第47話 小夜月

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 まるで夜の空に浮かんでいるようだ。

 横たえた身体をそのままに、ハルは上とも下とも区別が付かぬ空間を漂った。

 死んだという実感はなかった。いや、正確には死んだことがなかったのでまだ理解出来ないだけなのだろう。

 ここはどこなのだろうか、僕は――、

 自分の死を思い出したところで強烈な虚無感に襲われた。

 最後の最後に目にした地獄。善戦したとは思う。遣るべきことは行ったとも思う。それでも果たせなかった思い。失った数多の命。また、救えなかった。

「なんて寒々しいのだろう、こんなにも孤独で」

 激しく感情が揺れる。怒り、嗤い、悲しみが定まるところを忘れ次々と入れ替わる。

 最後に、なんだよこれ、と言葉に出したところでこみ上げる思い。ハルは手を額に当て泣きながら嗤った。

 一度に家族を失ったその日からずっと独りだった……、独りだと思っていた。

 だけれど、心中で呟いて涙を流す。思い浮かべていたのは、縁を持った者達の笑顔だった。

「そうか、僕はこんなにも幸せだったんだ」

 これまで死を恐怖したことがなかった。それは死というものが、失われた家族との再会の機会でもあると思えていたから。しかし、いざ死んでみればどうということもない。ハルの孤独は死して逃れられるものではなかった。

 結局、何だったのだろうか。

 古びた呼称に縛られるなどゴメンだと思った。平穏な毎日を取り戻したいと思っていた。

 普通の子供の目の前にはもっと多くの選択肢があって良い、もっと自由であって良い、と、そう思っていたはずなのに。

「馬鹿みたいだ。死んでしまってから気が付くだなんて」

 ハルは己の愚かさを嗤った。嗤いながら死を受け入れようとした。だが、

「そうだな、お前は思った通りの馬鹿だった」

「――え? 藤十郎、さん?」

 思いがけぬ事で唖然とする。辺りを見回して首を傾げた。すると、何かがハルの心にそっと触れた。暖かなそれは、気を読み取れと声のような意志で届いた。

 自分の内側にある確かな繋がり。一本の線は確かにこの場所のどこかに繋がっている。

 どこだ、と探りながら手を伸ばす。ハルはその意志を追い朧気な気を捕まえた。――君か、小夜。

「ハル様、あなた様はまだ死んではおりませぬよ」

 弾むような女性の声、その淑やかな声を聞いたのは、ごく最近のことだったと記憶を辿る。

「そうか、あれか!」 

 ハルは藤十郎と初めて出会った教室を思い起こした。あのとき確かに誰かに呼ばれた気がしていた。それは声ではなかった。心に触れるような、喜びの音、「見つけたわ、ようやく」と。

「あの声は小夜のものだったのか!」

「はい、如何にも、でございます」

 独り言のように話すハルの言葉に、嬉しそうに応える小夜。声の主を探して目を凝らすと、闇の中から光が……欠けた月が現れる。月は次第に人の形を成した。

 結われたまとめ髪。刺繍がほどこされた薄絹の衣に艶やかな帯。身に纏う羽衣はふわりと宙を漂うようにして小夜の身体を包み込む。まるで天女のようだとハルは見惚れた。

「おい、小僧」

「あ、ああ、はい」

「事情はいま聞いたとおりだ」

 小夜の隣に藤十郎が姿を現す。男の眼は覚悟の程を問うていた。ハルは目を逸らし押し黙った。また、逃げるのかと、聞き飽きた言葉を待ち構えながら。

「ハル様」

 労るように小夜が話しかけてきた。そっと眼を持ち上げる。儚げな笑み、憂えるような瞳がそこに見えた。ハッとする。思わず口を開きかけるが、躊躇う心が発言を嫌う。

 ハルは慌てて唇を閉じた。会話をすることから逃げた。分かっている。これは予感というもの。どことなく胸を締め付けるこの既視感には覚えがある。きっと小夜は何らかの重大な選択を突きつけてくる。

「助けるのか、助けないのか」

 お前は何がしたいのだと問う藤十郎。やはりそうきたか、聞くなりハルは俯いた。

「冨夜は言いました。全てが終わったと。揚羽が死んで無益に争うことはなくなったと」

「だが、黄櫨はやる気のようだぞ」

「覚悟があるのでしょう」

「覚悟?」

「殺される覚悟です。命を奪おうとする者は奪われることを厭わない」

「それでいいのか? 蒼樹ハル」

「いいもなにも、僕に出来る事はない。このような処に閉じ込められて何が出来ると」

「諦めるのか? 道を探すこともせずに」

「だから! どうすればいいのですか! 僕はこんなで。事情も分からずに巻き込まれて……そもそも、藤十郎さんは何も話してはくれなかったじゃないですか。なのに、この期に及んで戦えって、訳が分かりませんよ! それに、僕に殺しは……」

 こんな理不尽はない。そう叫んでハルは膝を抱えた。

「ハル様、お優しいハル様、父上は、そのようにお優しいの子だから情を交えてはならぬと子細をお話にならなかったのです」

 小夜が背中から抱きしめる。柔らかな衣がハルと小夜を包み込んだ。

「……小夜」

「ハル様、私達は探し続けていたのです。あの日から、偲化を討ったあの日からずっと」

「あの日から? 小夜、でも君は藤十郎さんに」

 いうと小夜が、はい、と直ぐに答えた。明朗な声は優しかった。

「それは私の過ち。冨夜に教えられ、竜王に願い出て銀の梨を得た私は、父上の解放を試みました。しかし、しくじってしまいました」

「教えられ、って、騙されたんだろ、冨夜に」

「見抜けなかった私がいけないのです。結果、自我を失ったまま虫として封じられていた父上までも貶めてしまった。あのとき、身を犠牲にしてまで化け物を退けた父の思いを無にしてしまった」

