーん、何処だったかしら、思い出せないわねぇ」

 わざとらしく女は顎に手を当てる。

 その仕草の意味を察したラドゥは、懐から小袋を取り出し女に銅貨を数枚握らせた。このまま店を探してさまようよりこっちの方が手っ取り早い。それにこの銀子は棚からぼた餅。少しくらい無駄遣いしたところで罰は当たらない。

「ああ! 思い出したわ!」大げさにそう言うと女は酒場と酒場の間の路地を指さした。「そこの隙間を抜けた先、もう一本向こうの通りにビンスの店があるんだったわ」

「そうですか」

 礼を言い、ラドゥは路地に入った。

 日の当たらない、じめじめした地面を歩いて行く。

 半分ほど進んだ頃だろう、前方の路地の出口に人影が立ち塞がった。

 ラドゥは立ち止まる。

 振り返らなくてもわかる。後方も塞がれている。

「その坊や、金貨を持ってるよ」

 女の声が路地裏に響く。

 前後から、男たちの下卑た嗤い声が上がる。

「またか」うんざりしたようにラドゥは首を振る。昨日に引き続き今日もトラブルに巻き込まれるとは。「警戒心が足りてないのか」

 昨日の襲撃は不可抗力だったとしても、今回のトラブルは避けようと思えば避けられたはずだ。まず女に近づくべきではなかった。こんな真っ昼間から寂れた裏町に立っているなどおかしい。次に不用意に財囊ざいのうを取り出すべきではなかった。貨幣には価値がある。人に見せるべきではない。最後に、不用意に人の話を信じてはいけなかった。もう少し疑ってかかるべきだったのだ。皆が皆、善人なわけではない。

 おそらく美人局に引っかかったのだろう。情事は交わしていないが、結果は同じことだ。

「獸狩りなら遅れはとらないんだけどな」ラドゥはため息をつく。「やっぱりまだ、こっちでの勝手がわかっていないのかもしれない」

「何ぶつぶつ言ってやがる」

 屈強な男が立ち塞がるようにラドゥの前に立っていた。「痛い目に合いたくなきゃ、大人しく財布を出した方がいいぜ」

「俺からも忠告しておく。地べたを舐めたくなきゃ、今すぐ俺の前から消えろ」

 すでにラドゥは敬語をやめている。

 猛禽のような眼が、鋭く光る。

「何だと?」

「聞こえなかったか? 失せろと言っている」

「ガキが、ふざけたことぬかすんじゃ」

 拳を振り上げた男は、しかし次の瞬間、膝から崩れ落ちた。

 ラドゥの後方にいた者たちには何が起きたのかわからなかっただろう。だがそれも無理はない。崩れ落ちた男自身でさえ、自分がどうして倒れたのかわかっていなかったのだから。

 この場にいた誰ひとりとして、ラドゥの動きを捉えた者はいなかった。

 彼はただ、裏拳で男の顎を掠めるように叩いただけだ。

 目にもとまらぬ速度で。マントさえ揺らさぬ精密な動きで。

 白目を剥き、涎を垂らす男をラドゥは見下ろし、

「忠告してやってのにな」

 理解できないというように独りごつ。

「あんた等もこうなりたくなきゃ」

 最後まで言い切る前に、ラドゥはスッとしゃがんだ。

 これまた屈強な男が、背後から拳を振るっていたのだ。

 まるで背中に眼が付いてるかのようにその一撃をかわしたラドゥは、男に足払いをかける。渾身の拳骨が空振りし重心が揺らいでいた男は簡単に倒れ、同時にラドゥはすでに立ち上がっている。仰向けに倒れた男が意識を失う寸前に見たのは、薄汚れたブーツの側面に染みこんだ、獸の血染み。

