《第1章》ティア x ウィリアム

*この章はお題表から「21/過去」「24/黒い感情」「13/遠雷」を提示しています。


 霧の帝都・図書博物館分室。ここでは本室に収められている資料の複写を取り扱っている。特に書物は熟練の技術者によって実物とほぼ相違ない形で複写・製本されており、それゆえに取り扱いも実物とさして変わることはない。とはいえ不慮の事故というのはやはりあるもので、先日書庫整理の際にいくつかの書物と立体物の写真が棄損してしまった。写真は再度の複製を依頼して書物は時間のあるときに司書兼学芸員の誰かが修繕するという手はずになっていた。

 そして空がどんよりしており雨も降り出してきたために利用客も少なく、司書たちにもある程度の余裕ができた日のこと。分室関係者のみが使用可能なエリアにある一室でティア・ヴァイルはひとり黙々と書物の修繕作業をしていた。ドアの外には『使用中』の立て札がかけられており、誰も入って来る事はない。

 ……はずだったのだが、不意にドアをノックする音が部屋に響き渡ってティアは思わず息を詰める。少し間を置いてまた同じ音。向こうは確実にティアがここにいる事を知っているようだ。観念して扉に向かうとドアのロックを解除した。



ウィリアム:「失礼するよ」


 ノックの主はそっと声をかけてから扉を開けた。彼の名はウィリアム・ドウェイン。背の高い彼は少し身をかがめるようにしてドアをくぐってからティアに微笑みかけた。腕には小さな布袋を提げ、ポットを抱えている。


ウィリアム:「やあ、作業お疲れ様、お茶にしないかい?」


 提げている布袋からは、控えめながら甘く優しいバターの香りが漂っていた。恐らく彼の手製のスコーンだろう。ささやかにかちゃりと鳴る音がして、布袋の中にカップと皿も入っていると推測された。


 こちらの返事を待たずに作業スペースを作っているウィリアムの布袋から漂うバターの香りをかいでようやく、ティアは自分がここに籠もるとき食べ物を持ってきていなかったことに気がつく。修繕するための本で両手がいっぱいだったのもあるけれど。そう自覚してしまうと腹がわずかに音を立てたのでウィリアムの誘いを素直に受け取ることにした。



ウィリアム:「連日修繕ありがとう。君の作業はいつも丁寧だから、助かっているよ。でも少し休まないとね」

 大きめのテーブルには修繕中の書物と修繕用具が広がっていたが、彼は器用に作業スペースを作ると茶器とスコーンを取り出した。


ティア:「これも仕事だから」

 椅子に座ったティアは準備を続けているウィリアムをぼんやりと眺めながらそれだけを返した。


ウィリアム:「淹れたてでなくてすまないけれど、いい茶葉が手に入ったんだ」

 締め出されていたことには触れずに、準備に取り掛かる。


ティア:やがて一番会いたくなかったひとが、いつもと変わらぬ表情で目の前にカップをそっと置いてきた。淹れたてではない筈のそれからはとても良い香りが感じ取れてティアのなかでざわついていた心がほんの少しだけ落ち着いた。



ウィリアム:「仕事を丁寧にできるのは美徳だよ。君がいてくれてよかった」
 

 スコーンの皿とジャムの瓶をティアの目の前に置いてから、自分のためのカップにも注ぐ。

「お茶を提供する代わりに、僕もここで休ませてくれ」
 

 強引さを自覚しているような笑顔で彼は彼女の向かいに座った。


ティア:「……あまり長居しなければ。どうぞ」

 なかなかにあんまりな言い方ではないかとティア自身思うのだが、きょうばかりは感情をうまく制御できる自信がなかった。



ウィリアム:紅茶を飲みながらスコーンを割り、ジャムをつけて口に運ぶ。何気ない様子で

「そうだ、グレイスと何だかかみ合わなかったみたいだね。彼女、少し言い過ぎたと言っていたよ」
年配のベテラン司書の名をあげて、穏やかに笑みながら紅茶を飲む。

「今日はいいから、明日にでも少し話すといい」



ティア:ティアもウィリアムと同じようにしながらスコーンを少しずつ食べている途中でグレイスという言葉を聞いて胸がどきりとする。きのう、言葉が足りなかったばかりに彼女を困惑させてしまったからだ。それをウィリアムがどこからか耳ざとく聞きつけたのだろう。

 いつも上手く伝えられずにこうした小さな諍いを起こしてしまいがちなティアをフォローしてくれるウィリアムには正直感謝している。その気遣いはティアだけでなく周囲の職員たちにも向けられている。もはや分室にとってなくてはならない存在だといえるだろう。



