第50話 ハルと小夜

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 薄らと月明かりが降りる戦場に朱の花弁が吹雪く。

 殺伐とする景色の中に狂気を溶かす伝説の化け物。

 黒鉄の大百足は、再び忌み地に降臨した。

 赤鬼は愕然とする。僧侶は口を引き結ぶ。銀の猫は黙して見つめた。

「小夜月……」

 鬼面の女の重々しい声。悲しみを孕んだ声を聞きながら、笛は天に昇った月を見上げた。

 夜空に光の粒が一つ現れた。――来たか。

 光点が明るさを増していく。光が青き焔のように揺れ始める。

 闇夜にいずる人影、月を背負う少年は、天空を見上げる大百足を愛おしそうに見つめた。

 祈るように俯く。笛は重ねた手を強く握り込み胸を押さえた。

 苦しい。この切なさは、とても苦しい。

 哀傷が胸を締め付ける。笛は、息をすることさえ忘れてひたすら願った。

 ――来る結末にどうか幸がありますように。

 刮目せよ、耳を澄ませ。最後の戦いが始まろうとしている。

 大妖怪の咆哮を聞く。百足にはもう愛らしさは見えない。あれ程ハルに懐いていた小夜が真に化け物と化した事情までは分からないが、それでも、この事態が不可避であったことはハルのあの目を見れば分かる。

「面白いことになった。これは何という巡り合わせか、ここで限界を迎え順化するとは」

 愉快と笑う冨夜の声。一同の者が大百足を見て息を呑んだ。

 地に降り立つと、ハルは百足を見定めたま一声、「綺羅」と神器の名を呼んだ。

 笛の手から大刀が飛び立つ。ハルはチラリとこちらに眼を向けた後、すぐに小夜へと視線を戻しそのまま「ありがとう、生き延びてくれて」と話した。

 そこに無敵の陰陽師の姿はなく、ハルは、あの日みた制服姿の少年に戻っていた。だが、少しも不安を感じなかった。

 ハルが下がれと手を向ける。笛は黙って頷き距離をとった。

「小夜」呼んだ声は物静かであったが、そこに何か強い意志を感じさせた。

 ハルがゆっくりと大刀を引き抜くと、漆黒の刀身がゆらゆらと月の明かりを反射する。 

「見物だな。蒼樹ハル、どこまでやれるのか、見せてもらおうか」

 冨夜は、ひとり楽しげだった。

 首を擡げた大百足が巨体をくねらせハルに襲いかかる。噛み殺そうと牙を剥き、押しつぶそうと身体を鞭のように翻す。小夜は間隙を与えず向かっていった。

 皆が見入っていた。笛は己に課せられた義務のようにその戦いを見届けようとした。

 大百足は訴えている。――殺して、殺して、と。

 その嘆きの声をハルは淡々と受け止めていた。彼の表情から思いは見て取れなかった。何も語ることをせず、ひたすら攻撃を受け止めて、受け流して。

 一心に小夜を見つめる眼差し。一向に攻勢に出る気配はないが、決め手を欠いているようには見えなかった。むしろ余裕をみせるその振る舞いは、膠着している戦いを少しでも長くと惜しむような気配さえ感じさせる。

「どうした! 生温いぞ、それでも名ある大妖怪か!」

 冨夜が檄を飛ばす。

 笛は眉を寄せた。蒼樹ハルの狙いが分からなかった。

 殺せと訴える百足とまるで殺意を見せない少年。

 小夜とハルはこの戦いの先に何を見ているのか。

 彼に殺気はない。思えば、彼には小夜を殺せる道理もない。そもそも彼は命を奪うことを厭う。そのことは蜘蛛との戦いをみて理解していた。

 蜘蛛のときのように無力化するつもりなのだろうか? その上で、死を願う彼女を救おうと考えているのか――いや、違う。どこか迫力が違う。

 笛は胸に迫る悲壮感の正体が掴めずに困惑した。

 この殺意なき戦いの意味するところは何か。

 もしかして……。

 笛は、身に羽織る錦をみた。

 まさか……。

 誰かを救うために己を犠牲にすることを躊躇しない。それが蒼樹ハル。

 ならば、もしかすると彼は小夜の為に死のうとしているのではないか。

 ありえる。死が小夜を救う手立てなのだとしたら、彼は喜んで身を捧げてしまうだろう。

 いても立ってもいられなくなり、笛は身を乗り出した。

 ――ダメよ! それは、ダメ! 