 ラドゥの蹴りが男の鼻筋を砕いた。

 残りのひとりは二の足を踏んだように立ち止まっていたが、これほど面子を潰されて黙って逃げられるか云々と叫び、ラドゥに襲いかかる。

 が、男は半歩もいかないうちに鳩尾をラドゥの拳で打ち抜かれ、あっさりと倒れ伏す。

 賊は片付いた。

 あとは女だけだ。

「ち、違うんだよ、私はアイツらに脅されて、し、しかたなく」女は尻餅をつき後ずさる。「お、おねがい、許して」

 ラドゥの手が女に伸びる。

 女は身を守るように両腕で身体を掻き抱き、眼を瞑る。

 数秒が過ぎた。

 痛みや衝撃が来ない。

「なにを勘違いしているんだ」

 ラドゥはただ、掌を女に差し出しているだけだった。

 女はラドゥと掌を交互に見やり、恐る恐るその手を握ろうとする。

「それも違う」ラドゥは冷たく言い放ち「金を返せ」

「えっ?」

「金だ。先ほどあんたにやった銅貨、あれを返せ」

 女は弾かれたように立ち上がると胸元から財布を取り出し、口を開け、それから思い直したように財布をラドゥに差し出す。

 ラドゥは無言で財布を凝視する。

 その沈黙の意味を察し、女は動く。

「ま、待ってよ、いまコイツらの財布も集めるからさ、だから」

「俺は盗人じゃない」

 彼女の言葉を遮るように、ラドゥはため息をつく。

「俺が返してほしいのはさっきの銅貨だけだ。それ以外はいらない」

「ほ、ほんとうに?」

「いったろ、俺は盗人じゃない。身を守っただけだ」ラドゥは面倒くさそうに頭を掻く。「いいからさっさと金を返してくれ。俺には行くところがあるんだ」

 女は銅貨を数枚差し出す。

 受け取り、ラドゥは歩き出し、そして不意に止まる。

 女は彼を襲うために声をかけたのだ。だとすると先ほど彼女に聞いた情報は眉唾だろう。この路地を抜けても目的の店はない。

「しかたない、自分で探すか」

「その先で合ってるよ」

 ラドゥの呟きに、女が応えた。彼女は気絶した男たちの懐から財布を抜いているところだった。それを終えると今度は指輪や首飾りなど金になりそうな物を次々かっぱらっていく。ラドゥにかけられたその声はまだ震えていたが、生き残ったからには手ぶらで帰るつもりはないのだろう。抜け目ないというか、なかなかしたたかな女だ。

「ビンスの店なら路地の先、さっき私が説明した場所にある」

「本当か?」

「いまさら嘘ついてしょうがないし」

「まあ、それもそうか」

 しばらくラドゥは拳の中の銅貨を弄んでいたが「なあ」と女に呼びかけ、銅貨を放り投げる。

 彼女は空中で銅貨を見事にキャッチした。

「やるよ」

 ラドゥはそう言って歩き出す。今度は振り返ることも立ち止まることもしなかった。

「アンタ、変わってるね」

 背後で女がそう呟くのが聞こえた。

「ほんとう、今まで会った奴の中で、一番変わってるよ」





 ラドゥはビンスの店に入った。

「いらっしゃい」

 カウンターについた若い男が、だるそうにそう言った。

 店内は狭苦しい酒場だった。昼日中だというのに薄暗い店内では、数人の男たちが黙々と酒を飲んでいる。彼等は入ってきたラドゥを一瞥し、すぐに興味を失ったようにその酒面をジョッキに戻す。酒を飲んでいるというより、呑まれた側の人間のようだ。

「なんにする?」

 近づいてきたラドゥに、店員の若い男は気軽に話しかけた。

「飲みにきたわけじゃないんです」

「じゃあなに、仕事でも探しに来た?」

「はい」

 なるほどねぇ、と男は頷き、ラドゥをつぶさに観察する。「うちが斡旋してるのは力仕事だったり結構危険を伴う仕事だったりするけど」

「問題ないです」

「そう。まあ若いし、なんとかなるか。何か希望は?」

「特には。強いていえば、荒事は得意です」

「意外だね」パラパラとめくっていた紙から顔を上げ、男はラドゥを見る。「まあしかし、荒事は今はないかな。少し前なら隊商の護衛とか娼館の用心棒とかいろいろ口はあったんだけどね。うーん、今はないね。まあ、どっちにしろ君みたいな若者を雇うところはほとんどないし、無難に力仕事なんてどう? 今なら金払いのいい・・・いや待てよ、ひとつあるな。でもこれはなあ・・・」

「なんですか」

「いやね、数日前に飛び込んできた仕事なんだけどさ、正直誰もやりたがらないだろうし、現に依頼主もダメ元で持ち込んできたみたいなところがあってさ、俺もあんまり紹介したくない類いの仕事なんだよねぇ、なんていうか夢見が悪い」

「どういう内容ですか」

「荷運び」

 それの何が危険なんだとラドゥの顔に出ていたのだろう、男は苦笑しこう続ける。

「ただの荷運びじゃないよ。〈協会〉の〈狩人〉の荷物を運ぶんだ」

 つまり、と男は砕けた調子を消し、真剣に言った。

「〈獸狩り〉に同行するってことだよ」


           



