第51話 銀河降る

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 銀の雫がひとつ、ふたつと降りてくる。

 数多の雫はやがて白銀の線を成して地を濡らした。

 異界の西方、猿翁の領に雨が降る。

「なんだこれは、何故このようなことが……」

 すっかり毒気を抜かれてしまった冨夜は、砕けるようにして地に腰を落とし雨模様を見た。

 ――まるで、星が降っているよう。

 夜明け前の星空から落ちる雨。その光景は笛から現実感を失わせていた。

 空は晴れていた。しかし雨は止めどもなく降りてくる。土砂降りというほどの雨量ではないが、髪も衣服も重さを感じさせるほどに濡らされていた。だからといって雨は肌寒さを感じさせなかった。

 暖かい、まるで春の雨のよう……、いったい何が起きているのか。彼女は雲の上を歩くようにフワリとした心持ちを何処かに落ち着かせようとした。

 誰かが「天意」と呟いた。聞いて更に戸惑う。何が起ころうとしているのか、このような幻想的な雨模様を笛は見たことがない。

「小僧、ようやく心を決めたか」

 傍らで藤十郎が独り言を呟く。

 ぼんやりとしていた笛の心が急旋回をして現状を認識させる。皆が固唾を呑んで見つめる先に戦いを止め向き合う二人の姿があった。

 雨に濡れるハルと小夜。小夜の黒鉄には無数のヒビが認められた。一方、前髪から雨を滴らせるハルは愛おしそうに相手を見つめていた。

 ハルの顔を見た途端に、胸の内側で鼓動が鳴いた。せり上がる感情を抑えようと手で口を塞ぐ。笛は悟った。ハルの流す涙が終わりの時を告げている。

「僕は、君を殺す」

 なんて優しい目をするのだろう。

 だがそれがとても悲しい。

 笛は、胸に温もりのようなものを抱かせ一心に二人を見つめた。

 殺しに来る敵でさえ救う者。命を奪うことを心底忌避する彼の、初めての相手が小夜。

 笛は祈った。――どうかその死が報われますように。

 もう何も言うまい、これは小夜と彼が決めたことだ。笛は流れる涙をそのまま雨に溶かした。

 ハルが大刀を持ち上げる。

 そっと目を閉じ、祈るようにして刀身に口付けをした。

 ハルに覚悟を認めて小夜がゆるりと首を下げる。

 ――何故だろう、百足が微笑んで見えるのは。

 目を開くと、ハルは切っ先を向けた。構えると直ちに前に踏み込んだ。

 ゆっくりと夜陰に沈んでいく大百足。

 巨体が地に伏すとその黒鉄を降りしきる雨が打った。

 一瞬の静寂の後、耳が地面を叩く雨音を取り戻す。

 雨が強くなっていた。見上げると月は姿を消し、東の空が薄らと明るくなり始めていた。

 ハルが小夜の頭部から大刀を引き抜く。途端に黒鉄が爆ぜた。 

 これで、全てが終わった。

 悲哀を胸に納め、ハルの元へ行こうとすると、俄に背筋に悪寒が走る。――なんだ? 

「ククク、ヒッヒッヒッ、アハハハハ!」

 冨夜が卑屈な笑い声を放った。

 笛は、圧倒された。驚愕の光景を見ていた。

 白煙の中に煌めく純白の鱗。猛々しく咆哮を上げる白龍が姿を現した。

「やはり、あいつでも無理だったか」

 希望を打ち砕かれた父親が悲痛な胸の内を語る。

 何が起こったのか、これで終いではないのか。終わりでないというのならば残酷。

 天は何故このように過酷な定めを与えるのか。湧き出る疑問を消化できぬまま、笛は藤十郎を見た。

 そんな笛の様子を見て、小夜の父親は応える。

「確かに悪しき形骸は祓えた。だが、黒鉄の無限牢獄に順化してしまった荒魂までは取り戻せなかった」

 藤十郎が厳しい目で語尾を括る。手遅れだったと。

 笛は、どうすればいいのか、何か出来る事は無いのかと言いかけたが、悲痛を帯びる藤十郎の方が間を置かず終いを語った。「無念だ」

「小童が、最後の最後にとんでもないものを引き出しおった」

 ざま無いことだと侮蔑の眼差しでハルを眺める。冨夜は壊れたように笑っていた。

「かくなる上は、一命をもってこの手で」

 藤十郎が槍を手に前へ出る。

「馬鹿が、天命もなしに竜殺しなど出来るものか! お前にも、あの蒼樹ハルにもな」

 もはや為す術もなし、地獄が来るぞと言い放つ。一同が瞠目すると、愉快といって冨夜は童の如く腹を抱えた。 

 その場に動く者はいなかった。本当にこれまでなのか。笛は白龍とハルをみた。

 荒々しく滾る真紅の眼、白龍が巨体をくねらせハルと対峙する。

 ハルは、尚も変わらず穏やかな眼差しで見返していた。

 相変わらず降り止まぬ雨。その雨の空を一時見上げた後、瞼を閉じハルは深呼吸をする。彼の眼は死んでいない。まだ諦めてはいないのだろう。しかし、いったい何をするつもりなのか。笛は案じながら行く末を思う。と、ハルの瞳がカッと開いた。