ティア:「……うん、明日、もう一回話してみる。その、ありがとう」
 

 そう言ってティアは紅茶を口に含んだ。穏やかな時間が流れていく間にも雨は降り続けている。


ウィリアム:礼を言われて柔らかく「どういたしまして」と答える。

 もともと饒舌な質ではないティアとの会話は途切れがちだが、その合間に聞こえる雨音が強くなったのを感じた。


ティア:ティアの持つ常人よりも聞こえの良い耳は、先ほどより激しくなった雨音を拾ってしまう。それに揺さぶられて感情がだんだんと黒く塗りつぶされていく。このままでは初めて出会ったときのようにウィリアムへと爪を立ててしまうかもしれない。それだけは避けたかった。


ティア:「……ごめん、なさい。やっぱり、もうすこししたら、出ていってくれる……?」
  

 ティアは絞り出すようにその言葉を口に出した。



ウィリアム:初めて出会ったときも、こんな強い雨の日だった。同じ木の下で雨やどりをしようとした彼女を見かけて、持っていた大きめのタオルを差し出そうとした。あまりにずぶ濡れだったので頭からかけてやろうとしたのが災いして、怯えた彼女にその鋭利な爪で引っかかれたのだ。

 人狼の血を引く彼女は同じ年頃の少女たちとは違うものを見せられ、味わわされてきたのだろうと後で気付いた。それは無粋で失礼な推測かもしれない。だが、時折怯えや苦しみ、敵意を帯びた目を周囲に向ける彼女に、胸が痛んだ。

 彼女が菓子や紅茶を口にした時ほんのわずかに垣間見せる穏やかな表情との差が、あまりに辛くて、こうしてつい甘やかしてしまうのかもしれない。この柔らかな表情を他の者も見れば、彼女への見方が変わるかもしれない。

 いつかお茶を分室の皆で気兼ねなく飲めるようになればいい、そのきっかけを作りたいのもあって彼女をお茶に誘っている。余計なお世話だと思う。それでも、やわらかな空気を彼は愛していた。その中に彼女もいて欲しいと心底願っていたのだ。

「出ていって」という絞り出すような言葉を、どんな思いで口にしたのだろう。腹を立てるより痛ましさで胸が詰まった。
 

 彼女に「僕はあの日傷を負ったことなど気にしていない」と伝えても辛くなるばかりだろうから、口にはしない。その代わり「明日はサンドイッチも持ってくるよ。一緒に食べよう」と、茶を飲み干してから言った。


 言外に「明日も一緒に過ごそう。君を独りにはしない」と伝えたくて。彼女がいつか人々の間で過ごすことも一人の時間を過ごすことも好きなだけ選べるようになればいいと思った。それが霧の騎士として組む自分でなくて構わない。傲慢かもしれないが豊かに生きて欲しかった。

 とりあえず、出ていけと言えるのはある程度安心してものが言える間柄だからだろう、と良い方に解釈して、茶器を片付け始めた。



ティア:ウィリアムがかけてくれた言葉の意味を考えようにも強くなる一方の雨音に遮られて上手くいかない。ティアはただ自分の手をきつく握りしめていた。

 そうしているうちにウィリアムが片付けを終えてこちらにいったん背を向けた途端、ティアはそこを引き裂きたいという黒い感情に支配されてしまう。

 過去のあやまちを繰り返してはいけないと思うのに身体は止まってくれなくて、あっという間に椅子を蹴って机の上を飛ぶと目の前すぐに迫った背中に手を置いてしまったその瞬間、遠雷が轟いた。原始的な恐怖からかそのまま身体が固まってしまったのは幸いだった。



ティア:「はやく、はなれて……!」



ウィリアム:切迫した声と背中に置かれた手の感触に振り向いたウィリアムは、そっと彼女の手を取り、ひざまずいた。



ウィリアム:「僕の剣。忘れないで、僕は君の鞘、パートナーだよ。君の苦しみも痛みもすべて分け合いたいんだ。君が僕を引き裂きたいならそれすら受け止められる。でも君はそれを望まないんだろう?
だったら、僕にその苦しみを吐き出してくれ。ちゃんと受け止めるから」

 指先にそっと唇を寄せて、すぐ離す。


「大丈夫だよ。僕が生きている限り、独りにしないから」
 

 耳と目を隠すように纏うフード。その奥で揺れている瞳にウィリアムは視線を合わせた。



ティア:ウィリアムのくれた言葉は、固まって動けないでいるティアの心にひどく染み渡った。指先に一瞬だけ柔らかい感触が当たって離れたと同時にまた雷が鳴った。そこでようやくティアは身体を動かすことができたがそのまま床にへたりこんでしまった。顔をあげてウィリアムと視線が合った瞬間、瞳を射貫かれてしまう。


ティア:「……わたしの一族は、わたしの姿を先祖返りだともてはやしているけれど、この姿で良かったことなんて、一度もなかった」
 

 そんな言葉がぽつりと口をついて出てしまった。



ウィリアム:小さな呟きを聞き逃さぬように耳をそばだてて。


「君にとって、その姿は辛いだけだったんだね。でも、いつも沢山のことに気付いてくれて、細やかな作業を得意としていて。君の瞳と手は、僕から見ればとても美しく尊いものだよ」