 心が叫ぶ。しかし思いは言葉にならなかった。

 やめろというのは簡単だ。止めに入ることも出来る。だが、動けない。笛は戸惑った。直感は語っていた。割り込むことは許されない。胸に芽生えた希望は自分だけのもの、そのような保身で二人の戦いを穢すことなど出来ないと。

 どうすればいいのか。せめぎ合う気持ちの狭間で遣りきれなくなり項垂れる。その時、何者かの手が笛の肩に降りた。

「……あなたは」

 聖人殺しと呼ばれる男が傍らで戦況を見ながら呟く、「見守るがいい」と。

 男は百足の父を名乗った。小夜の父親は語った、死ぬより他に手立てがないのだと、この死地は娘が選んだ。蒼樹ハルの手により始末を付ける。それが娘の道なのだと。

「まったく、甘い男だな」

 ハルを見る藤十郎の目は優しかった。笛はこみ上げる思いを飲み込んだ。死出の旅路を見送る父親の思い。その深い悲しみを受け取るだけで言葉も出ない。

 ――父様、私と一緒にこの戦いを見守って。笛は正面を向き拳を握る。

 戦いは更に苛烈さを増すがそれでも戦況は動かなかった。

 とうとう百足が焦れた。何をしているのか! と、小夜がより大きな声で吠えた。

 それでもハルは口を固く結んだままで切っ先を上げようとしない。それどころか……、

「蒼樹ハル、あなた……」

 知らぬ間に頬に手を当てていた。意図せず零れ流れた涙。口から嗚呼と掠れた息が漏れ出た。笛はハルの目に涙を見ていた。

 やけく隠れ、さ夜更けて天に昇る。欠けた月は美しくどこか物悲しかった。

 唇を震わせながら天を見上げる。笛は繰り返される咆哮を嘆きのように聞いていた。 

 ――儚く悲しい戦い、これも愛しみ。

 小夜を見て、ハルを見て、父親の顔を見る。それぞれの心中に思いを馳せる。あなたは何を思うのか、そう藤十郎に尋ねようとしたときだった。二人の戦いに異変が起きた。響く下劣な笑い声。空から地を穿つ複数の光の線を見る。

 貫かれた百足が悶えながら地に伏せた。

「下らぬ、いつまでやっているのだ」

 吐き捨てる冨夜は、戦場を見渡し蔑んだ。咄嗟にその場にいた全ての者が構えを取る。冨夜は、飽きたと言い放ち始末を告げた。

 笛は太刀を抜き敵に向けて構えた。あの黒の外骨格を易々と貫く敵に対してどこまでやれるかは分からない。しかし、こいつだけは許せない。 

「貴様は!」 

 怒りと共に前に出る、が、その笛を制するように、お止めなさいと黄櫨が声をかけた。怒気が納まらぬまま顔を向ける。何故と強い目で問うた。

「太刀を収めるのです」

 銀の猫がダメだと首を横に振る。煮えくりかえる腹の底、笛は悔しさを噛みつぶす。 

「流石は叔母上だ。よく分かっておられる。娘よ、命拾いをしたな」

 だが、それも一時のこと、冷ややかに言うと、冨夜は続けて鼻で笑った。

「分かっておらぬのはあなたの方ですよ、冨夜殿」

 たしなめる黄櫨の言葉はどこか冷酷さを伴っていた。

 そこにある含意をどのように受け取ったのか、冨夜はカラ笑いを吐いて黄櫨を小馬鹿にする。世迷い言を、と言って戯けた。

「天意はもう止まらぬ、分からぬのか?」

 藤十郎がハルの方に視線を投げ、よく見ろと冨夜に促す。

 天意と言うが、そのようなあやふやなものがどうというのか、笛は懐疑を抱きながらハルらを見た。そこには、傷を癒やして向き合う二人の姿があった。

 傷も何もなかったというようにして再び向き合うハルと小夜。彼らは冨夜のことを全く意に介していなかった。

「おのれ、下賤の身分で馬鹿にするか! 許さぬぞ」

 放置された冨夜は怒りの形相でハルと小夜の前に立った。

 ――だが……、

 彼らは、まるで眼中にないというように冨夜を無視して戦いを続けた。

 ついに癇癪を起こす。冨夜は当てこするように、次々と武器と術を駆使した。だがしかし、それも何処吹く風、小夜とハルは傷つけられても直ぐに治癒して立ち直り互いを見つめ合う。外野には目も向けなかった。あげく、冨夜は仲間はずれにされた子供のように小夜とハルの戦いを眺めながら立ち尽くしてしまった。

 信じられないものを見ている。

 気が抜ける四肢、開く唇、呆気に取られて頭も働かない。

 緊迫感のある光景を見ているはずなのに失われていく緊張感。ハッとして周囲を見回すと、赤鬼がぽかんと口を開いていた。坊主はやれやれと呆れた様子。黄櫨と鬼面の女はジッと見つめ、藤十郎は何やら思案しているようだった。

 何が起きているのか、夢でも見せられているのか。

 笛が首を傾げたその時、――なんだ? 笛は空を見上げた。

 ポツポツと顔に落ちてくるそれは、

「来たか!」

 ハルの声に驚き、笛は身体をビクリと震わせ我に返った。

「小僧、お前という奴は。よもやこの異界に雨を降らせるとは」

 藤十郎が、俯き苦笑を隠した。

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