「……そんな、そんな言い方って」

 ハルは藤十郎に眼で問うた。先程から腕を組み黙って聞いている父親に、何か言うことはないのかと問いただした。

「もう喰った後だったからな」

 藤十郎は相変わらず眉一つ動かさなかった。

「だから? だから自分には非がないとでも、罪がないと――」

「罪か」そんなものはと言って藤十郎は虚空を眺めた。ハルは言いかけた言葉を飲み込んだ。妖として死ねない時を慚愧と共に生かされてきた父親の、これはなんと悲しい思いか。

「すみません、僕は……」

「良いのですよ、ハル様。私達はもう長いことそのように生きてきました。それに、罪を問われれば私にもあるのです」

「小夜」

「この黒鉄の化け物は人の生き血を欲する。飢えれば我を忘れて荒れ狂う、それが黒百足の性。故に、私達は度々人間を殺した。妖力を持つ人間を殺してきました」

「……人を殺してきた」

「はい。といっても父の名誉のために言うのならば、決して善人は――」

「よせ、小夜、人間の命に善も悪もない。どんな聖人だろうと、ふとしたことで転ぶ。これが世の常というものだ」

「はい、父上」

 ハルはここで理解した。出会った時の藤十郎の振る舞いの意味を知った。

「藤十郎さん、小夜を救う手立ては」

「それはもういい」

「いいって、あなたはずっと小夜のために」

「覚えているか、小僧、白眉の言ったことを。白眉はあのとき、小夜に兆しを見ていた。それが何なのかは、今のお前ならば分かるだろう」

「……兆し」

「身体が保てなくなっていただろう。力の枯渇を感じていたのではないか」

「あれが、何か」

「どういうわけかは分からぬが、お前を呑ませた後に異変は起きた。小夜はもうじき竜へと変化する。そのせいでお前に力を流すことが出来なくなった」

「竜へと、それでは、ようやく小夜は」

「解かれぬ」

 藤十郎は即座に首を振った。

「ハル様、よろしいのです。もう私のことは」

「もういいって、そんな、諦めるなんて、まだ何か、何か方法が。そうだ! 生まれ変わりだ。言っていましたよね、あの森の中で」

「残念だが、手遅れのようだ。小夜に時間は残されていない。竜となればこの百足は完全に小夜と融合してしまう。なにせ元が竜のなれの果てだからな。……それで終いだ」

「入れ替われば良い」

 思いついたままを口に出す。強い眼でハルは訴えた。根拠など無かったが出来ると思えていた。自分と小夜の魂は繋がっている。妖気が意志を持って動いているこの身体、自分はもう人ではない、ならば。

「相も変わらぬ。他人の為ならば自己犠牲も厭わぬか。お前は、やはり馬鹿だな」

「藤十郎さんは、偲化と入れ替わった。なら今回も出来るのでは? そもそも藤十郎さんの本体はここにはない。おそらくあの武器を依代としているのではないですか? その上でこうして自由に行き来が出来るのならば、やり方はもうご存じなのでしょう。教えて下さい」

「小夜が承知しない。主導権はあくまでもこいつだ。俺には出来ぬ」

 眉間に憂いを浮かべて藤十郎が口を噤む。

「小夜、僕を喰え!」

 ハルは頑とした意志を示した。小夜が驚き目を見張る。そうして暫し固まった後にそっと顔を背け、首を横に振った。

「説得できるなら、もう出来ている。こいつは雲華と似て強情でな、言い出したら聞かぬ」

「……雲華? それってまさか」

「雲華、元の名をヨウカという。こいつの母親だ」

 哀愁を帯びた声を驚きで迎えた。束の間、ぼうっとしたまま口を開けていることさえ気が付かない有様。その気抜けた様を払いのけたのは怒りの感情だった。 

「竜の三宝、なるほどそういうことですか。あなたは全てを知っていた。そして母親も同じく全てを知っていた。それなのに」

 何をやっているのだと怒気を向ける。藤十郎は目を伏したままフッと息を吐くように笑みを浮かべた。

「母を責めないでくださいまし」

 それは仕方の無いことなのだと小夜は話した。落ち着きのある、覚悟を含ませたような声だった。ハルは、何も言えなかった。握りこぶしに力を込めるしかなかった。

 ――ただ、愛しただけなのに。

 何故、このように苦しまなければならないのか。白龍と守人と娘が何をしたというのか。

「ハル様、最後にお願いがございます」

 俯くハルを抱きしめる小夜。春の木漏れ日のような温もりが身体を包んだ。

「――最後?」

 ぼんやりと受けて顔を上げると、白い指がそっと頬を包み込む。小夜が優しい眼差しで見つめ微笑んだ。

「今、あなたの心はここに戻りました。さあ、お返し致しましょう」

「これは、僕の身体……」

「これであなたは真の力を取り戻すことが出来ます」

「真の力……」

「そうです。百足に喰われた私を竜の姿に戻すほどの力。ただの虫に感情をあたえ、自我を与え、話すことを与えた。これがあなたの力。冬を春へと変じる生命の力」

「僕の、力……」

「ハル様、どうかその慈愛の力で、この無限牢獄を、百足を私達もろとも殺して下さい」

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