          ※※※※※





「なんで私たちがこんな田舎に派遣されたわけ」

 ベルはかったるそうに椅子にもたれ、天井を仰いだ。

 長い銀髪が垂れ下がり、通路を通った店員が迷惑そうに避けて通った。

「この地方の一番近くにいたのが俺達だったからだ」対面に座るジャックがステーキを頬張り、フォークをベルに向け叱るように口を開く。「それよりその姿勢をやめろ。みっともない」

「口に物入れたまま喋るほうがみっともないでしょ」

「屁理屈をこねるな」

「それ使い方間違ってる」

「減らず口を叩くな」

「それはあってるかも」

 ベルは起き上がり、ジャックの皿からステーキを一切れ拝借する。

「あ、おいしい。私も注文しようかな」

「もう少ししたらロルフが戻ってくる。やめておけ」

「はいはい」ベルは肩をすくめ、窓外に目をやる。往来、夕焼け、吹き抜ける風。「この街は平和だね」

「この辺りはケモノの被害がもっとも少ない地方だからな」

平坦な土地フラットランドなんて呼ばれてるくらいだもんね。風も強いし山や森林は街からかなり離れてる。〈霧溜キリダマリ〉ができないわけだ」

「街に協会が常駐してないくらいだからな。絵に描いたように平和な街だ。羨ましいよ」

「ま、こんなところに住んでたら私たちは商売あがったりだけどね」

「確かにな。それでもやはり、こういう土地には憧れる」ジャックは苦笑し、腕を組んだ。丸太のように太い両腕にはいくつもの傷跡が見て取れる。彼は椅子に深く腰掛け、いくぶん鋭い目つきでベルを見た。「だが獸が発生した。完全に安全な場所など何処にもないというわけだ」

「だから私たちがいるわけでしょ」先ほどまでの浮ついた調子を消し、ベルも真剣な表情で答える。「私たち、協会の狩人がさ」


 どこからともなく発生する薄霧、通称〈夜霧ヨギリ〉。その夜霧が滞留し、視認できるほどの濃霧になってしまったものを〈霧溜マリ〉という。そして霧溜マリの中からそれ・・が現れる。原因はわからない。時空が歪んでいるのか、霧が異界と繋がってしまうのか、その一切が不明。そもそも夜霧自体がなぜ発生するのか解明されてない以上、それがどこから来ているモノなのかなどわかるはずがない。わかっているのは夜霧がおぞましいそれをこの世界に喚ぶということだけだ。

 狂い、殺し、人を喰らう理性なき化け物。

〈獸〉と呼ばれる、魔。

 そしてその獸に対抗するために組織されたのが〈協会〉。そこに属し、獸狩りを生業とする者たちを〈狩人〉と呼ぶ。


「しかしさ、見つかるかな」不意に真剣な態度を解き、ベルはまたもやだらしなく背板にもたれる。「報酬はかなりいいと思うんだけど」

「獸狩りに同行したい奴なんてそうそういないさ」

「じゃあなんで依頼なんてしたわけ」

「ダメ元だ」

「うわぁ」うんざりしたようにベルは声を上げる。「また荷物を自分たちで持たなきゃいけないわけ? 狩り場に入ったら警戒しなきゃいけないのに、荷物なんて持ってられないよ」