「藤十郎さん! 小夜を僕に下さい」

「…………」

 しばしの沈黙の後、この期に及んで何を馬鹿なことをと言いながら父親が目を丸くする。藤十郎は、間の抜けた空気にげんなりとしながら困惑を見せた。

「だから、娘さんを僕に下さいといっています」

「馬鹿か! お前、情況を考えろ」

 売り言葉を買うように父が反論した。どこか焦点がずらされたような場違い感。そこにはもう戦いも何もあったものではない。

「どうせ僕は人です。竜の生涯に比べれば寿命は短い。直ぐに死にますから、少しの間ですから、だから許しを下さい」

「…………」

 訳が分からんといって藤十郎は困惑する。

「小夜を助けるためです! さあ、早く許可を」

「……あ、ああ。まぁいいだろう」

 不機嫌になった父親が、渋々承服する。するとハルは真正面から白龍を見据えて柏手を一つ打った。

「白龍よ、君に名を渡す。契約を受けよ!」

 ハルが宣誓すると、白龍は何かに縛られたように藻掻き始めた。

「これは呆れた。古今東西、竜を使役出来た者はおらぬ。竜はそこいらの柱とは比肩できぬ、全く別物の神。愚かな、まっこと愚かな」

「煩い! 外野は引っ込んでいろ!」

「なぬ! お前……この私を誰と」

「知らない。どうでもいい」

「許さぬ! これは捨て置けぬ。私を無視して戦いを続け、今また愚弄する。こんなことがあって堪るもの――」

「聞こえなかったのか? 僕は、黙れと言った」

 冨夜の御託に目をつり上げる。苛々した様子で睨み付けた。その圧倒的な怒気に気圧されて冨夜が後退る。いいから黙って見ていろと命じた後、ハルは再び白龍へと視線を戻した。

「白龍よ、その真名を変じる。受け取れ! そして僕の元に来い! 君の名は――『シラユキ!!』」

 叫んだ瞬間、ハルの身体から覇気が迸った。

 神業を見せられた冨夜が堪らず「ひい」と情けない声をあげて身体を竦ませる。

「なにを、この男は、なにを……、母上」

 目を泳がせながらガチガチと歯を鳴らす冨夜。

「五行の摂理を冒したお前はもう終わりだ」

 ハルが、チラリと横目で冨夜を見て終いを告げた。

 雨は小雨となり辺りは白む。いよいよ陽が昇り始めた。

 朝陽に照らされてハルの姿が輝く。

 来たぞと彼が指さすと明けの空に虹が架かった。

「これは、何が起きたのだ」

 藤十郎が訝しみながら空を見上げる。

「ほっほっほ、異界の律、神々は摂理を用いて均衡を図るという。よもや、生きている内に涅槃の虹を拝めようとはの」

 白の長髪にボロの外套、顔に着ける猿面を見て笛は首を傾げた。

「白眉、今更なにをしに来た」

「いうな、藤十郎。下手に動けば、この儂とて、五行の粛正を受けかねぬ」

「今になってそれを言うのか、あれほど蒼樹ハルに肩入れしておいて」

「まま、良いではないか、それよりも」

 猿翁白眉がハルと白龍の方を流し見る。

「白眉様! その、涅槃の虹とはあの魚の――」

「ん? あのような陳腐なものが天の力であるはずがなかろう」

「はあ……」

「そのようなことよりも、もっと面白きものが始まる。これ程の奇跡に巡り会えたは僥倖、お前も見逃すな」

「……奇跡?」

「あの小僧が降らせたこの雨は『銀河ぎんが倒瀉とうしゃ』と呼ばれるもの。銀河は天の川、倒瀉は逆さまになって流れ落ちてくること。『銀河、さかしまにそそぐ』と訓に読む、よもやこの異界に、慈雨を降り注ぐとはの」

「……銀河倒瀉」

「ほれ、始まったぞ」

 翁が嬉しそうに声を上げる。すると、辺りの一帯が虹色の光に包み込まれた。

 魚に食い荒らされた荒れ地に異界の草木が芽吹き始める。

「なんだ? 森が、命が」

 信じられないと呟いたまま身が固まる。歓喜の震えを止められなかった。

 奇跡を見ていた。時を戻すかのように次々と命が蘇っていく。

 草も木も、猿も、蜘蛛も、そうして……、辺りに生き返った猿と蜘蛛の妖怪が集い始めた。

「ば、馬鹿な、こんなことが」 

 敵の呟く声は弱々しい。そこには矜持を瓦解させた男の姿があった。

 白龍と相まみえるハルの元に集まった妖怪達が跪き傅くように首を垂れる。その様子を冨夜は呆然としながら眺めていた。

「五行は循環する。神々が均衡を保つこの異界は律を冒す者を排除する。それが道理。さらばだ、冨夜」

 白眉が引導を渡すと、雨に打たれる冨夜は、雨情に溶けるようにして姿を消した。彼は去り際に言葉を残すことも許されずに消滅した。

 冨夜が去ったのを見届けた後、笛は急ぎ顔をハルの方に向けた。背に蜘蛛と猿を従えながら、尚もハルは彼女と向き合っていた。その二人の様子を見て思わず顔がほころぶ。

「おかえり、白雪シラユキ

 ハルが両手を大きく広げて迎え入れる。羽衣を纏った天女がその腕の中に舞い降りた。

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