 手を取ったまま、へたりこんだ彼女から視線を外さずにひどく真面目な顔で。
「僕の瞳の色だって、珍しがられるくらいならましさ。気味悪がる人の方が多い。それでも僕は僕だ、君が君であるように。それはとても残酷なことだ」


ティア:「……そうなの? あなたの瞳は、その、きれい……なのに」


 誰にでも好かれると思っていたウィリアムが、やはり自分ではどうすることもできない外見が原因で疎遠にされてしまうという事実にティアは内心驚いた。ウィリアムに取られたままの手からは、彼の温かい熱がじんわりと伝わってくる。


ウィリアム:「そういうものさ、自分と違うから排除する。僕だって、きっとそういうところはある。気付かないうちにね。実際、僕が今受け入れられず放置できないのは、この世界を正しく終わらせたい人の願いかな」少し笑って。

「それ以外は、きちんと向き合って受け入れられなくてもあることを認めたいと思うよ」

 一呼吸おいて「僕は君を苦しめるものが君自身だというなら取り除くことは出来ない。だって、こうして手を取りたいからね。君が自分の姿を厭うとしても、僕は厭わないよ。それが嫌なら困ったな……どうしたものか」

 苦笑して「君には、笑っていて欲しいんだけれどね」



ティア: もう一度雷が鳴ったことで、ティアは自分のなかに渦巻いていた黒い感情が落ち着いてきたかわりに優しい気持ちが流れ込んできていることに気づく。『この姿を厭わない』と真っ直ぐ言ってきた人間はウィリアムがはじめてだった。それに報いるにはどうすればいいだろうかと考える。

「……あした、晴れていたら……、昼休みに、公園に」

 そこまで言うと恥ずかしくなってしまい、口を結びうつむく。



ウィリアム: 彼女の緊張が和らいだのを見てほっとした表情で。

「ああ、公園はいいね。サンドイッチとスコーンと紅茶をもっていこう。もしかしたらアイスクリーム売りが出ているかもしれない。揚げ物売りもね。そうしたらその辺も買って食べようか」

そっと中腰になって手を引く。

「さ、床の上は冷えるよ」



ティア:「……正しく終わる世界と、そうでない世界の違いって、なんなの、かしら……」
 

 ティアはそう呟いてウィリアムに手を引かれながらようやく身体を起こす。それから思った言葉を口にしようかと少しばかり悩んでしまう。


ウィリアム:「選ぶものの違いだと思う。僕は抗い続けることを望む」

立ち上がった彼女の手をそっと離し、耳を傾け。


ティア:選ぶものの違いとはなんだろうと思いながらも、傾けられた耳に届くようこう告げる。

「あの……ひとつ、お願いして、いい? その、アボガドを中に挟んだサンドイッチも、食べたい、の」



ウィリアム:「アボカド、いいね。エビと一緒にホースラディッシュを混ぜたマヨネーズソースをかけるのも流行りだけど、どうする?」

茶器を袋にしまい、一つ残ったスコーンを包む。

「どちらの世界もいつか終わる日が来るとして、自ら終わりにする世界と最後まで抗い続ける世界と、笑顔はどちらが多いのか。そんなことを考えているよ。結論はまだ出ない」


 スコーンを手渡し「後で小腹がすいたら食べるといい。明日は二種類のスコーンを焼いてこよう」



ティア:「難しい、話ね……。ウィリアムは、笑顔の多い世界が、好きなのね」
 それは普段の周りに対する行動からも明らかだなとも思いつつティアはそう返してスコーンを受け取る。あとでまた小腹が空いたらいただこうと思う。


ウィリアム:「考えれば難しいから、僕は自分の心に正直になってるよ」頷いて「帰りに色々買って帰るとするか。楽しみにされたなら、腕を振るうとするよ」



ティア:「ソースも、お願い。……その、スコーンも。楽しみにしている、わ」

 気持ちをちゃんと言葉に乗せて伝えようとすると、どうしてもたどたどしくなってしまう。もう少しだけでも上手くしゃべれるようになればいいのにと思いつつ


「それから、きょうは……ありがとう」

そう伝えるとティアは口を結んで作業に戻るべくまた椅子に座った。



ウィリアム:破願して「こちらこそ、いいお茶の時間だった」

彼女が座ったのを見届けて袋とポットを手に取り

「じゃあ、明日。晴れることを期待しよう」

 鍵を閉めずに少し開けておいた扉を開け放ち、彼はまた身をかがめて出て行った。お茶とスコーンの香りだけが部屋にわずかに残された。



ティア:「ええ。それじゃ、また明日」

 見送るときにもう一度ウィリアムの背中が目に入ったが、今度はまったく衝動がわき起こらなかった。どうやら完全に落ち着いたようだと安堵する。気がつけば雨音も気にならなくなっていた。

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