「今回俺達は山に入るんだ。食料と水を持たずにいけるわけないだろ」

「私たちにも〈走狗ソウク〉が派遣されないかな」

「走狗つきは二級以上からだ。諦めろ」

 走狗とは雑務をすべて引き受ける補助要員のような人物を指す。二級以上の狩人、あるいは合計戦力が二級以上と判断された猟団にのみ、協会から貸し出される。

「私とロルフが四級でアンタが三級なわけだし、三人合わせれば二級以上の実力はあるんじゃない?」

「かもしれんが審査に時間がかかる。それに最近は協会の支部に行く機会もなかったからな。まあ、今回は諦めろ。この仕事が終わったら申請してやるよ」

「絶対よ」

「生きて帰れたらな」

「おおかた伍號種ゴゴウシュでしょ? 楽勝じゃない」

「何が起きるのかわからないのが獸狩りだ。あまり舐めてかかるな」

「はいはい」

「まったくお前は」

 ジャックとベルがいい合っていると、二人のテーブルの前で、背の高い男が立ち止まった。

 男は無言で二人を見下ろしている。無口な男らしい。

「ようロルフ、遅かったな」

 ジャックの言葉にロルフは頷く。

「で、どうだった」

「馬車の手配は済んだ」

 ロルフは素っ気ない声で答えた。

「そうか。で、荷運びの方は?」

「請ける奴なんていないって」

 ベルが口を挟む。

「わからないだろ」

「アンタが言ったんじゃない、ダメ元だって」

「なんだ、荷運びがいない方がいいってのか」

「その時はアンタに持ってもらう」

「馬鹿野郎、俺が一番腕が立つんだ、お前が俺の荷物を持て」

「ハァ? レディーに向かって何言ってんの」

「驚いたな、お前は女だったのか」

「引き受けた奴がいる」

 口論を遮るように、ロルフがそう言った。

「だろうな、獸狩りに同行したい奴がいるわけ」そこまで言ってジャックはロルフを凝視した。「なに?」

「だから、引き受けた奴がいる」

「本当か?」

 ロルフは慇懃に頷く。

「やったじゃん」ベルが嬉しそうに笑った。「これで多少は楽になるね」

「まだ雇うとは決まったわけじゃないぞ」ジャックはベルを見る。「使える奴か確かめなきゃならない。一度会ってみないとな。その物好きな奴はどこにいる?」

「希望者は市場近くの宿にいるそうだ」ロルフが言う。「その辺りには宿は一軒しかないらしい。探せばすぐに見つかるだろう」

「なら、俺達から出向くとしよう」財布から銅貨を数枚テーブルに置き、ジャックは立ち上がる。「もうこの街で三日も無駄にした。これ以上獸を放っておけない。希望者が使えない奴なら置いていく。使えそうな奴なら連れて行く。どちらにせよ、明後日には出発する」

 ジャックは鋭い視線を仲間のふたりに注いだ。

「そろそろ気を引き締めろよ」

 彼の言葉に、ふたりはプロの表情で頷いた。






 宿の主人の呼び出しにラドゥが一階に降りると、見知らぬ三人の男女が受付の脇に立っていた。

 ひとりは背の高い仏頂面の男。

 もうひとりは銀髪の快活そうな女。

 最後のひとりは精悍な顔立ちの屈強そうな男。

 ラドゥは探るような目つきで三人を眺めた。あきらかに街ですれ違う住民とは雰囲気が違った。この三人からは血と暴力の臭いがする。昨日の野盗や昼過ぎの暴漢もその類いの臭いを漂わせていたが、しかし練度がぜんぜん違った。目の前の男女は洗練された暴力の気配を纏っている。そしてわずかに、獸の臭いも。

「お前が荷運びの希望者か」

 屈強な男がラドゥに話しかけた。

「そうです」

「そうか。俺はジャック。右にいるのがロルフ、左にいるのがベルだ」

 ジャックの紹介にロルフは頷き、ベルは軽く手を振る。

「はじめまして、俺はラドゥです」

「ビンスの紹介でお前に会いに来た。一応確認しておくが、本当に俺達と来るんだな?」

「はい」

「俺達は協会の狩人だ。狩人の仕事はただひとつ、獸を殺すことだ。わかるか? お前は獸狩りに同行することになる。命の保証はどこにもない。荷運びだろうが何だろうが、狩り場に入れば獸に狙われる。もちろん素人のお前の子守は俺達が引き受けるつもりだが、万が一ってこともある。お前はその辺のことをわかっていてこの仕事を希望したのか」

「はい」ラドゥは平然と答えた。「危険は承知の上です。そして、それ相応の報酬を貰えるということも」

「そうか」ジャックはしばらく押し黙っていたが、納得したように頷き「それじゃ、少し外に出よう。お前の能力をみたい。なに、簡単な体力テストだ、すぐに終わる」

 三人の狩人は宿を出る。

 ラドゥもそれに続く。

 外はすでに夜だった。市場の喧噪、露店から漂う匂いの合間に夜気が香る。

(案外、優しい人たちだな)

 三人の背中を眺めながらラドゥは思った。

(あんな風に脅しつけるような言い方をして、こっちに断るチャンスを与えた。極力素人は巻き込みたくないってわけか。悪い人たちではなさそうだな)

