第49話 父と子
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天に漆黒の朔月が昇った。
陽が落ち、世界に闇が降りても決着はついていない。いや、決着どころか……。
まるで勝負にならなかった。
破笠の本気の力にも、尚仁の器量にも、猫の体を操る黄櫨の振る舞いにも舌を巻くばかり、神器を振るう笛の実力も想像以上だった。戦力はこれ以上無いほど高い。それでも、自分を含めて五人の猛者が息つく間もなく手数を出しても相手は一向に意に介さなかった。冨夜は涼しげな顔に眉一つ動かさず、まるで児戯を愉しむが如きで反撃すらしてこない。
「破笠、あれは何だ。化け物とはいえ元は人だろう」
茜は冨夜の動きを注意深く観察した。尋常ではない力を匂わせる敵は慈悲の心など微塵も持ち合わせていない。その気になれば造作も無く片付けられるはず。それがこのまま動かぬとはどういうことか。悠長に茜らが疲れるのを待つなどあり得ないだろう。これはやはり、ハルの存在を感じてのことか。
「力は昔を遥かに上回っております。しかしながら、これは……」
半ば途切れる声。破笠ほどの者が肩で息をしていた。
「そうだな、これは可笑しい。破笠、どうやら奴は」
「我ら如きでは、遊びにもならないということでしょう。そして」
「待っているのか、やはり、ハルちゃんを」
笛が雷撃を放った。一瞬の雷光に映し出される各々のシルエット。暗闇に包まれた戦場に只一人、冨夜だけが微笑む。他の者にゆとりは見えなかった。
馬鹿にされたものだな。茜は吐き捨て飛び出した。
宙を走るように突撃する。最中に印を結んで赤い炎を呼び出した。
冨夜の懐に入り微笑を浮かべる顔を睨み上げる。舐めるなと言いながら炎を纏った拳を打ち込んだ。――入った! 茜は手応えを掴むとそのまま連打を浴びせた。――これでどうだ。敵が身体をくの字にまげた。その様子を見て飛び退るや茜はありったけの炎を敵にぶち込んだ。
夜暗に火柱が立った。金色の鬼面が明かりを反射する。炎に照らされた朱の花が陰影を纏って怪しく揺れていた。やがて、炎が治まると始末を見守る五人も再び暗闇に包まれた。
「……茜殿」
名を呼ぶなり押し黙る破笠の気持ちに同意する。これはダメだと茜の感性が確信してしまう。顔を強ばらせた破笠に返す言葉は見つけられなかった。これまでか、と溢した茜は、夜目に冨夜の無表情を見ていた。
「待ち人は来ず」
冨夜が放った一言が場を制した。焦燥する空気が一気に冷めていく。
「まだよ!」
ひとり気を吐く笛の掛け声を聞き、俯く顔を上げる。茜は鬼面の下で歯を食いしばった。しかし……、諦めきれぬ彼女の気持ちは理解出来るが、これ以上はもう無理だ。
「皆、降伏なさい。お前達は私の臣、従うならばこれまでのことを不問にしてもよい。父上のように慈雨をその身に降らせよう。許す、これも善行。そして、生来の王とは得てしてそうしたものでもある」
「ふざけるな! お前が王なものか!」
笛が斬ってかかった。縦横に乱れ舞う切っ先が冨夜を捉える。が、太刀は冨夜の身体をすり抜けていく。
「借り物の神器ではどうにもならないよ、娘」
「うるさい!」
「ましてや、お前は雨音女ではない。惜しむらくはあの時に、名を受けられていたならばな。邪魔が入らねば力を得られたやもしれぬのに」
放たれた斬撃を悠々と躱す。残念であったな、と冨夜は嗤った。
「雨音女がなんだというのだ。そんなものは――」
気を吐き、返す刀をそのままに再びの攻勢に出る。
「父上と契約を結んだ雌の妖怪を雨音女と呼んだ。彼の者は、主と結んだ気脈から龍の力を引き出し行使することが出来た」
「龍の力?」
笛は動きを止めた。
「龍の三宝とはすなわち、龍の力そのものをさす。鏡は叡智、乙女は慈愛、天神地祇免状は力。雨とは龍の三宝を繰りて龍神の力を行使する者なり。そして、乙女も然り」
フッと溜め息をついて、冨夜は眼差しを上げる。笛から順に顔を追っていき、もうお止しなさいといって面に憐憫を見せた。
「冨夜様、あなたはこれからどうなさる」
静まる戦場に破笠の声が染み入る。後の者は黙して成り行きを見ていた。誰もがまだ戦意を失わせてはいないが、だからといってどうすることも出来ない。ここには希望を語れる者などいないのだから。
「特別、なにも」
「なにも?」
「私は、誅する者。雨の幻想に踊らされ、幻夢を見るものを始末するだけ」
「それは、ただの殺しだろ」
横から口を挟み、理屈などないと笛は断じた。
「然らば娘よ、我らは何故にこうして千三百年もいがみあったのか、何故、殺し合ったのか」
理屈云々ではない、全ては因果による定めなのだと冨夜は説いた。
「御託だな、それは、お前が――」
「違うぞ、娘。そもそもこれは父上が巻いた火種」
「雨様が、だと?」
「もっとも、父上の力不足と簡単には言えぬのだが」
「どういうことだ?」