 黙々と考えていると、狩人の三人が立ち止まった。

 そこは市場から少し離れた位置にある広場だった。

 月明かりと外灯によりこの辺りは夜にしては明るかった。

「この中には土嚢が詰め込まれている」そう言ってジャックはラドゥの前に背嚢を転がした。「だいたいこれくらいの重量の荷物を運んでもらうつもりだ。背負ってみろ」

 ラドゥはしゃがみ込み背嚢を背負うと立ち上がった。大の大人でもふらつくような重量だというのに、ラドゥはまるで手ぶらのように、軽々と立ち上がっていた。

「へぇ」ベルが驚いたように呟いた。「そんな風に見えないけど、結構力持ちだね」

「確かに」とロルフが同意する。「立っ端はそれほどでもないが、筋力は申し分ない」

「そいつを背負って森や山道を行く。歩けそうか」

 ジャックの問いに、

「これくらいなら全然平気です」

 ラドゥは一通り実演して見せた。

 駆け足、段差の上り下り、片足立ち跳躍、等々。

 その行動すべてが野生動物のような身のこなしだった。「決まりだね」ベルが嬉しそうに笑った。「これなら十分働いてくれそうじゃん」

「ああ、そうだな」

 もういいぞ、とジャックはラドゥに声をかける。

 ラドゥは背嚢を下ろし三人の前に立つ。

「合格だ。お前を雇う」とジャック。「明後日にはこの街を出る。準備をしておけ」

「わかりました」

 ラドゥがそう答えると狩人の三人は各々別れの挨拶をする。ラドゥも頭を下げることでそれに応え、踵を返した。

「ちょっと待ってくれラドゥ、最後にひとつだけいいか」

「なんですか」

 背後からの声にラドゥは振り返る。

 ジャックが立っていた。

 ラドゥの眼が鋭く細められる。

 暴力を行使する寸前に動物が発する臭いをラドゥは嗅ぎつける。

 ジャックの重心が左足にかかっている。右拳の握りが左より堅い。視線がラドゥの中心線を捉えている。少しずつ筋肉が膨張していく。

 瞬間、ジャックの右腕が消えた。

(殴打、狙いは鼻面、そして)

 ラドゥは避けない。

(寸止めだな)

 思惑通り、ジャックの拳は鼻先に触れる寸前のところで止まっていた。

 ラドゥとジャックの視線が交差する。

 数秒、ふたりの間に沈黙が降り落ちる。

「ちょっと、それやめろってこの前いったじゃん」静寂を破ったのはベルだ。彼女はあきれたようにジャックの腕をとり、乱暴に下がらせる。「前にアンタが同じことをして希望者に逃げられたの、まさか忘れたわけ?」

「獸狩りに行くんだ、度胸も確かめなくちゃならない」

「そりゃそうだけどさ」

「手っ取り早く見極めるには、これが一番なんだよ。お前だって狩りの最中に錯乱した人間と一緒にいたくないだろ。俺達の仕事には、最低限の精神力が必要だ。わかってるだろ」

「そりゃそうだけど、もうちょいやり方が」

「あの、俺なら大丈夫です」ラドゥはふたりの会話を遮り、口を開いた。「少し驚きましたが、仕事の内容を考えると当然のことだと思います。それより、今度こそ本当に合格ですか?」

「ああ」しばしの間を置き、ジャックはラドゥの肩に手を置いた。「俺の拳を前にビビらないとは、正直予想外だった。大した玉だ、気に入ったぜ。荷運びはお前に任せる。狩り場でもその度胸を見せてくれよ」

「わかりました」ラドゥは淡々と、ただ事実を告げるかのように答えた。「期待してもらって大丈夫です」






「しかし、本当に驚いたな」

 ジャックは自らの拳を見つめながら呟いた。

「どうした」

 ロルフが彼の隣に立つ。

「いや、なに」ジャックは去りゆくラドゥの背を眺めながら先ほどの光景を思い出す。当てるつもりはなかったが、本気で突き出した拳だった。ジャックは三級狩人だ。多くの獸狩りを経験し生き残ってきた協会でも中堅の存在。そこいらの腕自慢とはわけが違う。血と泥に塗れながらギリギリの戦場をくぐり抜けてきた本物の戦士だ。そんな彼の拳が鼻面に迫ったのだ。大の大人でさえ悲鳴をあげておかしくない。

 だが、しかし。

「アイツ、瞬きすらしなかった」

 まるで拳を完全に見切られていたかのよう。

 ジャックの視界には、すでにラドゥの姿はない。

 あるのは市場の往来。

 鈍いのか、あるいはただの若造ではないのか。

「まあ、なんにせよ」ジャックは遠くの喧噪に向け、独りごちた。「使える野郎なのは確かだ」





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