「母上は、雨音女になれなかった」ポツリと溢すように話して冨夜は黄櫨を見た。「叔母上も同様に」彼は憐れむような眼で黄櫨を見つめた。あなたなら分かるでしょう。投げかけられた黄櫨はその視線をそっと外した。
「雨音女というものが、愛されている証しだとでもいうのか!」
不快を露わにして笛が問う。冨夜は儚むようすで首を横に振った。
「それは、周囲が勝手に決めつけたこと。母上は一度も嘆くことはなかった。しかし……」
「しかし?」
「それ以上は、叔母上に聞くがよろしいかと」
皆が黄櫨の方を向く。銀の猫が厳しさを眼に湛えて口を噤んだ。そんな黄櫨を見て呆れる様子で眉を持ち上げる。冨夜は仕切り直すように息を一つついた。
「破笠よ、先程、これからのことを聞きましたね」
「はい」
「瀧落は、雨を落とす者。父上以外に雨はおらず、この後も現れず。私は、名の尊厳を守る者。これは愛です。故、これからも雨が予期されれば晴らすまで」
粛々と
だがそれでも、その
「言いたいことは、それだけ?」
笛は胸を張って前に進むと、その言は詭弁だと吐き捨てた。その後、訝しむ冨夜の視線を撥ねのけて続ける。その執着はあなたの独り善がりよといって嗤った。
「物事を利己的に捉えて僻み、手前勝手に恨みをつのらせて。子供ね。あなたは自分のことしか考えていない。自分の幸にしか興味が無い。それは甘えることを許されている稚児のみに与えられること。大人になりなさい、冨夜」
笛は頑として言い切った。
「雛が言いたい放題をいう」
冨夜が伏し目に皮肉まじりの笑みを浮かべる。
「親の願いは、親だけのものだと言っているの。あなたは親の名前を守ると言いながら自己防衛をしている」
「世迷い言を――」
「欲しがるだけのあなたの想いは愛とは呼べない」
「欲しがるだと? 青臭い娘が知った風なことを」
冨夜が嘆くようにいう。次に、継承の重きことも知らずにと添えた。
「ええ、知らないわ。でも知らなくていいのよ」
「これはこれは、破れかぶれか」
「親は子に思いを託す。これは往々にしてあることなのだと思う。私の父もそうだった」
「託す? 間違えておるぞ。父は子らに何も託さなかった。家は子が守る。後嗣というものが親の思いを推し量るのだ」
「あなたこそ、履き違えている。有言も不言もない。親は子に背中を見せて語るもの。だけどそのことを忖度する必要など無い」
「ほほう。しかし、お前の話は辻褄があわぬぞ」
「親の心子知らず。それはそれでいいの。そもそも親の勝手な思いなのだから。どのみち子供はその託された枷を解いて己の道を行くのだから。大切なのは道を外さぬ事よ」
「ご立派なことだ。だがお前は、雨の名の何たるかを知らなすぎる。やれやれ、黒の後嗣もこの程度であるか」
「黒など、もうどうでも良い。もとより後嗣であることなど知らずに生きてきた。今更よ」
「嘆かわしい。右方を、由緒ある系図を捨てると? 伏して願えば再興もかなうというに」
「そのようなものこそ幻想」
「やれやれ、これはさぞかし雨の陰陽師も悲しむことだろう。眷属たる資格を貶めるとはな」
「その考えを固執といっているの。雨など降らない。彼は言ったわ、雨の再誕など虚ろな幻想だと、そもそも後継者なんて存在しえないのだと」
「……蒼樹ハル」
「そうよ、彼が教えたのよ、私に。その彼は雨でも何でも無い」
「当たり前だ」
冨夜の顔に険が立った。侮蔑の眼差しが笛を射貫く。
「そうね、そう、言うわよね。あなたは既に答えを得ているもの」
笛は大刀を一振りして鞘に収め涼やかに見返した。
誇らしげに笑む黒鬼の少女。彼女は鬼の形相に変わった冨夜に対して些かも動じることがなかった。その後、笛は怒気を露わにし始めた冨夜に慈愛を込めた眼差しを向ける。そうして、静かに、ゆっくりとした口調で冨夜の芯に言の葉の合口を沈めた。
「あなたは、雨の陰陽師になりたかった。でも、なろうとして、叶わなかった。雨はなろうとして成れる者ではない。そのことを、あなたはちゃんと分かっている」
たとえ名乗ることは出来ても、偉業までは継承されない。成さずば英雄には成れない。これは当たり前のことだ。何かを成し遂げた者のことを後生の者が語る。それが、英雄譚というものだから。成さぬ者は成れぬ。笛は断じてと言葉を重ねハルの勝利を告げた。
「…………」
冨夜は言い返せなかった。
「面白い、図星のようね」
「小娘が言わせておけば――」
「でもね、これ以上の
「彼、だと?」
「来るわよ、さあ、どうするの? 待っていたんでしょ、彼を殺すのでしょう、やれるものならば、やってごらんなさい」
笛は声高々と宣言し天を指さした。暗闇に覆われていた世界に薄い光が差し込む。
空に月が昇った。いや、正確に言えば、空に浮かんだそれは、朔月に重なるようにして姿を見せていた。
「……更け待ち月」
破笠が呟く。
地に竜巻が起こるとたちまちに朱の花弁が渦を成した。
「あれは、なんて禍々しい……」
黒鉄の大百足が天に咆哮を上げるようにして姿を現した。
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